2014年8月22日金曜日

ツィートから

仏教のことを哲学だと私は以前言っておりましたが、仏教は宗教だと思います。哲学的な深い探求のうえに成立した宗教です。哲学というのは理解しないとはたらかないのです。哲学を聞いてチンプンカンプンのひとは救済の外です。→

→宗教は全てのひと、学力、体力、財力、権力に関係なくはたらいて宗教です。だから頭で理解しないままでもはたらくことが不可欠な条件です。自分では量ることのできないものを信じる、すなわち南無阿弥陀仏です。→

→だから同時に危なっかしいわけでもあります。変な宗教を盲信したら大変なことになった!って話はよくある話です。だけどね、自分で理解したとして、それが正解なのか間違いなのか人間である以上わからんのです。自分の理解自体が間違っている可能性もある。→

→宗教を信じたほうが心は安定します。これは最近特に思うことです。人間が自らの知識に依って、考えて判断することには限界があるんです。自分はどうして存在するのか、そんな根源的な問いを抱えて日常を生きるのはとても心の負担が重い。これは心理学者の河井隼雄さんが言っておられました。→

→だから宗教があるほうが楽で安定しているとおっしゃっています。あ、と、は、変な宗教にひっかからないこと。そこが難しい。だって宗教は自分でわかって判断することのできないものだから。頭で理解して変な宗教を避けることはきっと不可能だと思います。→

→変な宗教から身をまもりながら宗教に接してゆく、これがこれから必要なのではないでしょうか。その唯一の方法は疑うことだと思います。疑いながら教えを聞いて間合いを計っていくわけです。親鸞さんが師匠の法然さんのところに百日間通って後入門する、これは疑っていたのだと思います。→

→自分で疑って、疑い抜いて教えを聞いたら、あとは身投げするように信じるしかないわけです。その心を親鸞さんは騙されて地獄に堕ちても悔い無しと言っておられる。なるほどなぁ、もの凄いことだなぁと思います。でも、とりあえずは「信じよ」って言って来る宗教が怪しいという根拠にはなりますね。

顔見知りのまちで暮らす

 お坊さん、園長どちらもそれなりに顔の広い職業であります。羽咋の駅前にゆけば停まっているタクシーの運転手さんたち、ほとんど顔見知りのひとです。お坊さんは役割上タクシーを利用することが多い仕事なのです。スーパーに買い物に行っても一人か二人はお寺、幼稚園を介した知人に会います。値段の高いものを買うと贅沢していると思われるかな、お惣菜なんかたくさん買うと格好わるいかな、なんてことを考えてしまいます。だから知ったひとのいない遠くのスーパーまで買いに出かけるというひともいます。私も自分が痔かも知れないと悩んだときは、わざわざ金沢市の薬局でお薬を求めたことがあります。やっぱり顔見知りの多いことは窮屈なことなのでしょうか?

 かって、移動手段が限られていた時代においては田舎に住もうと街に住もうとお互いが顔見知りであるというコミュニティを形成して生活してきました。お互いが顔見知りであるということは、常に複雑な人間関係がはたらいているということです。顔見知りのなかで暮らすと「変なひとだと思われやしないか」「立派なひとと思われたい」「陰口を言われるようなことにはなりたくない」という心が生じます。だから窮屈だと感じます。ひとが大なり小なり顔見知りのコミュニティがある故郷を離れて、誰も自分のことをしらないであろう場所に移動したがるのは、そうした窮屈さから解放されると心が楽に生活できると思っているからです。

 自分のことを誰も知らない街を一人で歩いていると、自分が暴れます。不機嫌な顔をしてもいいし、不親切なひとになることもできる。周囲の人間にたいする想像力がはたらかなくなって、傍若無人にふるまうようになります。仏教では、自分というのは記憶や経験、周囲の環境も含めた様々な縁によって生じているものだと教えています。自分の都合を適度に抑制してくれるものがなければ、とことん自分の都合が増長して迷惑な人間になる可能性が高いのです。自分のことを誰も知らない場所で暮らすと、人間は自分勝手な困ったひとになる傾向があるのです。お互い自分の都合を抑制しないから、暮らしは世知がないものになります。互いに不快の因となって怒ることの多い日常になります。

