2020年5月28日木曜日

南無阿弥陀仏、すわりがわるい。

 住職は南無阿弥陀仏の字面に意味を求めてしまいます。だから白けます。何で南無阿弥陀仏なのか、南無阿弥陀仏でなくてもよいのではないか。南無阿弥陀仏は受け取るものです。
南無阿弥陀仏の字面にこだわるということは、南無阿弥陀仏を呪文だと思っている。南無阿弥陀仏は「まかせよ」と如来から受け取るものです。だから南無阿弥陀仏の字面でなくとも良いかもしれない。けれども南無阿弥陀仏を取り替えたところで、字面にこだわっている限りは一緒です。落ち着くことができない。そもそもお念仏は受け取るものですが、人間は言葉がなかったら受け取れないのです。だから如来(真実が人間の思いを破るはたらき)が言葉になった。人間は言葉で迷い言葉で苦しむから仏さま(わたしをたすけるはたらき)が南無阿弥陀仏という言葉になったのです。だから南無阿弥陀仏でいいと思いたったのでした。

お念仏はうけとるもの。

 南無阿弥陀仏とは、「かならずたすける、まかせよ」という如来の呼びかけです。この南無阿弥陀仏を受けてどのように思うかというと、「そんな南無阿弥陀仏くらいでたすかるわけがない」ということではないでしょうか。住職はそんなふうに思っています。これを「南無阿弥陀仏はありがたい」などと無理して受け取ると、信仰から純粋さが無くなります。無理しない、誤魔化さない、嘘つかない、この三つが教えを受け取る要点です。信じられないなら信じないという立場に立つ。南無阿弥陀仏の「かならずたすける」とは、「どんな人間であっても例外なく」ということです。それを無碍光(どんな障害でも遮ることができない作用)という喩えで表しています。だから、「こんな自分でもすくえるのか!」と、開き直ったらよい。南無阿弥陀仏を喜んで受けとれない自分を恥じる、なんてことがありますが、恥じるなんてことはまだ自分に夢をみている。期待している。自分を誤魔化している。自分の心を深く深く覗き込んでみたら「そんな南無阿弥陀仏くらいでたすかるわけがない」と書いてあったんです。住職の場合そうです。そこが私の場所です。嘘ついたところに立ったら歩めませんから、どんなに救いようがないところでもそこが場所です。人間は修行とか、学問とか、功徳をつむとか、立派なことをしないとたすからないと考えているのです。南無阿弥陀仏は、その「立派なことをしないと」という考えを捨てよという呼びかけです。「必ずたすけると言ってるんだから、立派という考えにしがみつくのをやめなさい」というわけです。それがやめられない。如来に百万回「そのままでいい!」と言われても、「このままじゃダメだ!」とかえしている状態です。人間は自分の思いに身を立てています。世間の評判に身を立てています。無宗教だという人も、かならず思いに身を立てています。身を立てるところが間違っているから、上手く運んでいるときは威勢がよいですけど、ひとつ躓くと迷います。立派にみえていた人物が、目も当てられないようなさまになった。そんなことはなかったですか。宗教は仏様や神様の奴隷になることじゃありません。宗(それなしでは生きられないもの)についての教えです。ほんとうに立つべき場所を求める道です。仏さまを大事にするなんて言いますが、ほんとうに仏さまを大事にするのは、お仏壇を掃除したり、御供物をしたりすることではありません。そのさきに、仏のはたらきに応えるという仕事がある。仏とは、「この、わたしをたすけるはたらき」です。「たすかれ!」が仏の存在意義ですから、この自分がたすかることが仏さまを大事にすることです。そのたすかる道を歩くことが仏を仏にするのです。道を歩くのに大事なことは、無理しない、誤魔化さない、嘘つかない。「どんな人間でもたすける」と言って下さっているのだから、堂々と南無阿弥陀仏を疑ったらいいと、この頃思うのです。疑うほどに自分が見えると思います。自分が見える、自分が明らかになるということが、立つべき場所に帰る道筋で、自分の思いから自由になる可能性だと考えます。

 自分の思いから自由になれないということは、十分に足がつく浅瀬で、頼りない木片にしがみついてバタバタ泳いでいるようなものです。木片から手を離せば解決します。ところが木片を手放すことができない。よこから如来が呼びます「木片をはなせ」と。


