2013年8月28日水曜日

仏教の信心

 宗教というと信じるものだと考えていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。実はお釈迦様は仏になる方法をお説きになられましたが「信じなさい」とはおっしゃいませんでした。あれれー、宗教というものは信じるところから始まるものと言いますが、全然宗教らしくないではないですか。それに親鸞さんは信心っておっしゃっている。お釈迦様と親鸞さん、どうなっているの?そこのところについて書いてみたいと思います。
 今時、宗教って言って思い浮かべられるものは、神サマ仏サマって超越者がいて、その超越者にお願いするものということだと思います。神サマ(ここからは神サマだけを例に考えます、仏をいれると話が複雑になりますから)にお願いするためには、最初に信仰がないといけない。神サマは自分を信じたひとをなんとかしてくださる、という形だと思います。宗教の種類によっては神サマに寄進するお金が多いほどご利益があるとか、修行したから、聖典をよんだから、勉強したから救われるという形もあります。これがごく一般的な宗教を信仰するというイメージだと思います。
 お釈迦様はまず信じなさいとはおっしゃいませんでした。「別に仏教徒にならなくてよいから話を聴いて」というふうに他宗教のひとたちにも教えを説いていたそうです。そして、お釈迦様の教えには特別な能力を持った超越者は登場しません。仏とは悟った人間のこと、仏とはひたすら崇めるものではなくて人間がなるものです。ですから正確には「仏さまお願い」というのは仏教ではないのです。日本でも平安時代までの仏教では、信じることよりも戒律をまもり(戒)身心を調え(定)自分の都合をなくす(慧)ことに重きをおいてきました。それを「わたしなどは戒−定−慧の三学を実践できる身ではありません」とカミングアウトされたのが親鸞さんの御師匠法然さん。たくさんのお坊さんは修行して経典を読んで悟ればよいかも知れないが、そのような行のできない、またその能力もない多くの人間はどのようにして仏となれるのか、と問うたのです。そして、法然さんがお釈迦様のたくさんの教えの中からこれだと選ばれたのが阿弥陀仏の本願によって仏となる教えでした。自らによらず阿弥陀仏の本願にたのめ、あずけよという教えです。この阿弥陀仏の本願、みなさんひとり残らず仏となってくださいという願いを信じることが信心であるのです。阿弥陀仏を信じて頼むというのとはちょっと、いやかなりニュアンスが違います。
 たまに阿弥陀仏信仰を、ほんらい無神教であった仏教を一神教の教えにかえしたというふうに説明されるひとがおりますが、阿弥陀仏信仰は一神教ではありません。
阿弥陀仏とは、お釈迦様の発見した縁起、龍樹菩薩の説かれた空、その、すべての事柄は私の考えたとおりにならないという真実にあって、その考えたとおりにならない身のまま仏にするというはたらきのことを言います。私が縁起によって起こっているという自覚を持ち、縁起による実存にハッキリと目覚めることであります。ところが自分の能力、自分で考えた善行というものに執っているとなかなかその眼が開かない。その自分というものを手放すための必殺ワザが他力の信心なのです。「仏を信じたから助かるのでない、信じることは助けの因ではない、仏のお助けを信じるのだ、それで助かっているということを味わうことができるのだ。」ということなのです。
 一般的に考えられる神サマと私の関係では、神サマを信じたからいいことがある、救われるというふうにみられますが、そのように信じたから救われる関係は取り引きの関係です。そして結果的には盲信して神サマに従属する人間を生み出してしまいます。自ら考え、自ら感じ、自らの足で歩むことを止め、神サマの奴隷になってしまうのです。お釈迦様はそのような思考停止すること、奴隷になることを執着だと言って、それが惑い苦しみの生まれてくるもとだと明かしました。ですから、阿弥陀仏信仰も、阿弥陀仏を神サマのような超越者にとらえて信仰し、頼むなら困ったことになってしまいます。阿弥陀仏は人間を奴隷にするものではありません、逆に人間を硬直させ思考停止に陥らせるものから解放する教えです。ですから「まず、信じよ」ではないのです。親鸞さんのおっしゃった他力の信心とは阿弥陀仏の願いに眼がひらいたということです。親鸞さんの教えでは信じることから始まるのではないのです。信じることができるようになることが目的なのです。それを信楽(しんぎょう)とおっしゃっています。正信偈には「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」とあります。「信楽を得ることは難中の難」だということでございます。でもめざすべきはハッキリいたしました。仏教の信心ははじめにあるのではなく、仏になることなのです。

2013年8月27日火曜日

信じてます?

