2020年4月8日水曜日

人間が、これが自由だと思っていることから自由になるのが往生。

 ひとはみな「幸福になりたい」って言います。でも、どんな状態が幸福というものか、あまり考えないのではないでしょうか。ここに幸福になる条件という調査があります。イギリスで専門職から単純労働まで5段階に職種をわけて生活満足度を調査しました。劇的な違いがあったわけではありませんが、1種の専門職と5種の単純労働を比べると10段階評価で0.5ポイント専門職の生活満足度が高かった。これは収入以外の生活満足度を調べたもので、専門職のほうが単純労働よりも収入が高いわけではない条件での調査です。この調査の結果として、人間は生活を自分で管理できる機会が与えられて初めて、自分は幸せであると感じることができるということが発見されています。幸福であると感じるための要素として自由ということがあるわけです。
 自由、自らに由るということです。自分が因となって動くということです。「自由にして何がわるい!」なんて言うことがありますが、自由気ままなんて言い方になると迷惑な印象も出てきます。だから、明治の福沢諭吉は、「自由と我儘(わがまま)との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」とおっしゃっています。ひとの迷惑になるならそれは自由ではなく、我儘だと。
 仏教の教えでも自由ということを大切にします。仏教では自由と言わず自在といいます。自分に在るひと、自分を失っていないひと。悟りをひらくことを解脱といいますが、これは解放され脱出して自在にかえるということです。ここでポイントなのは、いったい何から解脱するのか、何から自在にかえるのかということです。先に「他人の妨げ」という点で自由と我儘を分けましたが、仏教では「他人の妨げ」になる以前のところに問題があるといいます。ここに「もし、他人の妨げにならないとしたら、好き勝手したら幸福か」という問いがあります。たとえば物が豊かにある無人島での生活です。ブラックな例えだと、人類が絶滅してわたしひとり残った。もう地上のものは全部自分のもの!という状態です。はたしてそれが幸福といえるものか、それは各人想像力をはたらかせて確かめるとして、仏教にかえると好き勝手しても幸福にならないといいます。そもそも好き勝手するのを自由であるとみません。好き勝手しているのを「自分を失った」とみます。だから好き勝手しても究極的には満足しません。ここも想像力をはたらかせると面白いのですが、好き勝手の先にあるのは虚しさです。人間のすることは何事もエスカレートしますよね。財産ができたからと満足しない。財産ができたら「もっと!」ってなる。これは貯金通帳の数字を眺めたら確認できる心の動きです。ひとに優しくされたら、やっぱりもっと優しくされたいって思うのではないですか。有名になったら、出世したら、、、。そして自分の都合のよいことになっても、満足することはありません。それは、好き勝手は自分を失った状態だから、どこまでいっても満足しないのです。何によって自分を失ったかといえば「自分の思い」によってです。浄土真宗では「はからい」とも言います。人間は自分自身に夢をみます。「私はこんな人間のはずだ」とか、「もっと立派であるべきだ」とか。それを「理想」とか「夢」とか「目標」と言いますが、ひとつ大事なものを忘れてはいないですか。それは、今現在のそのままのわたしです。どんなに都合が悪くったって、どんなに問題を抱えていたって、呼吸して心臓が動いてご飯を食べて、そして考えているわたしは「いま、ここ、そのままのわたし」です。実はわたしの生きるところは「いま、ここ」しかないのです。ところが自分の思いがそれを否定するのではないですか。自分の思いに根拠はありません。根拠があるのは「いま、ここ、そのままのわたし」ではないですか。だから、自分の思いを離れて「いま、ここ、そのままのわたし」を生活することにかえる。それが自在にかえるということです。「いま、ここ、そのままのわたし」を軸としてわたしの生活が展開してゆくということです。偉くなるのは因果律によります。偉くなる種をまけば偉くなる。もちろん、偉くなる種をまき続けるのは容易なことじゃありません。けれど種をまけば(原因をつくれば)結果になります。
 自分の思いは時々わたしを傷つけます。思いに合わないからと存在を否定します。そうやってわたしを縛ります。好き勝手しているひとが幸福でないのは、自分の欲望にそれだけ強く縛られているからです。ひとを怒ってばかりのひとも不幸です。ぜんぜん楽しい人生ではないですね。幸福になるためには自由が必要、そのとおりです。そして見落としてはいけないのは、自分の思いからも自由になるということです。2500年もまえにお釈迦様が説かれた生きる道は、自分の思いから自由になる道でした。自分の思いに縛られると世間は狭くなります。縛られるだけ狭くて窮屈な暗い生活になります。ほんとうは人間はもっとひろい世界に生活できるのです。そのひろい世界がひらけたのを往生といいます。ひろいから苦労していい。ひろいからときがきたら死んでいい。来るべきものにおののき、振りまわされることのない生活になる。それ、明るくはないですか。だから仏さまは光にたとえられるのですね。人生を明るくするはたらきについた名前が「仏」なんです。

2020年4月7日火曜日