2021年6月13日日曜日

6月17日の「正信偈のなかみ」も、休みます。

 コロナウィルスの身近なピークはすぎたように思いますが、念のため6月も「正信偈のなかみ」をお休みします。7月15日に再会できることを願っております。みなさまくれぐれもお大事に。

住職

2021年5月10日月曜日

5月20日の「正信偈のなかみ」休みます。

もうお休みすることはないって思ってたのですが、ここにきてコロナウィルスの流行が近隣で起こっています。5月は「正信偈のなかみ」をおやすみにします。みなさん、大事におすごしください。

 本念寺 住職

2021年4月15日木曜日

本日の板書




 本日もお集まりいただきありがとうございました。曇鸞大師の内容にはいり、往相廻向、還相廻向も出てきて、浄土真宗という教えの特徴が見えてきたのではないでしょうか。われわれはなにひとつ要求されていないのです。賢くなることも、修行をすることも、善い人間になることさえ求められていないのです。ただひとつだけ、仏になりたいという願いをもって念仏しなさい。繰り返し仏法にふれて穢土の生活を生きなさい。なにも要求しないけど、機が満ちたら、かならず仏となってゆく生活にはいる(往相廻向)。そしてそのことが、周りの人間にとってもこの上ない利益になる。だって、みんな我が思いを通そうとがんばって、ぶっかって、苦しんで、青い顔をして生活している中で、同じ苦労をして、明るく喜んで生活している人(還相廻向)を目にしたら、それは生きていこうという気力が生まれてくるんじゃないか。それが利他です。

 次回で曇鸞大師ともおわかれです。

2021年4月14日水曜日

明日4月15日の「正信偈のなかみ」あります。

 明日4月15日、19時から本念寺大座敷で「正信偈のなかみ」をやります。
マスクを着用でご参加ください。

2021年3月24日水曜日

ロックと真宗

  お寺の法語を探すのに「ロック名言」をみていた。これは!と思った名言は以下のとおり。

「自分の人生を変えられる唯一の人間は自分だけなんだよ。」

                         ノエル・ギャラガー(OASIS)

「偽りの自分を愛されるより、ありのままの自分を憎まれる方がいい」

                         カート・コバーン

「その日をちゃんと生きること。人生にこの日は一度しか訪れない。」

                         エリック・クラプトン

「雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる。」

                         ボブ・マーリー

「あなたはあなたが妥協したものになる」

                         ジャニス・ジョプリン

 家族にきいたら、「ロックって、けっこう自力な感じ」と感想。「そうなのか、、、住職が大好きなロックは、、自力なのか」と瞬間思ったが、いや違う。そのときは、「一生懸命やって自分を誇るのが自力、一生懸命やって自分がわかるのが他力なんだよ。だからお念仏の道も、龍樹菩薩が言ってるように一生懸命は一生懸命なんだよ。」と返事したけど、もうひとつ足りない気がする。
 あとで気がついた。ロックとお念仏、必ず共通するところは「ぜったいに偉くならない」ということ。ロックは優良なものじゃない、ロックミュージシャンはいつも不良から出発する。バンドをやって学校から褒められたり、大人たちに認められて音楽をはじめたりしない。それはどうしてかというと「いい子」だと格好がつかないから。国とか共同体とか世間から褒められてはじまったロックはない。ビートルズだって当時の大人が眉をひそめる不良だった。そのあとのハードロック、グラムロック、パンク、オルタナティブ、種類分けされてるけど、どれも極悪不良の姿で、世間の反感をかって登場している、これは明らか。