2020年5月20日水曜日

「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い。その二

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
 ここからを「依経分」といって、お経を基に本願が説かれています。本願、まずこの言葉がよくわかりませんね。ここでは、浄土仏教で「本願(ほんがん)」と呼ばれる「はたらき・作用・道理」があると覚えておいて下さい。「法蔵菩薩因位時」からはじまるこの一段は、「無量寿経」に出ている本願について、親鸞聖人が要約したところです。内容は次のようなものです。
 ある時、一人の国王があって、仏の説法を聞いて心に感ずるところがあり、求道心をおこして、国を捐て王位をすてて一介の求道者となり、自ら名告って法蔵と申しました。そして、世自在王仏という名の仏をたずね、自らの深い志を述べて、重ねて次のようなことを申されたのであります。
 「私は道を求めたいと思います。どういう世界が私のたすかる世界であり、どうすればそれを得ることができるか、願わくばそれについての教えをいただきたいと存じます」。その時に世自在王仏は、法蔵菩薩に対して、こう言われたのであります。「それはあなた自身の問題で、あなたが自分で見つけなければならないことです」。法蔵菩薩は重ねて。「いやしかし、これは私の力以上の問題であります。どうかさまざまな仏の世界、いろいろの人がたすかった道を、私のためにお説きください。それによって私は私の道を開いてゆきたいと存じます」。
 そこで世自在王仏は、その願いに応じて、あらゆる仏の国土、あるいは人間の世界の幸・不幸のさまざまな状態をまざまざと、目に見えるように説かれたのでありますが、これによって法蔵菩薩は、本願を起こされたと述べられています。
「正信偈講話」 仲野良俊 より。
 無量寿経は物語のかたちをしています。物語というと今の人はとっつきにくいかもしれません。そもそもわたし(住職)がそうです。わたしは物語より理屈のほうが立派だって身に染み付いている人間です。だから、物語のかたちで読むと身が入らなくて困ります。けれども、仏教では理屈は浅く軽いものだとします。理屈とは「人間の理屈」です。仏法は人間の理屈を破るものです。だから理屈を超える表現をとります。そもそも理屈で伝わらないことを伝えるために物語、詩、芸術があるんじゃないでしょうか。住職は絵を描きましたけど、「この作品の意味は何なのさ」って、「意味を超えるために絵にするんじゃないのさ、そもそも、ひとことで言えることを絵に描く必要なんて、ないんじゃないのさ」と、心に思っておりました。現代社会を動かしているのは合理性だと思います。けれども、自然も人間の心も合理的には運ばない。人間はときに「これは理屈にあわない!」と言って怒ったりしますが、そもそも世界は理屈で動いていないのです。
 仏教は因果律で世界をみます。因果律とは、何事も原因があって起こるということです。原因がなければ、結果もない。ここで法蔵菩薩が原因となっています(法蔵菩薩因位時)。ならば結果も必ずある、結果は阿弥陀仏です。世自在王仏という名前の仏さまが登場します。自在とは自由ということ、どんな世界にあっても自由自在であるという名前です。仏教では自由を大事にします。それでは何を自由と言うのでしょうか、「欲望の赴くまま好き勝手する」というのが我々が想像する自由ではないでしょうか。仏教でいう自由とは最も現実的な自由です。そして、替わるもののない究極の自由です。「好き勝手する」のが自由?といいましたが、好き勝手すると大変なことが起きますね。先ず、みんなに嫌われます。独裁者になれば好き勝手しても怒られないかもしれませんが、たとえ独裁者でも嫌われる、恨まれることから逃れることはできません。そもそも好き勝手は自由なんでしょうか、好き勝手は欲望の赴くままに動いているのですから、キッパリ言うと自由ではありません。欲望の赴くまま好き勝手して生きている人間ほど、欲望に強く縛られている。欲望は過剰になりますから、決して満足して終わることがありません。死ぬまで欲望の奴隷になって虚しく終わるんです。仏教で言うところの自由とは「縛られない」ということです。人間は多くのものに縛られています。立場に縛られ、対面に縛られ、思いに縛られ、テレビをつけるとステキなスマホが映っていた、もうダメです、見た途端縛られています。住職なんか年がら年中新製品に縛られていますから、これは実感をもって言うことができます。豪華でステキな旅行に行きたいと思ったところから、日常生活が灰色になります。ちゃんと原因があるのです。いろいろなものに縛られることで、現実の生活がつまらなく色あせたものになります。自分で台無しにしているのです。ほんとうに満足する生活をしたいのなら、縛られないということが大事です。そうは言っても、新製品は目にする、ご近所が旅行したと耳にはいる、こればかりはとまらない。だから常に解放されるのです。「おまえ自分の思いに縛られておるぞ、勘違いしておるぞ」と知らせていただく、これがお念仏の生活です。この人生の、どんな状況に置かれても、自由自在であるという名前の仏が法蔵菩薩のお師匠さんです。

覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
 法蔵菩薩はあらゆる仏の国を見ました。人間の世界の良いも悪いもあらゆる状態を見ました。どの世界が、どんな状態がほんとうに満足できる生活なのか覩見(見渡)したのです。
 ここで「観無量寿経」というお経のはなしをします。「観無量寿経」には、「王舎城の悲劇」という物語をとおしてお念仏が説かれています。マガダ国の王子(阿闍世)が国王(頻婆娑羅)を幽閉して、まったく酷い殺しかたをするという事件が起こる。これに至るにはいろいろと原因もあるのだけれども、息子のしたことをお妃の韋提希は嘆き悲しんで、お釈迦様にたすけを求めるというはなしです。それでお釈迦様は韋提希に仏の国をみせるのです。どの仏の国に行きたいですかと。
 ひとつめは、「七宝合成の国(金・銀・瑠璃・玻瓈・硨磲・赤珠・瑪瑙)」です。慈悲、愛情でいっぱいの国です。韋提希は自分の心を深く見て、わたしにはそんな深い愛情の心はないから、とどのつまりは自分さえ良ければいいと思っている心の人間であるから、そんな愛情に満ちた国はかえって居心地が悪いと辞退します。お釈迦様がみせられたふたつめの国は「蓮華の国」です。悟り、智慧の国です。これに韋提希は、わたしは愚痴の人間であるから、悟りと智慧の国ならおられんと辞退します。みっつめは「自在天宮の国」、なんでもそろった国ですが、韋提希はお妃様ですから、もうなんでもそろった生活をしたのです。興味ありませんと辞退されます。よっつめが「玻瓈鏡の国」。清浄で純粋な国、濁りのない国です。これも韋提希はそんな純粋なところでは、かえって自分の心の濁りが意識されてたまらないと辞退します。さいごに韋提希はどんな国を希望したのか、「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといえども、我いま極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと願う」韋提希のセリフです、韋提希は阿弥陀仏の国に生まれたいと言うのです。それで阿弥陀仏の国はどんな国か、阿弥陀仏の国はどんな人間でもいることができる国です。どんなに智慧から遠くても、愛情がなくとも、心が濁っていてもいることができる国です。そういう国を見つけようとして法蔵菩薩は「諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見」されたのです。そして、そこに「無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発」なさったということです。