 「私は仏さまも神さまも信じていません」今時はこのようにサッパリとおっしゃる方が多いと思います。これを無信教と言いますが、そのわりに占いごとに一喜一憂し、なにかあるとお祓いをして、家など建てるときには方角を気にしたりします。どうして気にするのかというと不安だからだと思います。仏さまも神さまも信じていませんと言ってみても、曖昧模糊とした不安はなくなりません。信じていないと言いながら潜在的に気にするのですからもっとたちが悪いのかもしれません。
 お釈迦様は「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともに捨てた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう」(スッタニパータ)と、お教えになりました。祈祷、占い、縁起をかつぐこと等は、根本的な問題の解決にならないばかりか、さらに眼が曇って惑うことになるから、正しく道を歩むためにはそれらの事柄を捨てさらなければならない。と、お教えになられたのです。
 親鸞さんは「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」正像末和讃(真宗聖典509項)と和讃にうたわれております。僧侶も世俗のものも、良い時良い日に執われ、天のの神や地の神を崇めつつ、占いや祈りごとに余念がありません。なんとかなしいことだ。とおっしゃっています。もともとは占い祈祷、方角等のことは、これでいいというものがないと不安であるからつくられた文化的な慣習であるとおもいます。しかし、そうした慣習はつぎに人間を縛り惑わせることになります。そうした慣習によって自分を失いふりまわされる人間の姿を親鸞さんはかなしいとおっしゃったのです。
 仏法は惑いと苦しみのもと、執着することを離れる教えです。常に人間を執着から解放して自分の存在を獲得してゆくことを目指す教えです。惑いごとから離れて、縁起によって生じている自分自身の存在を発見することによって安心を得る教えです。盲信はダメです、仏法では常に信じることと疑うことがセットになってあります。お釈迦様は全ての物事を疑いなさいとおっしゃいました。お釈迦様の説く仏法さえも疑えとおっしゃったのです。真宗の教学者金子大栄さんは「疑って疑い抜いたさきに信心がある」とおっしゃっております。仏法では「信じなさい」とはいわないのです。お釈迦様なんて「別に信じなくてもいいから私の話を聴いて下さい」って言ってたそうですから。
 仏法に依って、占いや祈祷ごと、天の神地の神の呪縛から解放された自由な道、それを親鸞さんは無碍の一道、碍(さわ)りの無い道と呼ばれました。親鸞さんのおっしゃった信心は盲信とは違います。盲信を離れて阿弥陀仏におまかせする心です。疑いつつ堅く信じるのですからちょっとアクロバティックなところもあります。疑って疑って疑いぬいてもうどうにもならんようになったところにあるのが信心です。だから執われごとや呪縛から解放されるためにあるのが仏法です。そして、人間が本来抱えている曖昧模糊とした不安、畏れをなくして下さる教えであります。信じようと信じまいと阿弥陀さんの願いは働いておるのだと言います、信じることは私の身に仏を活かすこと、あっこれは前の投稿でも書きましたね。

