2020年3月18日水曜日

明日3月19日の「正信偈のなかみ」はお休み。

明日3月19日の「正信偈のなかみ」は、新型コロナウィルス感染予防のため、お休みします。4月16日は状況をみておこなうかきめます。みなさん、お大事になさってください。

本念寺 住職

2020年3月10日火曜日

お念仏はどうして南無阿弥陀仏なのか。

 南無阿弥陀仏はインドの言葉を漢字に音写した言葉です。だから、ナムアミダブツでもいい。中国で漢字に音写したから南無阿弥陀仏。元の言葉はナモーアミタ。「無量光、無量寿の仏に帰依します。」と、なります。すごく意訳したら「阿弥陀さんにおまかせ!」とも言えます。これで意味もわかったけれど、やっぱりしっくりこない。「それでも、どうして南無阿弥陀仏という文言でなければならないのか?」という疑問がずっと住職にはありました。
 それを南無阿弥陀仏でかまわないのだと気がついたのは、ある年のほんこまいりのときです。門徒さんのお宅で、おばあちゃんが応対下さったのですが、そのおばあちゃん、なにかというと「よいしょ」と言うのです。立って「よいしょ」、座って「よいしょ」、お茶をいれるのも「よいしょ」。ほんとうに数が多い。その「よいしょ」を眺めていて住職は、『そういえば、わたしも「よいしょ」って言うなぁ』と思ったのです。そして、「よいしょ」という言葉は必要だけど、「よいしょ」に意味を求める必要はない。と気づかされたのです。
 意味がわかったから南無阿弥陀仏するというのであれば、それは人間の思慮のうちです。南無阿弥陀仏に意味がなかったらしないわけです。我々の言う意味といえば損得ではないでしょうか。病気が治るから念仏する、お金儲けができるから念仏する、災害に遭わないように念仏する。誰も、苦労するために念仏する人はいないわけです。これは人間の都合のために仏さんを使おうということです。そして、人間の都合では、人間は究極的にはたすかりません。そうなっているのです。思いどおりになっても、しばらくしたらあるのは不満ではないですか。思いどおりになることがずっと続いたなら、やってくるのは空しさではないですか。順調すぎれば「つまらない」わけです。この人間の都合というものは、人間の苦を無限に生み出してくる源です。そして、その人間の都合を破るのが仏さんのはたらきです。お念仏してたすかるなんて言いますが、言い換えたら「お念仏して解放される」です。だから「覚(さと)った」と言う。わかったんです、自分が何に苦しめられていたかあきらかになったのです。
 南無阿弥陀仏に話をもどします。南無阿弥陀仏をそのまま「無量光、無量寿の仏に帰依します。」と受け取ってもピンとこない。だからいろんな表現が出てくる。住職はよく、『南無阿弥陀仏は「あなたはどんな人間にもなれる」という仏さんからの呼びかけ』とお話しします。平野修さんという先生の本でみつけた言葉です。「どんな人間にもなれる?」そう、わたしたちは、高齢者にも病気のひとにも人生を大失敗した人間にもなれます。成功者になるのも失敗者になるのも原因と縁があっての結果ですが、成功者になるのは都合にかなうので難しくないようです。でも、失敗者になることは難しい。心がたいへんになる。でも、ほんとうはなれるんです。その証拠に、人生を失敗したからといって心臓が止まったりしません。大失敗した後も人生はあるのです。それを無理です、なれません、って思っているのが我々じゃないでしょか。その、わたしを苦しめる思いを破るはたらきを仏というのです。人間が思ってつくった世界は、条件だらけの狭い暗い世界です。何事も自分の都合で計り、自分さえも裁きます。それを、わたしたちが生きているのは、ほんとうはもっと広い明るいところだった。都合や条件に縛られる必要のないはたらきのうえに、わたしたちの生活はあったと覚る。人間の思慮を超える、それがお念仏のご利益です。そこに意味がないのではない、人間の言う意味を超える。生きているという事実に備わった意味というものがある。その意味に出遭う。ということです。
 さらに、南無阿弥陀仏を言い換えるなら、「如来の声をきけ」「如来のはたらきに応えよ」ではないでしょうか。南無阿弥陀仏はわたしから仏さまに「おまかせします」と言うのではないのです。他のひとの心はわかりませんが、住職の心は、仏法を読んではいてもいい加減な心です。つねに都合のよいことに流され、くるくる変化するので、「阿弥陀さんにおまかせ」なんて言ってもさきはわからない、頼りない心です。そんな心じゃたすからん、というのが人間世界の物差しですが、真理のはたらきは違います。そんな心でもたすかるはたらきです。わたしの心はあてになりませんから、あてになるものがはたらく。南無阿弥陀仏は「如来の声をきけ」「如来のはたらきに応えよ」という仏さんからの呼びかけ、勅命だったのです。親鸞聖人はこのことを如来廻向とおっしゃいました。「わしのはたらきをわすれるな」という仏さまからの呼びかけを受け止める行為がお念仏だったわけです。南無阿弥陀仏という名のはたらきがあると聞いたらそれでいい、究極はこれだけです。南無阿弥陀仏は意味じゃありません。「聞く」という行為です。それでありますから、南無阿弥陀仏の意味を求める必要がなかったわけです。

本念寺裏門の法語につくったできたて。

2020年3月9日月曜日

今月3月19日の「正信偈のなかみ」はお休みします。

新型コロナウィルス感染防止のため、今月3月19日に予定していました「正信偈のなかみ」をお休みします。ちょうど「依経分」がおわったところだったのがたすかりました。新型コロナが収まったら再開します。4月再開になるのか5月再開になるのか、またお知らせします。


これまでの予定です。