顔見知りのコミュニティで暮らすのは窮屈だ、知らないひとのなかで暮らせば世知がない、はたして、私たちはどこに住んだらよいのでしょうか。

 人に立派なひとだと思われたい、キチンとしたひとだ、ステキなひとだと印象づけたい、これはただの煩悩であります。そもそもそこまで自分のことを気にされていないのに、あれこれ自分のなかで他人に与える印象を考えて煩悶しているのが人間なんです。人の噂も七十五日ということわざがあります。たとえ噂にのぼっても七十五日しか(も!?)保たないよということです。七十五日ほおっておけば消えてなくなるものに大きく心を煩わせて暮らしているのが我々です。これは立派だとかステキだとか思われたいという煩悩のほうをなんとかしたほうがよいわけです。あのひとは変わっているなぁ、あのひとも人間だなぁという見られかたを受け入れてゆく。そうすれば顔見知りのコミュニティで暮らす心労が軽減でき、なおかつ顔見知りのコミュニティであるからこその安心のなかに暮らせるのです。顔見知りの安心、これは特に子どもやお年寄りにとっては大事なことなのではないでしょうか。

 親鸞さんは「愚禿鈔(ぐとくしょう)」で「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」と2回も書いておられます。「愚禿と名のる私の心は、その内側には愚かさを持ちながら、外見には賢く振る舞って生きていこうとしている。」という意味であります。自らを偽らず、自らに向きあって煩悩具足の自分を生きよという教えだと思います。煩悩具足の自分として生きるからこそ阿弥陀さんのお助けが活きてくるのであります。

2014年2月3日月曜日

UFOとお坊さん

 (先々週になったけど)沖縄、那覇市の上空にUFOが出たそうです。私もYouTubeで撮影された動画を見ましたが、色が次々と変化してとても綺麗に見えました。こういうことがあると、その映像はニセモノ、トリック撮影やCG合成だと言い出す人がおりますが、なぜそういうのでしょうか?または、UFOには宇宙人が乗っていて、地球を偵察にやってきているのだという人もおりますが、どうやったらそこまでわかるのでしょうか。
 「お坊さん的にはUFOってどうなのよ」って、別に聞く人がいるわけではありませんが、仏さまの教えにてらしてお書きしたいと思います。まず、個人的にもお坊さんとしてでも、キラキラと光りながら空を飛ぶわけのわからないものは存在するのだろうと思います。私もCG映像をつくったり、教えたりしておりましたから、合成映像に関しては敏感な方です。それでも沖縄のUFOは自然なようにみえました。ただ、それが宇宙人の乗り物であるかはわかりません。私の社会経験上説明のつかないものが空を飛んでいる映像をみたというだけであります。
 ところで、人間は説明のつかないものには拒否反応がでるようです。さきにあげた、何が何でもUFOは存在しないんだと主張するひと、一方で想像をふくらませてUFOを宇宙人の乗り物だというひと、これはどちらも説明のつかないものがあっては困るという姿勢で同一です。とにかく何等かしら説明をつけてわかったことにしないと気持ちが安定しないのです。それでUFO以外にもたくさんの説明のつかないことを無いことにして暮らしているのが現代の人間の生活です。ときにしばらくの間なかったもの、あるはずなんだけどあってほしくないものも無いことにするのが人間の心のはたらきです。地震や津波、竜巻、国の経済の破綻などがそれにあてはまるだろうと思います(かと言ってやたら心配して生きるのがよいとは言いませんが)。
 現在の科学で説明のつかないことはたくさんあるだろうと考えます。だからと言ってそれをオバケのせいにして恐れおののいたり、お札を貼って呪文をとなえるなんてことは、本来しないでよい心配をする愚かな行為です。一方で「科学で説明できないことは存在しない!」なんて言うのも「人間は神様が創造されたのだからお猿から人間が進化したなんてあり得ない!」って言っているのと似たものです。解剖学者の養老孟司さんはこのことを「バカの壁」とおっしゃいました。先日のSTAP細胞の発見も、研究者の小保方さんがまわり中からあり得ないと否定されたことを一心に継続して研究された成果です。本当に科学的なひとは物事にたいしてとても柔軟なひとだとおっしゃる学者さんもいます。仏法では、自分の心のはたらきをなるべく小さくして物事を見るように教えています。南無阿弥陀仏のお念仏もそのためにはたらきます。
 UFOとは、未確認飛行物体のことですから、空を飛ぶなんだかよくわからないものが存在するのは事実です。でも、そこに宇宙人が乗っているうんぬんは人間の心が勝手に考えたことです。空を飛ぶよくわからないものをキッカケに想像力をはたらかせて、他の事象とも関連づけて推理する、これはわからないことを知ろうとする人間の大事でステキな能力と思いますが、自分で考えたことに縛られて、恐れおののくようになる、他の説明(例えばUFOは未発見の鳥だとか)を受け入れられなくなると、それは愚かで嘆かわしいことになります。親鸞さんが正像末和讃で「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」(2013年8月27日のブログに書いています)と書かれたことは現代の私たちにもあてはまるのであります。

