2019年5月16日木曜日

三回目おわり。

正信偈講座「正信偈のなかみ」三回目が終わりました。本日も三十余名のご参加ありがとうございました。三回目にして正信偈前半(依経分)の内容にはいりました。予定にあわせて毎回1時間でもって確実に進んでゆきたいと思います。それでは本日の板書を手直しと加筆を加えて掲載します。

 次回は6月20日、羽咋幼稚園バザー準備の関係もあって、本念寺本堂で行います。

普放無量無邊光 無碍無對光炎王

清淨歡喜智慧光 不斷難思無稱光

超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

をやります。

2019年5月15日水曜日

三回目、予定通りやります。

正信偈講座「正信偈のなかみ」は明日5月16日19時より本念寺で予定どおり行います。今回は、

法藏菩薩因位時 在世自在王佛所
覩見諸佛淨土因 國土人天之善惡
建立無上殊勝願 超發希有大弘誓
五劫思惟之攝受 重誓名聲聞十方

のところです。「無量寿経」、本願について説かれているところです。

2019年5月10日金曜日

仏法は難しい。

「仏法は難しい」と言います。その通りです。わたしも、ちんぷんかんぷんな本を沢山かかえています。でも、それはほんとうに難しいということでしょうか。それは言葉として難解なのではなく、私たちの考えと全く異なるから、根本的に理解に苦しむということではないでしょうか。
私たちは努力と発展を基として生活しています。努力すれば発展する、発展すれば報われる、これは人間社会を動かしてゆくためには有効な考えですが、根本的に「人間の都合のよい様にする」というものですから、「都合のよい様にならなかったらどうする」という事象については、全くフォローされません。努力して都合よくならないときは、我慢するか人生を嘆くか、どちらもあまりいい受け取りかたではありませんね。
仏法は「都合どおりになって解決するなんて、ごまかしである」という立場で人間の人生を見ます。「都合よくしてはいけない」ということではありません。「都合よくしてもかまわないけど、根本的な問題は解決しない」というのです。たしかに努力しても都合よくできないことは沢山あります。老死なんてまさに都合よくないけれども、誰もが直面していく問題です。一方、都合よくなれば問題ないかというと、べつに都合よくなったからといって「これで満足」とか、あまり感じることもないですね。あるのは更に求めてしまうという状態なのではないでしょうか。貯金はどこまでしても十分だとは思えない。楽しいことも、もっと、もっと、ばかりできりがない。綺麗になれば劣化する心配が出てくる。やっぱりいいことだけじゃない、ややこしい。この人間社会のことを娑婆と言いますね。サンスクリット語の「サハー」の音写が娑婆です。サハーを翻訳すると忍土、耐え忍ばなければならない世界という意味です。「娑婆の空気は美味い」なんて台詞がありますが、使い方をまったく誤っていますね。
このように、仏法はなんでも都合よくするための教えではありません。苦労はするし、病気にもなる。収入は、頑張りしだい、縁しだい。時がたてば老いるし、老いればいろいろ都合が悪くなるし、そのうち娑婆ともサヨナラするし、という人間の生活は何も変わらない。けれども変化はある。仏法に遭えば生活の質が変わる。どういうふうに変わるのかと言えば、苦労はするけど苦労でなくなる。夢とか目標とか言って求めていたものよりももっと大事なものを発見できる。人間が普段求めている「都合のよい生活」とはまったく違った世界をひらいてくるのが仏法です。これは言うならば人間理性の否定です。「仏となるために一切の努力を要求しない」のがお念仏の道ですから、理解して、実行して、上手くやって、という考えからは、とうてい受け入れることのできないものがあります。これが仏法の難しさのいちばんの原因ではないでしょうか。仏法は「道」であります。仏道なんていいます。人間には受け入れがたい教えだけれども、道はこの私たちのもとにまで来ています。親鸞聖人は「聞思」とおっしゃいました。仏法を「聞いて」仏法を生活に「思って」、それを繰り返してゆけば業になる。人間をほんとうに動かすものは業です。業を重ねてゆけば、気が熟すればひらける。生活が変わる。間違いなしに仏となれる不退転の生活をはじめられる。と、言うわけで、わからんなりにも重ねることが大事ということでないでしょうか。わたしも実感としてあります。10年前にちんぷんかんぷんだったことがここに来て受け取れるようになった気がしてます。大事なのは継続的な努力ではありません。「願い」だそうです。仏法を聞きながら寝ちゃってもちゃんとはたらくんだそうです。