2019年9月23日月曜日

報恩講。




本日(9月23日)より9月26日まで本念寺は報恩講です。朝、準備の五色幕を本堂にかけたところ。毎年大提灯もつるのですが、今年は台風の様子をみて待機中。

23日
14時からお勤めと御法話があります。門前より諸岡 敏先生がお話しにこられます。

24日
8時のお勤め、住職の法話。10時のお勤め諸岡先生の法話。12時御膳つき。14時お勤め諸岡先生の法話。

25日
8時のお勤め、住職の法話。10時羽咋幼稚園園児のこども報恩講。13時半お勤め諸岡先生の法話。

26日
8時半のお勤め。9時半永代供養共同墓法要。10時五銭講住職の法話

の日程になります。

24日12時、御膳です。大人500円、子ども(中学生以下)100円であります。

2019年9月19日木曜日

本日の板書

9月19日「正信偈のなかみ」板書です。3枚になってしまいました。

9月から「信心の利益」についてやってゆきます。先ず「大乗の利益」。これは煩悩を滅することなく涅槃につながるということです。煩悩を断ずるというと社会生活は不可能になりますが、念仏は煩悩があるままで涅槃(愚痴を言わんで済む心)が現在の生活にはたらいてくるということです。

先ずは簡単におさらいと今後の予定。



ほんじつもお集まりいただき有難うございました。わたし、出不精なので、みなさんが出てこられるということがほんとうに簡単ではないことだとしみじみ思っております。
本日は3枚のプリントを配布しましたので、お休みされたかたは次回お取りください。

本日「正信偈のなかみ」

予定どおり、19時から、本念寺で。

「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」をします。

みがみもの。





9月23日から26日まで、本念寺報恩講(はくいほうじ)です。その準備のみがきものをしました。みなさんごくろうさまでした。ピカピカです、仏具がピカピカになるのは達成感があります。次回は1年後ですが、興味のあるかたはお寺まで。

2019年9月18日水曜日

明日9月19日の「正信偈のなかみ」

明日9月19日の「正信偈のなかみ」は予定どおり、19時から本念寺にて行います。

本念寺 住職

2019年9月8日日曜日

「そんなこと言うけど、どうしたらそうなるのさ?」

住職はブログや法話で、「念仏の道というものは生活を明るくする。」「苦労がないことがたすかったことじゃなくて、どんな苦労も受けとめてゆける人間になったこと、それがたすかったこと、仏の御恩です。」なんて書いたり言ったりしていますが、すると、「そんなこと言うけど、どうしたらそうなるのさ?」ということが出てくると思います。どうするかはその名の通り、「念仏すること」なのですが、その念仏もなかなかできない。何が念仏なのかわからないということになります。「南無阿弥陀仏」と口にとなえてみても、なんにも変わらないし、たすかったという気もしない。なんにもならないじゃないか、と。でも、変化がなに一つ無かったというわけじゃないですね。少なくとも「お念仏もうした」ということはあります。そして、「念仏してもピンとこない」ということもあるわけです。厳密にみると、念仏してなにも無かったわけじゃない。これはわたし(住職)の実感なのですが、それが念仏の道の入り口に立ったということではないでしょうか。それは人間の「わかっている世界」から、仏智の「わからない世界、思いを越えた世界」へ入る入り口なんじゃないかと思ったのです。念仏はわからないものだけど、そのわからないことを通して、深く人間の思いを越えた、真実に向かう道をすすんでいくわけです。すなわちこれが往生への道です。

