2014年8月22日金曜日

ツィートから

仏教のことを哲学だと私は以前言っておりましたが、仏教は宗教だと思います。哲学的な深い探求のうえに成立した宗教です。哲学というのは理解しないとはたらかないのです。哲学を聞いてチンプンカンプンのひとは救済の外です。→

→宗教は全てのひと、学力、体力、財力、権力に関係なくはたらいて宗教です。だから頭で理解しないままでもはたらくことが不可欠な条件です。自分では量ることのできないものを信じる、すなわち南無阿弥陀仏です。→

→だから同時に危なっかしいわけでもあります。変な宗教を盲信したら大変なことになった!って話はよくある話です。だけどね、自分で理解したとして、それが正解なのか間違いなのか人間である以上わからんのです。自分の理解自体が間違っている可能性もある。→

→宗教を信じたほうが心は安定します。これは最近特に思うことです。人間が自らの知識に依って、考えて判断することには限界があるんです。自分はどうして存在するのか、そんな根源的な問いを抱えて日常を生きるのはとても心の負担が重い。これは心理学者の河井隼雄さんが言っておられました。→

→だから宗教があるほうが楽で安定しているとおっしゃっています。あ、と、は、変な宗教にひっかからないこと。そこが難しい。だって宗教は自分でわかって判断することのできないものだから。頭で理解して変な宗教を避けることはきっと不可能だと思います。→

→変な宗教から身をまもりながら宗教に接してゆく、これがこれから必要なのではないでしょうか。その唯一の方法は疑うことだと思います。疑いながら教えを聞いて間合いを計っていくわけです。親鸞さんが師匠の法然さんのところに百日間通って後入門する、これは疑っていたのだと思います。→

→自分で疑って、疑い抜いて教えを聞いたら、あとは身投げするように信じるしかないわけです。その心を親鸞さんは騙されて地獄に堕ちても悔い無しと言っておられる。なるほどなぁ、もの凄いことだなぁと思います。でも、とりあえずは「信じよ」って言って来る宗教が怪しいという根拠にはなりますね。

顔見知りのまちで暮らす

 お坊さん、園長どちらもそれなりに顔の広い職業であります。羽咋の駅前にゆけば停まっているタクシーの運転手さんたち、ほとんど顔見知りのひとです。お坊さんは役割上タクシーを利用することが多い仕事なのです。スーパーに買い物に行っても一人か二人はお寺、幼稚園を介した知人に会います。値段の高いものを買うと贅沢していると思われるかな、お惣菜なんかたくさん買うと格好わるいかな、なんてことを考えてしまいます。だから知ったひとのいない遠くのスーパーまで買いに出かけるというひともいます。私も自分が痔かも知れないと悩んだときは、わざわざ金沢市の薬局でお薬を求めたことがあります。やっぱり顔見知りの多いことは窮屈なことなのでしょうか?

 かって、移動手段が限られていた時代においては田舎に住もうと街に住もうとお互いが顔見知りであるというコミュニティを形成して生活してきました。お互いが顔見知りであるということは、常に複雑な人間関係がはたらいているということです。顔見知りのなかで暮らすと「変なひとだと思われやしないか」「立派なひとと思われたい」「陰口を言われるようなことにはなりたくない」という心が生じます。だから窮屈だと感じます。ひとが大なり小なり顔見知りのコミュニティがある故郷を離れて、誰も自分のことをしらないであろう場所に移動したがるのは、そうした窮屈さから解放されると心が楽に生活できると思っているからです。

 自分のことを誰も知らない街を一人で歩いていると、自分が暴れます。不機嫌な顔をしてもいいし、不親切なひとになることもできる。周囲の人間にたいする想像力がはたらかなくなって、傍若無人にふるまうようになります。仏教では、自分というのは記憶や経験、周囲の環境も含めた様々な縁によって生じているものだと教えています。自分の都合を適度に抑制してくれるものがなければ、とことん自分の都合が増長して迷惑な人間になる可能性が高いのです。自分のことを誰も知らない場所で暮らすと、人間は自分勝手な困ったひとになる傾向があるのです。お互い自分の都合を抑制しないから、暮らしは世知がないものになります。互いに不快の因となって怒ることの多い日常になります。

顔見知りのコミュニティで暮らすのは窮屈だ、知らないひとのなかで暮らせば世知がない、はたして、私たちはどこに住んだらよいのでしょうか。

 人に立派なひとだと思われたい、キチンとしたひとだ、ステキなひとだと印象づけたい、これはただの煩悩であります。そもそもそこまで自分のことを気にされていないのに、あれこれ自分のなかで他人に与える印象を考えて煩悶しているのが人間なんです。人の噂も七十五日ということわざがあります。たとえ噂にのぼっても七十五日しか(も!?)保たないよということです。七十五日ほおっておけば消えてなくなるものに大きく心を煩わせて暮らしているのが我々です。これは立派だとかステキだとか思われたいという煩悩のほうをなんとかしたほうがよいわけです。あのひとは変わっているなぁ、あのひとも人間だなぁという見られかたを受け入れてゆく。そうすれば顔見知りのコミュニティで暮らす心労が軽減でき、なおかつ顔見知りのコミュニティであるからこその安心のなかに暮らせるのです。顔見知りの安心、これは特に子どもやお年寄りにとっては大事なことなのではないでしょうか。

 親鸞さんは「愚禿鈔(ぐとくしょう)」で「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」と2回も書いておられます。「愚禿と名のる私の心は、その内側には愚かさを持ちながら、外見には賢く振る舞って生きていこうとしている。」という意味であります。自らを偽らず、自らに向きあって煩悩具足の自分を生きよという教えだと思います。煩悩具足の自分として生きるからこそ阿弥陀さんのお助けが活きてくるのであります。