2014年1月28日火曜日

しらない人にお金を貸しますか?

 関西に住んでいる友人が、夜中に見知らぬ人からお金を貸してくれと頼まれたと、インターネットで書いておりました。真夜中にコンビニへ出かけたらホームレス風のおじさんに家へ帰る金がないから電車賃を貸して欲しいと頼まれたそうです。病院へ来たのだが帰れないと。説明に納得しがたいところもあったそうですが、友人はお金を貸してあげたそうです。ただ、そのことでいろいろ考えることになった。本当に家に帰るお金がないのかどうかもっとキチンと話を聞くべきだったと、いろいろ心を迷わせることになったと書いていました。
 それで、いろいろ迷い、考えをめぐらせながらも結局お金を貸した友人をえらいと思います。貸すということはその人を信じる方に賭けるということです。騙されたのならそれはとても不快なことですから、私ならば、さんざん話を聞いておいて貸さなかったかも知れません。外国では人にお金を恵むと、その人が自立するきっかけをなくするから恵んではいけないと考えるところもあります。でも、それは相手を信用することができない人間の言い訳だと思います。要は自分が人助けをするのか、騙されてお金をせびられたお人好しになるかの二者択一で迷っているのです。これは本質的に電車賃を貸す貸さないという行為とは全くつながりのないものです。電車賃は貸せるか貸せないか、それだけです。ところがその電車賃を貸すという行為に自分がどういう立場の人間になるかという思索が入ってくるわけです。おじさんが嘘をついていたら、自分はおじさんにいいように利用されてお金を渡したお人好しになってしまう。これはかなり腹の立つことです。それではおじさんを信用しないで電車賃を貸さないでいるとどうなるか。きっと後で、もしおじさんの言ったことが本当だったら、自分は困っているひとに冷たい仕打ちをした人間になってしまうと、後悔してやはり不快な気持ちになります。結局電車賃を貸そうが貸さまいが、おじさんが嘘をついていたのか、本当のことを言ったのか、それを考えるたびに心が苦しくなるのです。
 おそらく最初に話を聞いた時にお金を貸す貸さないの答えは出ているのだと思います。それを話を聞きながら考え始めるからわからなくなるのです。すべてを仮定のことに置いて考えるからもちろん結論は出ません。それなのに考えてしまう私がいるわけです。そして貸す貸さないではなく、自分が騙される、騙されないの間で悩み、自分の心を苦しくしているわけです。本当のところはわかりません。100パーセントそれが真実であると確認する方法などないのです。おじさんは本当に帰宅の交通費が必要でお金を借りるけど、あとで心が変わってコンビニでお酒を買って飲んでしまうかもしれないのです。
 人間は完全な善を行うことができない存在だと親鸞さんは教えておられます。それなのに自分を善人としたいという煩悩はなかなかはなれることができません。なにか判断するときにすぐに頭の中に登場するのは自分にとって損か得かということでしょう。しかし、これはひとのため、社会のためと考えれば乗り越えることもできます(実際にはなかなか難しいけど)、ところが、自分は悪い人間でありたくないという煩悩は本当に乗り越えがたいのです。「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし」と親鸞さんは歎異抄のなかで言っておられます。私たちはなにをしでかすのかわからない存在です。そんな人間がこれは善だ、これは悪だと決めつけて心を惑わせているのです。だから親鸞さんは善悪を離れなさいと言います。親鸞さんの言う他力とはそういうことです。自分は善である行いをしているという思いが自力であります。しかし、わたしらの実存はそんなところにないのだと親鸞さんはおっしゃいます。そしてそこにこそ阿弥陀仏のはたらきが生きてくるのだということです。
 ところで、もしもという言い方は良くないですが、親鸞さんに上のおじさんに電車賃を貸すか貸さないかと尋ねることができたら、きっと、「貸したければ貸せ、善人になろうと思うな」と答えられるかと思います(想像)。