 実は、道は念仏だけじゃありません。究極的には念仏ですが、親鸞聖人は主著「教行信証」の総序に「摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」と説いておられます。「摂取不捨の真言、超世希有の正法、」これは仏法のことですね、聞(もん)は聞くということ、思(し)は自分の日常生活を仏法に照らすということ、遅慮は遅れるな、遠慮なんかするなです。とても確信を持って勧めておられるわけです。この聞思のために真宗のお寺では聞法会が開かれます。お寺の行事も聞思のためです。報恩講、太子講、と行事に「講」という字がつくのもそのためです。お寺の本堂なら、真宗のお寺以外にもいろんな宗派の本堂がありますが、真宗の本堂の特徴はお参りする場所が圧倒的に広いということです。真宗以外のお寺では、お勤めをする(お坊さんが読経する)場所のほうが広いです。本堂の割合にだって、聞思するのが真宗の仏道ということがあらわれているのです。真宗は修行しない宗派と言われます。たしかに修行はなにひとつしません、というか要求されません。けれども全くなにもしないのではないのです。くり返しくり返し仏法を聞いていきなさいと、お寺の行事で聞法がないものは皆無なのです。御法事だって読経のあと絶対に住職が法話します。余談ですが、こんな話があります。昭和の時代に宗門(東本願寺)が改革運動に揺れたことがあります。その改革運動に熱く参加された住職がおられたのですが、保守派も改革派もともに人間ですから、それぞれの立場とか利害とか政治的なちから関係とかでぐちゃぐちゃになって来て、自分がなにをしているのか自信が無くなったということでした。それで、当時おられた安田先生という真宗の先生に「どうしたらいいでしょう?」と相談に行ったのです。すると安田先生のこたえは一言でした。あまりにあっさり一言だったので、もう一度尋ね直したそうです。そのこたえは、「聞法です。」という言葉でした。念仏の道は仏法を聞く、仏法に自分の生活を照らす、正しいとか保守とか改革とかでなく、聞法するということが念仏者の立場だとハッキリおっしゃったわけです。ほんとうにこれしかないのですね。そして、それ以上に確かなものもないのです。

 わたしたち人間はいつも「どうしたら?」で生活しています。「どうしたら?」のさきにあるのは、自分にとって受け入れることが可能な事態です。だから、人間が「どうしたら?」と言うとき、いちばん大事にされるのは自分の願望です。「どうしたら?」には「わたしの思いどおりにしたいんですけど。」ということがウラにくっついているんです。旅行から自坊に帰って来て「仏さま、おかげで無事に帰って来れました、ありがとうございます。」なんてのも一見立派ですが、仏さまを自分の願望のために利用しているのです。だって、無事に帰って来れたのが仏さまのおかげなら、無事でなかったときには仏さまのせいですね。それなら何かあったら仏さまを恨まないといけない。わたしが無事なのも無事でないのも「業」によります。業があって災難に遭い、業があって無事なんです。仏さまの御恩とは、どんな業にあってもそれを受けとめて生きてゆける人間にしてくださるということです。しかし、油断すると人間はすぐに仏さまも利用しにかかるのです。ときに念仏でさえ利用しようとすることがあります。真宗の集まりなんかでは、念仏するひとは立派なひとだなんて見ることがありますが、誰にも批判されない立場というのは危ないものです。批判されることがないと人間はすぐに曲がった道にはいる。念仏することで批判されることのない立場を取ろうというなら、それも念仏を自分の立場のために利用していることになります。だから、それを直していただくのが聞法です。いわば人生を通して、仏さまに叱られ批判される立場に立つ。なにをするにもなにを考えるのも自分中心、煩悩具足、罪悪深重の人間がまっすぐに生きようって思ったら、それしかないのではないですか。ずーっと叱られるのだ、人生の終いまで批判されるのだと考えたら気持ちが暗くなるかもしれません。しかし、だからこそ慈悲があるのです。キリスト教だときっとこれは神の愛と言うのでしょう。決して見捨てないのです。仏さまと言うと、人間をたすけるはたらきですが、どんな人間になっても、仏さまのはたらきはその人間を離れることはありません。仏さまは、まさに我が身となって一緒になってはたらいてくださる苦労して下さる。現世で地獄に落ちるなら、その地獄にだってついて来て下さる。そういうものがある。見ることも触ることも匂いを嗅ぐこともできないけれど、そういう人間を救おうとするはたらきが存在する。それを確信したからこそ親鸞聖人は「教行信証」を著し、「正信偈」を勧められたのです。