「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて」
(賢く善く、努力家のすがたをするな。だって、心は嘘と我執でいっぱいなんだから)親鸞聖人は善導大師の「散善義」のことばをこう読みました。念仏者の生活は、聖人の生活ではないことを明かしてくださった。
蓮如聖人は、「たとい牛盗人といわるとも、後世者(極楽往生を願う人)ぶるな」「仏法者とみえざる人のすがたを生きよ」と御文に繰り返して説かれた。「人間世界でけっして立派なものになるな!」それは念仏者のポリシーであります。
自分は立派だ、自分は正しい、自分は聖だ、と思う心が人間心の一番深い闇であり、阿弥陀仏のお仕事をさまたげるのだということをおっしゃっている。
「信心」ということがあります。念仏は誰でもいただくことができる。けれども念仏をいただいてもぜんぜん助からないということがある。これを曇鸞大師が「信心」が欠ければ念仏をいただいても助からないと教えてくださった。それでは「信心」とはどんなこころか?。「信心」はそのまま、仏さまの救済力を信じるこころのことだけれども、実際信じることは自分ではできない。自分を捨てたところでないと「信じる」が成立しない。わたしたちは娑婆生活で「信じていたのに、、、」なんて愚痴を吐きますが、信じる代償を求めていたのなら、それは信じたのではなくて、取引をしていただけです。だから「信じた」と言ってみんな取引をしている。「私を裏切らないでね」がくっ付いてくるなら約束です。だから、みんな「信じた」とは言わず「約束した」と言うべきです。
自分を捨てたところでないと「信じる」ことは成り立たない。そして自分を捨て去ると、通常の社会生活はおくれなくなります(心配しなくとも自分は捨てられないのだけど)。そんな人間にとって有り得ない「信じる」を瞬間成り立たせるのが「聞く」ということだと教えられています。仏法を聞いて自分の心が否定される。自分が否定されたらそこに自分の心からの解放がある。真理に遭えば「間違っておった、勘違いしていた!」と心が開ける。自分の心を否定される瞬間は仏さまに遭っている。だから立派なひと、できるひとに落ち着くことを警戒するのは、ただのスタイルではなくて、人間心を深く射抜いたところの教えなのです。
極悪不良なスタイルが商売になる自由経済の時代でありますが、とって付けた極悪不良はなにか臭う。本気と金儲けの違いは滲み出る。ロックもなにかを得るため、これまでを超えるため、立派、優良ということを捨てたのでしょう。そこがお念仏とつうじる。

住職はお寺生まれだから住職になりましたが、徳のたかい坊さんにならなければいけない教えのお寺じゃなくてよかったと、ほんとうに思っています。

2021年3月18日木曜日

本日の板書




  本日は一句だけ「報土因果顕誓願」。「われわれをたすけるお浄土のはたらきは、仏さまが願うことでできました。そして、仏さまによってお浄土ははたらいております。」これだけでは、なにがすごいのかわかりません。けれど、お浄土は人間の仕事じゃないってことがポイントだったんです。仏さまの願いを「本願」といいます。「本願」とは「命あるすべてものに安心と満足をあたえたい」という願いのことです。これって、ほんらいならば人間が持たなければいけない願いではないでしょうか。わたしたち人間だって「良くしよう」と思って生活しているわけです。でも、人間は自分中心をやめられないので、上手いこといかない。上手いこといかないどころか、どうしたら本当に安心して満足できるのかということがわからない。資本主義、社会主義と言いますが、仮に主義が上手いこといっても得られる世界は「みんなお金持ちで健康で長生きな世界」くらいです。そんな世界で満足できますか?ってなると「うぅっ!」ってつまってしまいます。だって、お金持ちで健康で長生きでも歳はとるんだし、喧嘩もしそうだし、やっぱり死ぬし、いわば生老病死の苦しみは解決しないから、それで満足ですとはいえません。だからわれわれ人間の願いを実現するのではなく、われわれに代わって仏さまがたてられた願いに生きるわけです。浄土は清浄真実な世界、その浄土というものに触れることでわれわれが不実な世界を頼んでいたのだと目が覚める。この目覚めを生きているあいだ無限に繰り返してゆく。それをお念仏のはたらきといいます。

本日も一時間おつきあいいただきありがとうございました。

2021年3月17日水曜日

明日3月18日「正信偈のなかみ」あります。

 明日、3月18日木曜日の「正信偈のなかみ」を、晩7時より本念寺大座敷にて、予定どおりおこないます。

 住職