2014年1月1日水曜日

ひとにどうおもわれる。

 わたし考えですが、初対面のひとに与える印象はちょっと悪いくらいがよいということがあります。そんなこと言っても自分の悪い印象を与えるなんて損なことだし、第一相手に失礼だ、と思われるかもしれません。しかし、最初に最高の印象を与えてしまうと正直後がしんどいです。聖人君主としてひとに接すると聖人君主として接することがやめられなくなります。これは立派な煩悩です。常によい人でありつづけなければいけない、ちょっとでも自堕落なところをみせると大幅なイメージダウンになってしまう。でも、いつも自堕落でいないことなんてできませんよね。それに比べて悪い印象を与えたところからスタートすると、なんでもない親切をしただけでイメージアップになるわけです。ほんとたいしたことない親切でも「このひとは、結構いいひとじゃないか」と。あらかじめ悪い印象も与えているので常にイメージアップをはかる必要はありません。イメージダウンしてももとのところにもどるだけです。わたしはこっちの方が美味しいと思うのですがねぇ、どうでしょう。もし、中学生の私が今くらいに仏教をかじっていたら、気に入った女子の前でぜひこのテクニックを使いたいと思いますね。でも、悲しいことに中学時代の男子にはど真ん中のストレートしか投げることができませんから、気に入った女子を前にしてつま先立ちした良い人を演じることになります。精一杯背伸びした自分で相手に接して、あとはもうボロが出てイメージダウンを繰り返すばかりになります。そして失恋ですね。もうほんと哀れで悲しいことです。
 ちょっと話をはじめに戻しましょう。初対面のひとに悪い印象を与えることは自分にとって損なことだと申しました。もしくは相手にとって失礼なことだとも申しました。はたしてこれはそのとおりなのでしょうか?確かに悪い人だなと思われるとそのときは損かもしれません。しかし、マイナスイメージからスタートすることでよりのびのびした人間関係を築くことができる因でもあります。最高のイメージからスタートすると、後は崩れるばかりであります。良い人を演じようと自分も硬直した動きかたしかできなくなります。これは例えばの話ですから、最初に与えた悪いイメージが後々人間関係に影を落とす可能性もありますし、良い人を演じ続けることで相手に良いことをしてあげる縁になるかもしれません。本当は「良い悪い」はわからないことなのです。私たちの心はいつも「良い悪い」って思ってしまいますが、複雑で予測不可能な縁起のうえに生きている我々人間にははかり知ることのできないものです。もしくは「良い悪い」ということは人間の心が思ったことであって、実際にあるわけでもないのです。このなんでもかんでも「良い悪い」って判断してしまう心の働きが実は心の一番やっかいな部分で、その一番やっかいなところを仏さんに引き受けてもらうのが「ナムアミダブツ」ってことなのです。自分が知らないということを知っているのが最高の知性だとおっしゃった学者さんがいたと思います。自分で思った良し悪しは確かなものじゃないんだということを知るのが仏教の智慧であります。だから自分の心の働きから解放されるために阿弥陀さんの願いを信じるのです。
 もう一つ、悪いイメージを与えることは相手に失礼だと申しました。これはもっと大人な考えですね。これくらいの礼儀はあってしかるべきだと思いますが、何をもって失礼とするのでしょうか。自分を覆い隠して良い人として振る舞うことが相手にとって失礼なことではないことなのか?親鸞さんは「外に善人のふるまい、仏道に励んでいるふうに見せるな、なぜならば、内懐虚仮(ないえこけ)(内は煩悩を抱く虚仮)だからである」(唯信鈔文意)とおっしゃいました。あんまり悪い自分を出すとドン引きされるかも知れませんが、善人としてふるまってはいけないと釘をさされております。

