2019年11月21日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書


本日もご足労いただきありがとうございました。毎月1回ずつしてもう9回目が終わりました。参加なさる人数がほとんど減らないこともびっくりです。これは親しみのある正信偈への関心が続けさせて下さるのだとおもいます。
人間は自分の思ったこと、したことを何でも自分の手柄にして誇ったり、所有権を主張したりしますが、「ひらめき」とは果たして自分の所有物なのでしょうか?考えてひらめくなら、自分の意思で自由にひらめくことができるものなら自分のものでしょうが、「ひらめき」はそう自分の考えたとおりにはひらめかないものです。かって、住職が美術をやっていたときは、その「ひらめき」を求めて3日も4日もウンウン唸って時を過ごしたものですが、センスのある芸術家などは『「ひらめき」は天から降ってくるもの』などと表現しています。そうです、実感としてはいただきものなんです。誰からのいただきものかはわかりませんが、それは深層心理と言ってもいいし、仏さまと言ってもいいし。いまの自分ではないと受け止めたら生活が広がるのではないでしょうか。仏(真実)は誤魔化せないものです。誤魔化してもかならずはたらいてくる。嘘は虚像でしかないのです。人間は虚像でもいいから都合のよいものを望みますが、嘘を頼めば迷いが深くなるだけです。自分の嘘、誤魔化しを常に照らして下さるのが摂取の心光だと思います。そして、迷いから常にわたしを護って下さるのです。仏のはたらきとは人智の否定であると現在思っています。でも、否定されるばかりなら辛い、元気出なくなります。だから仏の慈悲があるのです。仏さんは、人間の思いは否定しても存在はとことん肯定してくださるのです。思いを否定されることで自由になる生活、それが信心の生活ではないでしょうか。

2019年11月20日水曜日

11月21日の「正信偈のなかみ」は

明日、11月21日の「正信偈のなかみ」よていどおり本念寺大座敷で19時からおこないます。

住職