 優等生と劣等生、どっちが自由だと思いますか?優等生は褒められるけれども、立ち振る舞いには大きな制限がかかります。立場が大きくなって、自分を生きると言うよりも自分の立場を生きるようになる。それに対して劣等生は自由です。ちょっとでもマシなことをすれば褒めてもらえるし、失う立場も面子もない。どんな自分にだってなることができる。そう考えたら劣等生の人生のほうが、優等生の人生よりも自由でいいなぁと思いますが、そうはならない。なぜなら、人間には自分の存在を認めたい、周りに承認されたいという強力な欲求があるからです。だから、劣等生になると、優等生と比べて自分はダメだなぁ、優秀じゃないから存在価値がないなぁ、と自己嫌悪になって苦しむのです。そうして自分を他人と比べて、自分には価値がないと嫌悪するはたらきが我執です。自分にこだわる心です。その我執の心を破って、人間の思いよりもっと深い、自己存在の立場に帰っておいでと、わが心の底の底から呼びかけるのが弥陀の本願というものです。本願の「本」という字は人間の根っこという意味です。仏さまは人間の存在の根っこからはたらきかけるものなんです。我執は人生をとおしてついてまわります。自分へのこだわりは絶対に無くなったりしません。けれども、だからこそ、仏さまに叱られ、批判されて真っ直ぐに生きるということが起きてくるのです。もちろん慈悲のうちに。

 真宗では「さとり」とは言いません。「信心を獲る」と言います。「さとり」と言ったら煩悩が無くなった、我執を滅したというニュアンスになってしまう。だから「信心」と言います。けれども「信心」はさとったに等しい立場だとも言われる。「信心」は菩薩の歓喜地と同じ意味を持っているのだと親鸞聖人はおっしゃっています。煩悩も我執も残っているけれど、それがわが人生において頼りとするべきものじゃないと覚ったということです。信心とは、仏さまのはたらきに守られ、叱咤されて生活してゆく道に入ったと言うことです。その生活を「正信偈」では、「摂取心光常照護」と、これは自ら体験した人間でないと言えない言葉として表しておられます。いまは「さとり」とは言わない。けれども人生をとおして無限に「さとり」に近づいてゆく生活が開かれたということです。「さとり」というと、立派になるという印象がありますが、人間の世界で言うところの「立派」とは全然質を違えるものです。「さとり」とは偉い人間になることではないのです。自由な人間になることです。業を背負った自分の存在に向き合った、偽りのない純粋な人間になることです。その「さとり」への確実な道が開かれたということが「信心を獲る」ということです。信心歓喜と「無量寿経」にはありますが、これは何が歓喜(うれしい)のかと言ったら、我執を越えたということです。要注意ですが、我執を滅したのでなく越えたのです。我執の正体がわかった。ここにつながる道が念仏、聞法ということです。はじめに「どうしたら?」という言葉を出しましたが、「どうしたら?」は常に願望と我執のセットになっている。だからお念仏のこたえは、『仏法を聞いてゆくことで「どうしたら?」が破れる。』ということです。それを「そのままのすくい」と言います。「どうしたら?たすかる」ではなく、「何一つ変更することなし、ということがすくい」なのです。

 往生というのは難儀して困ることでも、死ぬことでもありません。仏さまに見守られ叱咤される生活が始まるということです。寿命のうちに往生の生活に入れと、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ。」と勧めておいでになるのです。

2019年9月7日土曜日

裏門の法語 1


本念寺の裏門、自動車で境内に出入りする門のところに掲示板があります。真宗のお寺ではたいてい「法語」という「ひとこと仏法」を掲示します。言葉で苦しむ人間だから、「ひとこと」で救われるということがあります。そんな「ひとこと」になればうれしいと、選んだ「ひとこと」の理由についてブログにかくのです。