 そもそも自分のふるまいにたいしてひとにどう思われるか、こんな予測不可能で不確かなことはありません。ひとの評判に振り回される、これはひとつの地獄です。そんな地獄からはなんとかして抜け出したい、だからひとにどう思われるかで心を煩わせるよりも、もっとしっかりと自分のふるまいの基礎になってくれるものが必要になります。キリスト教ではそれは神様になります。ですから、ひとにどのように誤解されようとも神様と個人の関係がしっかりしていることが大事になります。それでキリスト教のひとは外聞を日本人ほど気にしません。一方で日本では宗教的な縛りがひじょうにゆるいので、ひとにどのように思われるかということが自己評価として大きくなってしまう。阿弥陀さんは言うことを聴かないからといって怒ったり天罰を下すような存在ではありませんが、親鸞さんの教えを聴くのであるなら、ひとよりも阿弥陀さんとの関係を大切にしたいものであるなぁと、きっとこのほうがいいなぁと思って今回を終わるのです。

新年、修正会の法話

だいぶとお休みしていました。

2014年修正会の法話をのせます。

死について

 ちようど2週間ほど前にオーストラリアへ旅行してきました。オーストリアじゃなくて、オーストラリアのほうです。南半球にある大陸、カンガルーやコアラのいるところです。私は学生時代に2年半ほどオーストラリアにおりました。キッカケは京都の美大生だった時に出会った、このひとに学ぼうと考えた先生がオーストラリアの大学の先生だったからです。以後、その先生とは日本に帰った後でも年に1度はお会いするというお付き合いをいただきました。
 人付き合いをするときに「いらっしゃい」というのは比較的簡単ですが、実際に長い距離を移動して訪れるというのは大変なことです。その先生と家族のかたには京都で度々お会いし、この羽咋にまで来ていただいたこともあります。私も「必ず家族を連れてオーストラリアに行きますね」と先生家族からの招待に返事していたのですが、もたもたしている間にその先生が亡くなってしまいました。2年前のことです。これが一番の縁となりまして、先生のお墓参りに行こうと、22年ぶりにオーストラリアに行き、先生の家族にお会いしてきました。
 オーストラリアに行くまでは、義理を果たすというか、これまで先生家族から受けてきたお付き合いに応えるという気持ちが主だったのですが、学生時代によく招待いただいた先生の家を訪れ、先生の仕事場に立って、今は先生の奥さんと一匹の犬が住んでいる20年前と変わらぬところで「私は先生が亡くなったことを確認に来たのだ」ということに思い当たりました。2年前に先生の奥さんから先生がガンで亡くなったと電話で教えてもらいました。海の向こうのことですから、私は先生の葬式にも参加せず、先生の奥さんとのやりとりだけを通して先生の死に接してきました。ところが、これまでもお互い遠く離れたところに住んでいて、たまにお会いするというお付き合いでしたから、私にとって先生の死が体験を伴った認識として受け止められていなかったのだと思います。先生の死後2年たって、先生のいない仕事場に立って、私は、本当は先生が死んだことを確認しに来たのだなと気がついたわけです。これは私にとって親しい人と死別する初めての体験になりました。現在わたしはお坊さんとしてお葬式に立ちあう身でありますが、自分自身が身近に引き受けるひとの死は先生の死が初めてでした。
