2020年1月22日水曜日

裏門の法語 2

「食べないと死ぬ、食べてても死ぬ」
本念寺裏門の法語、ふたつめは仲野良俊という先生のことばです。

 わたしは何で働かないとならんのか。それは働かないと食べてゆくことができないから。つまりは生きてゆけないから。けれども、そうやって食べていってもやがては死にます。耳ざわりのいい言葉ではありませんが、無視することもできない言葉です。そこにわたしが求めるべきもののヒントがあるのではないですか。財産をつくっても死にます。名声を得ても死にます。子孫を残しても死にます。人間がどんなにこだわっても、わたしが死ぬときには全て手放すものです。だから虚しいなんていうこともありますが、虚しいなんてのは人の思いで生きているからです。ぎゃくに死ぬからこそ生きているときが充実するということがあるのではないですか。終わるからこそ大事にできるということがあるのではないですか。ほんとうに自分をたすけるものを求めなければ、寿命だけ生きて不満のまま死にます。だからほんとうを求めるということが大事です。その一歩目は無視できない問題から始まります。問題があるということが、すくいの縁になります。

2020年1月16日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書


本日も「正信偈のなかみ」へご参加ありがとうございます。おかげで、住職は無人の場で講座を持つという寂しいことにならんでおります。いろいろドギツイ言葉表現もしてるなぁと思いますが、聞いてくださる方々の反応が明るくて助けられます。
 今日のはなしでもしたのですが、ごくたまに「住職、ありがたいはなしを頼む」というのがあります。あいがたい話は気持ちいいかもしれませんが、人をたすけません。人をたすけない話ならばそれは仏法ではなく外道です。なぜなら、道元禅師もおっしゃっているように仏法とは「自分を習う」ことだからです。人間はほんとうにいろんなことを知っています。役に立つのか金になるのかわかりませんが、遠い宇宙の果てのことだって知っている。自分の体の構造も知っている。けれども自分の心のことは知らない。なんで腹がたつのか、なんで悔しいのか、なんで生きてゆけないと思ってしまうのか、それを知ろうとは思わないようです。腹がたつのをあたりまえと思っている。悔しいのも、生きてゆけない思いもあたりまえと思って疑わない。 そして社会を壊す、環境を壊す。自然を壊す。環境破壊と言われるようになりましたが、それは人間が満足を外に求めた結果ではないでしょうか。だから、私自身耳の痛いことばかりですが、私をならうことが道を開くのだと思います。

次回は依経分の最後です。お念仏の教えについての段が一区切りつきます。十二回目ですね。

2020年1月15日水曜日

あす16日の「正信偈のなかみ」予定通り。

明日、1月16日の「正信偈のなかみ」は予定どおり19時から本念寺大座敷で行います。信心の利益の最後です!

住職

2020年1月1日水曜日

新年あけましておめでとうございます。


 
昨年来はお世話になりました。本年もよろしくお願いします。

写真は除夜の鐘でお配りした本念寺特製「煩悩饅頭」です。煩悩は我々を煩わし悩ませるもの。108つの鐘でおくって、、、と申しますが、お念仏の教えでは「あっても障りにならない」と言います。むしろ、煩悩をおこした時が仏さまに遭うとき。貴重なときです。だから、本念寺の煩悩饅頭は美味しく召し上がっていただきたい。ただ、煩悩は人間を使います。煩悩の別名を「正使」といいますが、これは「駆使衆生」。いのちあって、心あるものを使い走らせるものです。煩悩に使われると、煩悩に使われて人生が終わります。だから、龍樹菩薩は仏さまになったひとを「自在人」と呼んで大事になさいました。煩悩に使われることを脱したひとです。自分に帰っていきるひとです。お念仏があれば、煩悩はあっても差し支えない。むしろ、煩悩を起こすから覚めるきっかけになる。けれど、煩悩がわからなければ煩悩に使われる。使われて人生が終わってしまう。そこにお念仏があるということで分かれます。お念仏は自分が仏さまに照らされるということです。

追記 煩悩饅頭の本体は、はくい門内製菓さんのみそまんじゅう。