ひとつめの「法語」は、

「崖っぷち ありがとう!最高だ!」松岡修造さん

 我々は崖っぷちを嫌います。いつも安心して、不安なく生活したいと願っています。けれども何事もないと、「生きているということがわからなくなる」ということがあります。満たされて苦労も何もないけれど、なんだか虚しいということがあります。仏教では短命がダメだとは言いません。苦労したということも大変だけれども、それでもいいと言います。けれども、虚しく過ぎることを恐れます。虚しく過ぎたということは生きた甲斐がなかったということです。病気や食べることができないといった問題は、命が終われば解決するけれども、虚しく過ぎてしまったということは命終わっても解決しないと問題にするのです。そもそも我々が無事に人生を送ることができるかどうかは生まれた場所、時代に左右されます。親鸞聖人の生きられた時代も大変な時代でした。ちょうど同じ時代を生きられた鴨長明が「方丈記」に記していますが、安元の大火、治承の竜巻、養和の飢餓、元暦の地震と大災難がありました。大変な時代に生まれたからたすからない。ではなく、大変な時代のなかにあって、何がほんとうにたすかってゆく道なのかを親鸞聖人は求められたのだと想像します。「崖っぷちだなんてまっぴらごめんだ」と安全、無事に身を置いたところで解決しないものがある。虚しく終わったら生まれなかったのと同じになってしまう。それが我々が生まれた時に受けとった、ひとつの仕事なのではないでしょうか。「人生の目標は何ですか?」と聞かれたら、「仏になること」と答えられた先人がおられますが、それはギャグではなくて、結構シビアな答えだったりするのです。災難、苦労を回避することだけが人生をつくるんじゃない。崖っぷちに立ったことに「ありがとう」と言える。無事がいい、楽がいい、という人間の根性を破ってその瞬間を喜ばせてくれる大事なものが、私たちの人生にはあるのだということを端的に現してくださっている言葉です。

それにしても、さすがスポーツマンですね。臨場感のある言葉です。

2019年9月6日金曜日

手短に仏教

ご法事で「手短に」と言われることがあるので。

 人間は自分でつくった世界を本当だと思いこんで疑わず(妄想)。自分の思いに捉われ、自分で自分を縛り、悪いのはあいつだ、自分が不幸なのはこいつのせいだと他人を責め、願望通りにならない自分自身を自分で裁いて、自分の存在を傷つける。自由と言うが、人間の思う自由は、貪瞋痴の煩悩にうごかされるままのことで、もとが煩悩であるから求めても決して満足することがない。その姿は立場に縛られ、欲望に引きずられて不自由なことこの上ないけれども、人間にはその自分の姿がわからない。それでいつまでも不満を口にする。愚痴を言う。そのうち寿命が尽きて娑婆を去ってゆく。一生のあいだに、一度も自分をそのままで満足することもなく一生を終える。
そもそも自分がどうなるかこうなるかには良いも悪いもない。すべては業による。業こそが自分の存在である。それを嫌うのが妄想だ。人間は妄想して迷い苦しんでいる。業を受けとめられるものになることは仏のはたらきである。妄想を破って真実に出遭えばそのままに自分の業を引きうけるということが出てくる。そこに「何一つ変更することなしに」ということがある。業を受けとめられたということは明るいということだ、なにがあっても明るいということは人間にとって大事なことである。それが仏の御恩である。はじめに御恩があるのではない。自分がたすかってみせて初めて御恩ということが明らかになる。

2019年9月2日月曜日

「教えとは信じるものである、疑ってはいけない。」は深刻な間違い。

 宗教といえば信じることからはじまるというのが普通ですよね、きっと。でも、そんなこと言ったって信じられないですよね。「念仏すればそのままで助かる」とは浄土真宗の教えですが、「南無阿弥陀仏」と念仏してみたところで全くたすかった気持ちにならない、なんにも変わらない。だから「ほんとうなの?」って心が起こる。さて、この「ほんとうなの?」もしくは、「信じられない」という疑心はどうしたらよいのでしょうか。
 まず最初にお釈迦さまは「仏法は信じなくてもいいですよ」とおっしゃいました。「別に信じなくても、そのとおりにしたらはたらきはあります」というのが仏教の基本姿勢です。だから仏教は教(まず、教えがあって)、行(方法、修行があって)、証(証を得る、悟る)と言います。これに信を入れると、教(教えがあって)、信(その教えを信じて)、行(教えの通り修行して)、証(証を得る、悟る)となるかと思います。この、「教行証」、「教信行証」って言葉、見たことありませんか。でも、少し順番が違う。親鸞聖人の著作は「教行信証」。「行」と「信」が入れ替わっている。「教行信証」とは、教(教えがあって)、行(仏法に触れて)、信(仏法への疑いが晴れて)、証(証を獲る、そのままでたすかる)ということです。そうです、疑いはそんなに簡単に晴れない。信じるなんてそんな簡単なものじゃないということが「教行信証」の並びのなかに言われているわけです。また、お釈迦さまが「信じなくてもいい」と言われたように、仏教は信じることを目的としません。浄土真宗は「信心」という言葉を使いますが、「信じなさい」とは一言も言わないのです。「信心」とは仏法への疑いが晴れた心のことを言うのです。



