2019年7月18日木曜日

今日の板書

「正信偈のなかみ」もう五回終わりました。はやいものです。本日もご足労いただきありがとうございました。やっぱり沢山来ていただくと支えになります。
本日は、本願と光明、ありがたいものだけど、それが私たちのもとまで道として来ている!それが大事!その道の名が「浄土真宗」というお話をしました。信心という言葉が出ました。わかっているつもりの我が心を頼む世界が破れて、「千歳の暗室」(曇鸞大師)とたとえられる無明の闇に僅かな光が差して、それで外の世界の存在を知る。それがご信心というお話をしました。次回(予定通りなら8月15日19時、本念寺本堂)はいよいよ釈迦章に入ります。

2019年7月17日水曜日

7月18日の「正信偈のなかみ」

明日7月18日の本念寺正信偈講座「正信偈のなかみ」を予定どおり、19時から本念寺本堂にて行います。今回も1時間!

本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

のなかみをします。わたしたちが「たすかる」本願のはたらきは立派なものですが、それはこのわたしのところに来ている!どんな立派なはたらきでもこのわたしのところに来ていなければ人ごとなんです。念仏の浄土真宗というお話をします。

2019年7月16日火曜日

教えはひつようなものか。

 わたしたちが生きているのは日常生活です。そして日常の生活だけなら必ず行き詰まります。苦労に遭えば苦しいと嘆き、苦労が去ってよかったと喜び、再び苦労にあって迷う、それを繰り返しているうちに人生が終わります。それは物事が解決したようで、何も解決しないままに終わるということではないですか。どうして繰り返すだけなのか、解決しないのか。
わたしたちの日常生活は「都合のよいものを取って、都合の悪いものを遠ざける」ことで成り立っています。そんなのあたりまえじゃん、と思われるかもしれませんが、都合のよいものだけ取るわけにはいかない、都合の悪いものも沢山遭うていかねばならないということも動かせない事実です。だから、人間はひじょうに苦しみます。欲しいものが手に入らないと嘆き、手に入っても不安だと言い、自分をばかにしているのかと怒り、あのひとはいいなぁと妬み、具体的に挙げ始めるとキリがありません。これに名前をつけると煩悩といいます。唯識という仏教の学問では、この煩悩は二十種類あると分類されています。煩悩のボンは煩わしいの煩、煩悩のノウは悩ませるの悩、煩わしく悩ませるなんてロクなものではないですけど、これは財産の有る無しに関係なく、社会的地位、名誉に関係なく、健康不健康、老若男女関係なく人間を苦しめるものです。ひと財産築いたら煩悩の苦しみから解放されたなんて、聞いたことないですよね。財産がないときには、そりゃ欲しいと思いますが、財産ができればできたで、泥棒に入られるのではないかとか、財産を失って貧乏な生活になったらどうしようとか、相続のことで親族がモメて困るとか、いろいろ心配や悩みはくっついてきます。名誉を得たら、ちょっと立ちションしたくなったときとか困りますね。酔っ払ってクダ巻いたときに失うものが大きいのは社会的地位のある人間です。そんな財産、名誉、健康、老若、性別に関係なく人間を苦しめるものからどうやったら自由になれるのか、その道を説いてくださったのがお釈迦さまの仏教です。お釈迦さま自身、小国とはいえ身分は王子さまですから、社会的には恵まれた環境におられました。しかし、「わたしたちが社会生活で望み求めるものを全て手にしたとしても、煩悩から生じる苦しみからは自由になれない」というお釈迦さまご自身の問題をもって出家なさったのです。そして、そのお釈迦さまの仏教の流れをうけて、親鸞聖人のお念仏の教えがあります。
お念仏とは、阿弥陀如来という名の法則を私の依どころとすることです。わたしたちは普段気がつくことさえありませんが、誰でもどんな人でも「わたしがルール」って思って生活しています。その「わたしがルール」の心を翻して(廻心)、仏法にわたしの煩悩いっぱいの生活を照らし出されて生活してゆくことが、たすかった(信心を得た)ことだいいます。ところが、私には「自我」という強力なこだわりがありますから、自分のちからでもって阿弥陀如来ひとつを依どころとすることなんてとてもできません。「わたしがルール」を翻すことができないのです。だから「南無」があたまにつきます。「南無」とはナモ、「まかせよ」という呼びかけです。浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来と言われますが、厳密には「南無阿弥陀仏」が御本尊です。自分で思いこだわっている自分(自我)を離れて、生きているそのままの自分(自己)に帰れば、喜んで苦労できる生活がそこにあるのだと、だからそこへ帰りなさいという仏さまからの呼びかけです。言葉を変えれば、「我執を破って本来のいのちのはらたきに帰れ」という願いが南無阿弥陀仏という言葉になっているのです。その仏さまの願いに応えることで開かれる精神生活を往生といいます。繰り返すこと、堂々巡りすることなく、一歩一歩、仏法にわたしの生活を照らされて、知らされて生きてゆく生活ということです。じつは、煩悩はなくなったりしません。煩悩の代表、三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)のうち、貪欲、瞋恚は一生おつきあいすることになります。けれどもその貪欲、瞋恚が「わたしがルール」というところから生じているのだということがわかればいい。三毒の三つめ愚痴が破れれば、苦しみはあっても惑わされることはない生活がはじまる。それで煩悩の苦しみから自由になることができると、お釈迦さまの説かれた「無量寿経」を基として教えられてます。それを「そのままでたすかる」と言います。「都合よくなる」ということが生活において大した問題でなくなる。そんな生活であります。どんなに人生調子よく行っても、「挫折したらどうしよう、今はいいけれど将来はどうなのか」と考えると不安から自由になることはありません。一方で、「来るならおいで」と姿勢が座れば、それほど心強いことはないのではないでしょうか。