2013年8月19日月曜日

海の中

海のなかから撮ったもの。泡が星のようで宇宙みたい。

お念仏。

 高齢のかたにご法話するので、準備。
 仏法とはお釈迦様の説かれた教え、この世界にあって惑い苦しむひとを助ける教えであります。
 仏法で助かるというのは、惑い苦しみの原因がほどけるということです。今日は面白くないことがあった、ああ身体の調子が悪い、あのひとのことキライや、仕事に行きたくない、ああめんどくさい。私は日々愚痴と文句を言いながら暮らしております。そんな口に出さなくとも、心のなかでは一日のうちに何度も、ひっきりになしにああだこうだと愚痴もうしているのが私です、大丈夫です、それが普通なんです。ところで、そんな私が助かるには、愚痴言うもとをなんとかせねばなりません。お釈迦様が発見なされたのは、物事には原因と結果があるという、この世の中の決まりです。愚痴言う原因をなんとかすれば愚痴も言わんでよくなる。それでは愚痴言うもととはなんでしょうか、それは私の心です、心がいつも愚痴を言っているのです。その心になんとか黙ってもらう手はないものかと、お釈迦様はひじょうにたくさんの教えを説かれました。浄土真宗の宗祖、親鸞さんが選ばれたのは、そのたくさんの教えの中から阿弥陀さんの願いによって助かるという教え、南無阿弥陀部とお念仏をとなえる教えです。教学者の暁烏敏さんがおっしゃるには、阿弥陀さんに助けられるには、信じる心がないと助からないのかというと、そういうことでもない。信じる心はお助けの条件ではないのです。信じるからお助けがあるのではない、お助けを信じるのです。無条件のお助けをそのまま受け取って何事も阿弥陀さんにまかせるのが信じる心というものです。この信じる心の目が開けてはじめて阿弥陀さんのお慈悲を味わうことができるのです。ですから、私たちが仏を疑うならば、それは仏を殺すこと。仏を信じるのは仏を活かすこと。私の身に仏さまのお慈悲が働くよう仏さまを信じたほうがよいではないか。少し意訳しましたが、このようにおっしゃっております。念仏の教えは他力の教えと申しますが、そうやって愚痴言う私の心を阿弥陀さんにおまかせすることで無明の眼がひらき、助かるのだということです。
 実は、このように申しておいて、その阿弥陀さんの願いというやつが今ひとつよくわからんと日々思っているのが、今お話しているこの私です。残念なことに私にはこの阿弥陀さんの願いというものがまだよくわかりません。ですが、この頃確信を持って思うようになったことは、理屈が難しいのではない、繰り返し教えの言葉に触れることが大切なのだということです。親鸞さんも、念仏もうしてありがたい心がわきあがってこないのも、私の煩悩の深さゆえだとおっしゃっています。そして、その深い煩悩具足の身であるからこそ阿弥陀さんに助けられるのだとはっきりとおっしゃっております。御和讃にもくりかえし、念仏が一番だ、良い悪いと言うならば、念仏に勝る善はない、念仏もうせばお浄土のいちばんのところに生まれることができると書かれています。親鸞さんがおっしゃることですからたのもしいことだと思います。
 なれぬ法話をお聴きいただき、どうもありがとうございました。

2013年8月13日火曜日

仏法を聴いてよいことはあるの? 追加

 前回、仏法は人間共通の苦しみ「老病死」にたいしてあるみたいな書き方になっていました。だいぶと乱暴ですね、すみません、反省。
 仏法は人間が生きていればかならず遭遇する苦しいこと、惑うことにたいしてひらかれた教えです。善く生きるとはどんなことか、悪とはなにをもって悪とするのか、なぜ人間はストレスを受けるのか、他人にとってもたいしたことない問題にどうして私は死ぬほど苦しむのか、理想的な社会を築くなら無視できないこと、等々。
 こうしてポンポンお題が思いつくわりに いざ書くとなると大変なのですが、機会をみつけて書いてゆきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

仏法を聴いてよいことはあるの?