建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
 人間はいろいろな生活を望むけれども、望んだとおりになっても果たして満足できるかはわかりません。有名になってみたけど不自由な生活だった。お金が儲かったらロクでもない人間が寄ってきた。しがらみを無くしたら楽というより孤独だった。など。人生を費やして求めるのですから、間違っていたら目もあてられない。だから、この上ない、これ以上に満足できないという生活を求める願いをたてられたということが重要です。正しい人間になったら救われるなんて陳腐な話じゃないのです。人間という存在を深く深ーく掘り下げて、どんな業があっても、どんな縁に遭おうとも救われる道を求めたのです。そのためにとんでもなく長い時間が費やされた。これが五劫思惟。一劫は時間の単位、二十キロ四方の岩山を三年ごとに天女が羽衣でひと撫でする、それで岩山が擦り減って無くなるのにかかる時間です。うーん、気が遠くなります。これは、それだけ法蔵菩薩の発願した生活が重いということです。その大事な生活を知らせたい。人間は名前のないものを知ることは出来ませんから、たすけるはたらき、仏さまは名前になったのです。その名を世界中、宇宙中に知らせたいといわれている。
 嘆仏偈という短いお経があります。お盆のとき墓前であげるお経です。実は無量寿経という本願の教えを説いたお経の一部で、法蔵菩薩がどんな人間をも救う、仏の中の仏になりたいと誓いを立てる内容になっています。嘆仏偈に「願我作仏 斉聖法王(がんがーさーぶ、さいしょーほーおー)」とあります。「仏の中の仏になりたい。」ということです。「一切恐懼 為作大安(いっさいくーくー、いーさぁーだいあん)」とあります。「願いを実践して一切の恐懼に本当のやすらかさを与えたい。」ということです。恐懼(くく)とは生きることに恐れを抱き、不安にさいなまれているものです。生きると言うことは不安があるということではないですか、普段は何も感じていなくとも、いざお葬式が出ると友引だからといって不安になります。こんなことしたら不吉なんじゃないか、こっちの方角じゃないといけないんじゃないか、と不安になって、怖くなって思いに振り回されている。そんなものにほんとうの安心を与えたいと法蔵菩薩は誓っておられる。じつは日の良し悪しなど考えないのが大安です。日とか方角とか言っているときはすでに不安なんです。友引を決めたのは人間です。ところが人間のいのちは人間が決めたものより深いもので動いている。数字の四(死)とか九(苦)もそうですね。人生はそんな言葉遊びよりもずーっと深いもので動いている。だから、「大安に目覚めろ」ということです。
「令我作仏 国土第一(りょーがーさーぶー、こくどーだいいち)」。「みなが本当に満足できるために本当の世界がほしい。」といいます。仏法の問題は、自分も助かって人も助けてゆくという自利利他。これが仏道です。しかし、穢土(人間の思いで成り立った世間世界)はその自利と利他が矛盾する世界です。穢土とは人間の思いで穢(けが)れているということ。この人間世界を娑婆とも言いますが、娑婆はインド語の「サハー」、漢訳したら「忍土」。誰も彼も不自由で、忍ばなければならないところです。ほんとうに自利利他が成り立つ世界が浄土です。娑婆というのは我執のある世界、自分よかれでは利他など成り立つはずがない。仮に利他をやってもそれは犠牲のうえにしか成り立たないでしょう、自分を犠牲にしたら利他をしてもダメなんです。共にたすかってゆかねばならない。だから我執の壊れた世界でなければ自利利他は成り立たない。
 もうひとつ、「重誓偈」という短いお経があります。四十九日のお勤めでお骨前で勤めるお経です。こちらも実は「無量寿経」の一部です。法蔵菩薩は四十八の誓いをたてられた。それに加えてさらに三つ誓いを加えられた。その三つの誓いのところが「重誓偈」です。
「我建超世願(がーごーんちょーせーがーんー) 必至無上道(ひっしーむーじょーどー)」
「斯願不満足(しーがんふーまんぞーく) 誓不成正覚(せいふーじょーしょーがーくー)」
これが自利の部分です。「我超世の願を建つ、必ず無上道に至らん」となっています。自分自身の完成のために仏になる。無上道に至るのは自分です、このわたし。どこの誰かじゃない、このわたしが無上道に至るんです。これ大事。その道が親鸞聖人においてはお念仏の道です。「念仏成仏これ真宗」と、浄土和讃 大経意にあります。自分が完成していないから迷っているのです。誰でも自分を完成させようと生きている。そのことが自覚されていないだけなんです。
「我於無量劫(がおーむーりょーこー) 不為大施主(ふーいーだいせーしゅー)」
「普済諸貧苦(ふーさいしょーびんぐー) 誓不成正覚(せいふーじょーしょーがーくー)」
利他のところです。「我、無量劫において、大施主となりて普くもろもろの貧苦を済わずは、誓う、正覚を成らじ」とある。自分ひとりたすかっても、それはほんとうにたすかったことにはならない。だから、わたしでないものをたすける。「貧苦」とあります。物がある、金があるけれども心は貧しいということです。うーん、ドキリとします。
「我至成仏道(がーしーじょーぶっどー) 名声超十方(みょーしょーちょーじっぽー)」
「究竟靡所聞(くーきょーみーしょーもーん) 誓不成正覚(せいふーじょーしょーがーくー)」
これは大悲心の行というところ。「我、仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ」とあります。この名声超十方が「重誓名声聞十方」になります。「どんな妨げがあっても、どんな人間であっても」ということです。親鸞聖人はこの第三誓、「大悲心の行」を非常に大事だと正信偈にだされました。人間は名で迷います。言葉で迷います。損をしたと暗くなるけれども、損か得かそんなことはほんとうはわからない。損か得かというのは言葉、解釈にすぎません。それでも人間は言葉に迷います。だからその言葉に迷う人間を目覚めさせるのは言葉以外にないということです。それですくうはたらきが南無阿弥陀仏という言葉になられたんです。人間の経験は名言薰習(くんじゅう)と言って言葉で残ります。人間は言葉を道具にして過去の経験を思い出します。人間は言葉で迷います、言葉で苦みます。その人間を開く唯一の言葉が南無阿弥陀仏です。言葉に引っかかっている人間の心を破るような言葉です。だから南無阿弥陀仏は人間の言葉ではありません、如来の言葉です。南無阿弥陀仏を通して人間は仏に遇う。それ以外に具体的な道はありません。「念仏成仏これ真宗」の意味がここにあります。我々をたすけるものを仏といいます。その仏が名として表されている。助ける対象が人間だから名になった。その名をどんな状況にある人間にも聞こえさせなければならないということです。言葉に遭わなければたすかるきっかけがありません。暗く思い詰めた生活の裏側に明るく自由な生活が存在します。しかし言葉に遭わなければ暗い思い詰めた生活を継続するしかありません。だから名を聞かせたいと法蔵菩薩が誓われた。
 これで「重誓名声聞十方」までたどり着きました。今回は長文になりました。読んでくださったかた、ご苦労様です。この「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い。は新型コロナウィルス感染予防がひとだんらくするまでするつもりです。

