2013年7月27日土曜日

仏教の幸せ


 仏法、お釈迦様の教えを通して求めるものは幸福ではありません。
「えーっ!幸福こそ大事なのに、仏教駄目じゃないかっ!」と、きっとお思いですね、もうちょっと先まで読んでくださいますか、仏法では幸福はもとめるものではないのです。
 たいていは幸福と言いますと、現在の自分にないことを想定して、それを夢と言ってもいいかもしれませんが、求め追いかけるものだと思います。例えば地位のほしいひとは出世した自分を想定して、スポーツや芸術、特技で成功したい人は成功した状態の自分を想定して、結婚する、家をたてる、こどもを育てあげる、それぞれ目標を想定して、それを幸福だと考えて追い求めるわけです。そうやって目標に向かって努力することはとてもよいことだと思いますが、この追いかける幸福というものは、実現してしまうと満足するのも一瞬、あっというまに輝きが失せて、あたりまえのものになってしまって、そうそうに次の目標を見つけて再び努力を始めなければ居心地が悪くなってしまいます。目標を達成したときにあらわれる「虚しさ」に追いかけられている状態と言ってもよいかも知れません。仏教ではこのような幸福の求めかたを執着と言います。執着にはおわりがありません、つねに求めている状態で一生懸命になりますから、決して満足せず、ひたすらにエスカレートしてゆくばかりなのです。まるで底の抜けた風呂桶に水を足すようなものです。
 じっさいは、幸福は追い求めるものではなくて感じるものだそうです。安富歩さんという方が「生きる技法」という本で書いておられます。
 では、仏教の教えを通して私たちは何を求めるのでしょうか、禅僧で作家の玄侑宗久さんは幸福ではなくて「楽」だとおっしゃっています。だから極楽浄土って言うんですって。暁烏敏さんは「安心、大安心」っておっしゃっております。これも保険の宣伝文句に使われるような安心ではなくて、まさに文字通り心が安まり安定することだと思います。
 仏教が向き合っているものは、全ての人間が救われる方法です。人間の生まれの違いをものとせず、能力、才能の違いも関係なく、歩んだ人生の事実にも左右されない まさしくどのような人間でも救済に至るための方法について探求されたのがお釈迦様です。人間が生きてゆくうえで、堪え難いような苦境に遭遇するならば、その遭遇を拒否することなく受け取って、しっかり生きてゆく勇気を与えてくれる教えです。苦難に遭わないための教えではありません、人生が幸せなことばかりで満たされる方法でもありません。だけど、どんな苦境にあっても生きてゆく勇気を得ることに増した救済などあるでしょうか。
 浄土真宗の宗祖、親鸞さんの生きた時代を想像すると、ちょうど鴨長明が「方丈記」を書いた時代に親鸞さんはこどもだったのです。「方丈記」には、ひどい飢饉があって、河原がひとの死骸で埋まり、母親の息の絶えたこともわからず乳房を赤子が吸いながら寝ているという記述が出てきます。もう、どのようにしても今日明日に死ぬしかない人間の存在を親鸞さんはよく知っていたと思います。そのような時代にあって、一切の衆生が救われることを目指した「南無阿弥陀仏」の教えは、とてつもなく深いものだと思います。
親鸞さんの和讃を読めば、繰り返し自力は駄目だ、他力こそ本当だと教えております。
 自分の幸福というものを強く握りしめて生きるのではなく、阿弥陀仏にあずけて生きることの強さは、何事も人間中心の善悪で固められてしまった現代社会であるからこそ、大きな意味を持つのだと思います。
最後に真宗らしい言葉を紹介して終りたいと思います。
「夢をみない、絶望しない。ここに凡夫の自覚がある」安田理深

2013年7月20日土曜日

南無阿弥陀仏ということ

 人生で苦しいことがあればなぜ苦しいのか考える。だけど考えるには元気が必要だから、考える元気のないひとは苦しいことから目をそむけることでなんとかしている。だけど目をそむけていても苦しいことはなくならない。いつかそれでにっちもさっちもいかなくなるから、どうしようもなく追いつめられてしまうまえにやはり苦しいことと向き合って考える必要がある。大変だ、そんな元気もない。そんなときに親鸞さんがひとついいことを教えてくれている、「南無阿弥陀仏」と唱えなさいということだ。「南無阿弥陀仏」と唱えたところでちっとも苦しみが解決した気にはならないけど、親鸞さんはそれがいちばんだ、それしかないと教えておられる。本当に他には術がないのだからと。