 人間はいろいろ望みながら、不平を重ねて、苦しいなぁと思ったり、たまに楽しいと感じることもありますが、ストレスを感じたり人生に畏れを抱いたりして生きております。望んだようになりたいと願うから 会社で出世するための本が売れ、人間関係を上手にする講演会にひとが集まり、病気が苦しいから健康についてのテレビ番組に人気が集中します。みんな熱心に健康について、蓄財について、美容について情報収集されておりますが、はて、お釈迦様の教え、親鸞さんの教え、仏法についてはどうなのでしょうか?
 どうも仏法には会社で昇進する方法は書いていないようです、健康についても医学のほうが具体的で明快です。仏法では投資のコツについてなんて教えていないですよね。それじゃあ、仏法を聴いても仕方が無い、そう思うのではないでしょうか。なるほどです。いや、広い意味ではお釈迦様の智慧は投資にも健康にも役立つだろうと、私は思いますがそこのところは話がとりとめなくなるのでやめておきます。
 それでは、仏法など聴かなくても人生大丈夫で生きてゆけるのでしょうか?いや、なんか忘れているような気がしますね。それは、いくら健康にきをつけていても病気にならないことなんてできるのでしょうか、アンチエイジングに多大な努力を重ねても老いの時計を止めることはできません、そして関わりたくないと考えていてもやがてやってくるのは死ぬことなのです。
 王子様として生まれ、不自由なく暮らし、勉強もスポーツもできてイケメンだったお釈迦様が遭遇したのも この生きていれば、時には病んで苦しみ、必ず老いて死に至るという人間の現実でありました。たいていはそのような必ずある苦しいことから眼をそらして、美味しいものを食べたり、楽しいことをしたり、きれいなものを眺めたりして心を紛らわしながら生きてゆくのですが、お釈迦様は逃れることのできない苦しみに正面から向き合って生きられたのです。お釈迦様は病気にならない身体をつくるのではなく、不老長寿の方法を実現するのでもなく、不死の存在になろうとしたわけでもありません。病気になること、老いること、死ぬこと、その他自分の思うようにならないことで起きてくる苦しい心が どうしてあらわれてくるのかと探求なされたのです。ですから、仏法が実現するのは病気になっても大丈夫、老いてへっちゃら、死ぬことも受け入れることのできる心です。だって、人間の心は厄介なものですから、健康かつ不老不死の身体を手に入れたからといって苦しまないとはかぎらないのです。ひょっとすると、永遠に生きなければならないということは、超がつくほど苦しいことかもしれないのです。そういった視点で、苦しみを起こす自らの心を深く観察してお釈迦様は悟りをひらかれました。
 そんな、人間であれば誰でも抱えることになる共通の苦しみについて、お釈迦様が説かれた教えですから、仏法を聴くということは何にも増してよいことだと申したいです。

2013年8月8日木曜日

お念仏をとなえても、、、

 真宗の宗祖 親鸞さんの教えの中心は念仏、「念仏して阿弥陀如来の本願に救われよ」ということであります。私は寺に育ちましたから、小さな頃から念仏、阿弥陀さん、本願という言葉にふれてきましたが、坊さんの教師の資格をとり、住職になり、四十半ばのおっさんになった現在でも念仏して救われるということが腑に落ちず、よくわからないことの一番として残っております。お釈迦様の縁起の法、龍樹さんの空、天親さんの唯識等「なぁるほどっ!」と自分なりに仏教の考えの深さに感嘆してきたことはあるのですが、「南無阿弥陀仏」ととなえてみたところでウソ臭く感じるばかりなのであります。などと長年思っておりましたら、親鸞さんも言っておられた。
 歎異抄の九条に、
「浄土往生の道は念仏のほかないと信じて、念仏もうしているけれども歓喜の情もうとく、浄土を思慕する心も薄い。これはどうしたことであろうか。それが唯円の思い惑っていることであった。
 その不審に対して親鸞は、自分も同様であるあると答え、そしてよくよく案じ見れば、それでこそ本願念仏の有難さが感ぜられると語るのである。よろこぶべきことをよろこばせないのは煩悩の所為であり、浄土のこいしくないのは苦悩の世界に執着があるからである。そこに悲願のかけられた人間の現実があるのである。しかればその現実を機縁としていよいよ大悲大願を仰ぎ、往生も決定と思うべきである。
 念仏はわれらを恍惚の境にに導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。」(歎異抄 岩波書店 金子大栄校注から)
 そうか、親鸞さんも唯円さんもそう感じておられたのですね、という安心とともに「だから往生も決定」ということばに大どんでん返しをされた感があります。が、最後の「念仏はわれらを恍惚の境にに導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。」というところ、とても大切と思いまるまる写しました。

2013年8月1日木曜日

フランシス・ベーコン

7月に美大の友人と豊田市までみに行きました。9月1日までやっております。
哲学者のフランシス・ベーコンではありません、画家のフランシス・ベーコンです。
でも、哲学者のフランシス・ベーコンの子孫だそうです。とにかく衝撃的な絵画作品です。フランシス・ベーコンの作品をこんなにまとまってみれる機会はめったにないのでおしらせ。