二〇二〇年五月十五日 本念寺 住職

「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い。その一

 昨年三月に「三年間で必ず終えます」と始めた正信偈講座は、なんとか予定を遅れることなく十二回を終え、この三月からは七高僧のところへ入っているはずでした。そこへ、新型コロナウィルスの流行が起きました。数ヶ月で終息するかと思ったのが全然、三月どころか四月、五月の正信偈講座の開催も困難になりました。おやすみつづきはさみしいので、このさい「お・さ・ら・い」を書くことにしました。コロナ騒動がおわるまで、正信偈のおさらいを読んで、正信偈講座の再開をお待ちください。
二〇二〇年四月九日 本念寺 住職

帰命無量寿如来
 無量というのは変わらないということです。反対の言葉は「有量」、変わり続けてとどまることがないものです。わたしたちは、有量ですね。生まれて大きくなって年老いて、怒ったり泣いたり笑ったり、生まれてきてよかったと言ったり、なんで生まれたんだと呪ったり、生きている間中目まぐるしく変化します。これを無常と言います。諸行無常の無常です。「この世界にあるものは何もかも変化して常なるものがない」ということです。いま、ここに「変化しないものはない」と言いましたが、その「変化しないものはない」という法則だけは変化しません。昔も今も未来も変わらない、この法則が無量なわけです。
 寿、「いのち」ということです。通常「命」と書きますが、仏教では「寿」がいのちです。「寿」といったら「めでたい」という使いかたをしますね。そうです、いのちはあるだけでめでたいのです。「?」ってなりますね。今はその「?」を大事にして先にいきます。わたしたちは生まれてからいのち終わるまでずっと無常です。ところが、その無常におられないのです。落ち着くことができない。どうですか?年をとるのは嫌ではないですか?大事なひととの別れなんて、受け入れがたいのではないですか。だから長寿をもてはやします。長生不死なんて言います。だけど不死なんて言うほど辛くなりませんか、だって事実は限られたいのちですから。限られたいのちのものがどうやって「限られた」ということを越えるか、それが人間の問題になります。無量寿というのは無量の、不変の法則に支えられて在るいのちです。そのいのちの在り方(実相)に触れることで、わたしたちには無常の身のまま不変に支えられるということが起こるのです。
 もうひとつ、有量ということには「計る」という意味もあります。我々の世界はなんでもかんでも人間が計らった世界です。我々が受け止めたものには、すべて快だとか不快だとか、損だとか得だとか計った見方がある。長い短いっていうのも計らって生じる。世界はそのままではない、人間の計らった見方に転じて受けとめられている。だから、わたしたちは世界の「そのまま」には決して触れることができない。けれども、生きているということは計らう以前にあるでしょう。計らわなくても生きているということは無くならない。無量とは、その計らいを超えた「そのまま」ということもあるのです。
 如とは人間の計らいを超越したそのままの世界。何でも損得、快不快で見る人間にはわからない。その計らいを超えたところから計らう人間にはたらきかけて来る。だから「来」とつく。真理から人間を救おうとはたらきかけてくるもの、それが如来、仏であります。さいごに帰命、立ち返るということ。だから帰命無量寿如来は「わたしたちの思いを超越した真実からのはたらきに立ち返ります」と言うことができます。これがお念仏のなかみです。
 じつは帰命無量寿如来には基があります。七高僧のひとり、インドの天親菩薩が無量寿経にある本願というはたらきをいただいて「帰命尽十方無碍光如来」と表現された。尽十方は前も後ろも右も左も、ななめも、上も下も全方向ということ。無碍光というのは、遮られることのない光として本願のはたらきを表した。いつでも、どこでも、どんな人間にもはたらくということです。その本願の表現を親鸞聖人は無量寿という言葉に戻された。「帰命尽十方無碍光如来」は「南無阿弥陀仏」の別名なんです。お仏壇は真ん中が阿弥陀如来の画像、または仏像ですね。右手に「帰命尽十方無碍光如来」とある。左手は「南無不可思議光如来」です。実は三つとも本願のはたらきをあらわしています。名乗りは違うけれども仏としては同一です。