 さて、「疑心」というところにはなしを戻しましょう。「信じる」ことと「疑う」ことは車の両輪のようなもので、ほんとうに信じるには疑うことが不可欠です。信じると言っても、人間は口あたりの良いことに弱くて、物事を深く追求する根性も頼りないですから、すぐに適当なところに落ち着いてしまいます。自分にとって楽で都合のよいものを信じる、いや信じたい。ところが、そうやって落ち着くけれども、それはほんとうに信じるに足りるものではありませんから、結局誤魔化さないといけない。無理を見ないようにしないと保たない。信じたと言っても、ほんとうに落ち着くということができないわけです。その誤魔化した心を破って、より深い真理へと導いて下さるのが疑いの心ではないでしょうか。ほんとうに信じるとは、もはやこれ以上疑うことができない真理だということが明らかになってこそ起こるのです。わたしはこの疑いの心は仏の心だと思います。「そんなんじゃたよりにならんぞ、目を覚ませ」という心の深いところからのはたらきがあって、それを仏性という。人間からしたら面倒なことはしたくないわけです。適当に居心地のよいところを見つけて安住したいわけです。でも、そうさせてくれない。もっと進めという。ゆさぶられて安住できない。そうなれば自分を誤魔化し続けるか、疑いをもってより深く仏法を聞いて行くしかない。そうして仏法(真理)に対する信が深められてゆくということです。
 そもそも信じるなんて、自分の力ではできませんね。「住職を信じてください」と言われたとします。それで「はい、信じます」と言ったところで、疑いの思いはどんどん出てきますよね。「この坊さん自分の都合のよいように私を利用しているんじゃないか」とか、「立派な外面しているけれども中身は意地汚い人間なんじゃないか」とか、まさにその疑いはあたっているんですけどね。「信じます」という心と「疑い」の心が起きてきたら、これは間違いなく疑いの心を大事にした方がいいと思います。だって疑いの心は仏のはたらきですから。でも、疑って終わりにするのは儲け話の勧誘ぐらいしておいたほうがいい。疑ったものがほんとうに疑って終わりでいいのか、それを確かめてゆく仕事があるわけです。自分の家族を信じるか、親友を信じるか、信じるということはつねに確かめるという仕事を伴います。だって、「信じた!」とひとこと言って済むものではありませんから。人間を信じるのは困難ですね。相手は人間ですから。最後は「自分が騙されてもいい」「裏切られてもかまわない」というところに立たなければ、人間を信じることはできないと思います。すなわち損得勘定がある限り人間を信じることができない。何故なら人間は不確実な存在だからです。無常な存在です、めまぐるしく変化してどうなるかわからない。変化が終わるのは命が終わるときです。だから、人間が人間を信じるということは自分可愛さの心、我執を破らなければ成り立ちません。人間を信じるとは、まさに「賭ける」と言ってもいい。
 仏法が信じられない、疑いの心が起きてくる。このとき疑う対象は誰かと言うと、坊さんはもちろんですが、坊さんが真摯に仏法をはなしているのであれば、蓮如上人であり、親鸞聖人であり、七高僧の方々であり。お釈迦さまを疑うということになります。いや、最後はお釈迦さまだからって疑ってはいけないわけじゃないんです。疑いの心は仏性ですから、仏さんが「疑え」とはたらきかけておられるんです。坊さんの話が信用できんと離れてすむものかどうか、親鸞聖人が仰ったことなら、お釈迦さまの教えなら、疑って求めていく価値はあるのではないでしょうか。もちろん、「この坊さん大丈夫か!?」という問題は残るのですけど。