 仏教は全ての事柄は因縁によって成り立っていると教えています。因とは物事の直接の原因、縁とは物事が成るための条件のことです。人間が死ぬことの因は生まれること。人間は生まれたからやがて死ぬのです。ですから、ひとが死ぬことはごく自然なことです。これまで死ななかった人間はひとりだっていない、そういう意味でほんとうにあたりまえのことです。それを命があるということだけを良いことだと、重きを置くと、誰にでも訪れる死をとても忌むべき悪いことにしてしまうようです。死というものを単純に嫌ってそれで良いものなのでしょうか?確かに私自身、昨年狭心症で入院したときは、このままほおっておくと心筋梗塞で死ぬかもなぁと怖い思いをしました。それでも、死と向き合うことなしには、本当の意味で生きることは不可能なのだと仏法では教えているのです。先ほど死ぬことの原因は生まれることだと申しました。では、生きるということを支えているのは何かというと死ぬことなのです。やがて死がおとずれるからこそ、それまで生きているのです。いつまでも死なないのであれば生きているということも生じないのです。

 ここで死について、iPhoneとiPadを世に送り出したアップル社のスティーブジョブスさんがアメリカ、スタンフォード大学で行ったスピーチから抜粋したいと思います。卒業式を迎えた大学生にむけて語られたスピーチのなかで死との向き合いかたについてとても的確に語っておられると思います。


 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。


 この後ジョブズさんはすい臓ガンになり、一度は死の宣告を受けます。そして、その後奇跡的に手術で治ることがわかり、命がたすかります。


中略

 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。


ここまでがスティーブジョブズさんのスピーチからの引用になります。
 現代社会では生きているということだけに重きを置いて、われわれ自身の死を日常から遠ざけているように思えます。死だけではありません、年をとって老いること、病気になって苦しむこと、どれも人間にとって必然であることにたいして、それを遠ざけることばかりにかかりきりになっているようです。死を徹底的に排除して、タブーにしてしまったので「人間は死んでもいいんだ!」などと言うのはかなり勇気のいる言葉になりました。でも、そんな死に触れない近づかないでいると、自分自身の存在の意味からも遠ざかってしまいます。
 仏教では死は悪いことでも良いことでもないとしています。その死に悪い、怖い、穢れているなどと意味を貼付けているのは我々の心のはたらきです。しかしその死を恐れる心のはたらきを私たちは自ら乗り越えることができない。私たちの心の奥の奥、自分でも意識できない深いところにある心は自分を頼みにすることでは解決できないのです。死を乗り越えることは死ぬのが平気になることではありません。先のスティーブジョブズさんのお話にあったように毎日自分の死と向き合い、そしてよく生きることからしか死に臨む姿勢は生まれません。私たちはよく生きるために死との向き合い方を変えなければならない時期に来ていると思います。自ら乗り越えられない自分の心はどうしたらよいか、それは阿弥陀さんにおまかせしなさいと親鸞さんが教えておられます。

 本日はご足労いただきどうもありがとうございました。新年、おめでとうございます。