写真を投稿

文字ばかりは目がたのしくないので。

こどもにかえる。

 こどもの頃の友人と一緒にいると童心に帰ることができると言います。こどもの頃に築いた友人関係はステキなものだという言い方もできますが、仏法では人間の人格は自分をとりまくものとの縁で立ち上がると言います。すなわち、子どもの頃の人間関係に出会うから自分自身のキャラがこどもの頃になるともいえるのです。だって、小学校の頃の友人グループと、全く別の高校生の頃の友人グループに同時に出会ってしまったら自分のキャラクターの立ち位置に困ってしまうでしょ。私はそれでキャラの置き場所に躊躇したことが幾度もあります。私というものは縁起、すなわち自分と自分をとりまく状況から立ち上がってきているのです。

小さな安心

 人間は生きてゆくうちにいろいろ経験して知恵がついてゆくものです。知恵は人間どうし社会を形作ってゆくために必要なものですし、大人になるとはそういうことだと言ってしまっても過言ではないでしょう。経験したり勉強したりして「知る」ことはよいことですが、「知る」ことに常にくっついてくる困ったことが「思い込み」です。ある事柄についてすでに私は知っていると思い込んでしまう事、これをお釈迦様は「無明」とおっしゃいました。
「思い込み」は日常の様々なところに登場します。例えば「成人男子はかくあるべきだ」とか、「有名な景色は美しいに決まっている」とか、「ゴキブリは汚い」とか、いろいろ。
それで、「思い込み」にそぐわない事柄に遭遇するとなにかと不快な思いがわき上がってきます。なんで不快になるのでしょうか。
 人間は「思い込む」ことで安心を得ています。パリッとしたスーツを着て、身のこなしも言葉遣いも丁寧な人間にあうと「このひとは立派なひとだ」と思ってしまう。逆に言葉遣いも悪く、身なりも薄汚れたひとは「ああダメなひとだ」と思ってしまう。身なりや言葉遣いでひとの善い悪いまで決定することなどできないのにそう思い込んでしまう。※
キレイなものはキレイ、立派なものは立派、善いことは善いこと、こう思い切って思考停止することで社会生活上の安心を得ているわけです。ところが、この「思い込み」によって得られる安心は小さな安心なのです、とても小さく脆い安心、増して言えば深い探求に裏付けられた安心ではありませんから、私の「思い込み」にそぐわない現実の事象に遭うたびに狼狽し、翻弄され迷い苦しむことになるわけです。それでも、私は安心がなくては生きてゆけないから「思い込み」にしがみつき、「思い込み」を揺さぶるものを嫌悪し悪感情をいだきます。ときに攻撃することもあります。ゴキブリをみると放っておけないのもきっとそうなのでしょう、部屋にキレイな蝶蝶が迷い込んで来たらソッとしておくでしょう。
人間私は正しいという考え、善悪に執着して世界の実相から目を背けて生活しております。ほんとうは、私に善悪があるわけでないのです、正しいことも何なのかわかりません。この私が「思い込み」を抱えてジタバタともがいて生きているという事実があるだけです。
「思い込み」が小さな安心だと申しましたが、「思い込み」を離れることができないのも私という存在の事実であります。そのことを踏まえて親鸞さんが教えられたことは阿弥陀さんをたのめという念仏の教えです。この念仏の教えは大きな安心であろうと思います。阿弥陀さんをたのむということは、お釈迦様の智慧をもとにして 縁起に生きる自覚を持つということです。自分の生きている現実に沿って生きるのですからどんな現実に遭遇しても大丈夫なのです。仏法は幸福を求める教えではありません、安心を得る教えであります。

※ 実際には丁寧な言葉遣いというのは自分を守るためにあるものです。言葉の丁寧さで相手に敬意を示すという姿勢もありますが、丁寧な言葉遣いをして人間関係に適度な距離を置くことで自分を守るのです。ですから、誰に対してもタメ口でしかやりとりできないひとは「こいつは態度が悪いヤツだ」という「思い込み」を相手に与えて、マイナスの評価から人間関係をスタートしなければならない、それだけです。そのひとが本当にダメなひとかなんてわからない。タメ口しかきかないけどよく仕事をしてくれるひとは実際います。言葉遣いは丁寧だけどなにもしないひとももちろんいます。だから身なり言葉遣いとそのひとの善し悪しというものは本来関連性がない。「悪い印象」という「思い込み」があるだけなのです。