2016年2月8日月曜日

お寺で人生相談!?

 お寺も葬儀式や法要だけでなく仏教の教えを活かすはたらきが必要だねと、いう家人とのはなしのなかで「お寺で人生相談したらどうかね?」という話がでました。人生相談!どういう人生相談になるかと想像してみました。

 そもそも人生相談とは、問題にたいして「どうしたらよいか」を問いにゆくものだと考えます。すなわち、相談の根っこには「どうしたら」英語でいう「How to ?」が埋まっているのです。そして、相談の先には、目標達成とか、問題解決とか、いわゆる自分の望んだ通りになるという終着点が設定されているのであります。

 それで、仏教の教えは、その「どうしたら」を離れることを目標とするのです。自分の望んだとおりにならなくても大丈夫になることを目指すのです。すなわち、問題を解決する方法を相談に来たのに問題を問題を問題ではないことに転化してしまうのが仏の道なのです。ですから、もっとお金もうけしたいと相談に行ったのに、お金がもうからなくてもよくなるというようなもので、「どうしたらよいか」に強く固執しているひとほどキツネにつままれたようで、釈然としない結果になるかもしれません。だから、お寺で人生相談をやってもあまり活用されないかもしれないです。ほんとうは、相談ごとというのは、「こうしたい!解決したい!」という欲求に火をつけるほど流行るものなんです。たとえば、「年をとりたくない」というひとは「こうしたらいい」がどんどん出されると熱中して熱くなる。そして、その熱中してアンチエイジングに励んでいる間だけは加齢する苦を忘れることができる(スピノザさん談)。ほんとうは加齢を止めることなんてできないとわかっているはずなんですが、いつか望んだ通りにならなくなるときが来ると知っているはずなんですが、とにかく人間は苦を忘れたいんです。それに対して、仏教は加齢しない方法を教えるんじゃなくて、まえむきに加齢してゆくことのできる自分をつくる。だからある意味問題解決になっていないかもしれないし、ある意味究極の問題解決でもあるわけです。

 だから人生の苦にたいする予防として、普段から仏法を聞いてもらうのがいいと思います。親鸞さんは教行信証の信の巻のなかで、まず聞きなさいと説かれています(聞)。そして、いまの自分に照らし合わせて考えてみなさい(思)と説いております。真宗の仏道は聞くことだいいちであります。まだ努力によって解決できる余地のある相談はいちばんしっくりしないのだと思います。もう少し努力すればなんとかなるとわかっているからです。だけれども、万策尽き果てて、もうどうにも解決できない、自分の望んだ通りにすることができないと行き詰って絶望したら、ふたたび仏法が効いてくると思います。絶望は阿弥陀さんからのよびかけです、「ほんとう」のすぐそばまで行っているから絶望するのです。そこで、阿弥陀さんは「もうちょっとこっちへおいで」と呼びかけます。自力(自分の都合)を捨てて他力で成り立っている「ほんとう」に着地しなさいと呼びかけるのです。