南無不可思議光
 お仏壇の左手にある「南無不可思議光如来」が「南無不可思議光」になりました。こちらも七高僧のひとり、中国の曇鸞大師が「南無阿弥陀仏」をいただいて「南無不可思議光如来」と表現された。正信偈は偈(うた) ですから、七文字に揃えないと調子があわない。だから如来をとって南無不可思議光になっている。不可思議は不思議です。不思議というと「わからない」と受けとってしまいますが、この不思議は「思議(しぎ、おもいはかる)する必要がない」という意味です。すべては「思い計る」必要のないものであったということです。人間は、ほんとうは心配したり不安になったりする必要のない世界に生まれてきた。それを計らいでもって不安で貧しい暗い世界に変えて受けとっているのです。たまに「人生に行き詰まった」と言います。しかし人生は決して行き詰まったりしません。行き詰まるのは人間の人生にたいする考えではないですか。人間は計らいに囚われて心配し、不安になり、絶望します。その自分をとらえる計らいに根拠がないと知れば、計らいは相対化されます。計らいは計らいにすぎないとわかれば軽くなるのです。人間生きているうちは計らいを止めることができませんけれども、常に計らいを計らいであると知らせてもらうということがある。計らいを超越した真実がわたしにはたらいてくる。これをお念仏といいます。心配したり不安になったりする必要のない世界にその都度かえしてもらうのです。人生に絶望してもたすかりませんが、自分の思いに絶望すると明るくなるのです。
 南無はナモーというインドの言葉。「おまかせする」という意味ですが、真宗では「まかせよ!」という如来からの呼びかけです。ですから「南無不可思議光(如来)」は「すべては思い計る必要のないたしかな世界なんだ!という事実にまかせよ!」と受け取ることができます。繰り返しになりますが、不安を生むのは計らいです。人間賢いということがありますが、賢いということはそれだけ計らいがきつい。仏法からいうと賢いだけ苦しみも大きい。人間は賢くなることによって悟りをひらくと誤解しています。賢さが破れて悟りをひらくのです。どれだけ賢くても破れない賢さは愚かさです。かと言って阿呆ならいいというわけではありません。人間誰でも苦しむということは、誰でも賢いのです。そして苦しむからほとけを求める。求めることが賢さをやぶる縁になる。
 「どんな人間になって生きたらいい」というのは人生の問題です。それにたいして安田理深という先生はこうおっしゃっています。
「南無阿弥陀仏の歴史の中に(自分の胸の中にではなく)いかなる不純粋の世界にも立っていける自分の立脚地を初めて見出すのである。それを一心と言い、安心と言う。」

5月の「正信偈のなかみ」もお休みです。

新型コロナウィルス感染予防のため明日5月21日の「正信偈のなかみ」もお休みします。

本念寺 住職 飯貝 孝介

2020年5月17日日曜日

生活で詰まずいたら。

 落ちたら落ちたところから始める、それ以外にどんな方法があるだろうか。神頼み、仏頼み?そんなことをすればますます迷いは深くなる。だから、ただ落ちたところからはじめることが現実的な方法。しかし、心がそれを許さない。人間には心があるから「はい、そういですか」というわけにはいかない。その心の許さないものの正体を見ることが必要だ。誰が許さないのか、それは自分の立場か、こだわりか。念仏する、聞法すると真宗ではいうけれども、心にあって自分を許さないもの、その正体を見る方法だ。方法は継続することで道になる。必ず脱出できる道に入ることで人間は生きられるようになるのでないか。

新型コロナでたいへんな思いをしているひとがいると思います。頭をひねって書きました。