2016年1月1日金曜日

としこし。

くらいですね、2015年12月31日、除夜の鐘です。

11時半から1時頃まで、ご門徒さん、近所の方々がポツポツ鐘をつきにいらしてました。

そして、その本念寺除夜の鐘でくばります、「煩悩饅頭」。この世で本念寺の除夜の鐘以外食べることのできないおいしいお饅頭です。煩悩を流すんじゃなくて、食べる。食べて煩悩をつけて年越し。阿弥陀仏の誓願にひかれて仏道を歩むのには煩悩おそるるべからずであります。住職デザインの「煩」の字がおされております。次に食べるチャンスは一年後。

2015年9月23日水曜日

あさ、報恩講の準備

本日より3日間(26日もいれると4日間)本念寺報恩講であります。

報恩講初日、23日はあさの6時から準備ではじまります。

おー、高いところまであがりますね。

2015年9月15日火曜日

南無塾、大丈夫そう。

明日、2015年9月16日19時から予定しております「南無塾」(仏教で考える、仕事とわたし。)は予定どおりに行います。本念寺 住職 飯貝 孝介。
場所は、〒925-0122 石川県羽咋郡 志賀町倉垣1 6 倉垣集会所であります。

現在時刻は 9月15日4時11分。

2015年6月26日金曜日

ひさしぶりに。

 まったく更新が滞っているなぁと、たまに気づいてはいたけど、モォ10ヶ月も放置だったのですね。羽咋幼稚園のブログと、わたくし個人のツィッター、本念寺のブログと、3つはやっぱりナマケモノに荷が重い。はじめて7年目になる「ブログはくい幼稚園日日」は今年度に入ってものすごぉいアクセス数になっていて、はじめたときの想像を超えたのです。なんせ、初年度の投稿が7年かかって得た最高閲覧数(7821)を今年度の4月1ヶ月(9269)がすでに上回ってる。だから、今年は幼稚園ブログにかかって他がなかなかできない。理由はきっとスマホの普及だと思いますが、見られていると思うとおろそかにできない。それで、凍結状態だった本念寺ブログもいいわけをかねて更新しています。
 仏教とはいったい何であろうかという「問い」。先日お聞きした本多弘之先生のお話では「衆生を助けたいという願い」とおっしゃっていました。お経には、お釈迦さまが直接説かれたことを弟子の記憶で経典にしたとされているもの、ずっと後でお釈迦さまが説いたことにして創作したものではないかと言われているもの(真宗の浄土三部経はこれにあたります)があると言われておりますが、どれが本物だなんてことが大事なんじゃなくて、衆生を助けたいという教えが記されているかが大事なんだということでした。お経がつくられたのはもう2000年あまりも昔、大昔のこと、どれが本物かを基準にしても仕方ないわけです。お釈迦さまの直接説かれたことこそが本物だなんて言ってしまうと、釈迦絶対主義になってしまう。釈迦絶対主義だとお釈迦さま自身が説かれた「すべてのものを疑いなさい、仏法でさえも」という姿勢から逸脱してしまう。だから、親鸞さんもおっしゃっておりますが、釈迦諸仏の説かれた仏教を拠り所にするというのが仏教だと思うのです。
もうひとつ、私が思いついたのか、何かの本で見たのか、ハッキリしませんが、仏教は「生き方」だと思います。人間生きていれば迷うことばかり、どんなふうにふるまって、どんなふうに判断したらいいかわからない。数学や英語、国語、理科、社会、学校で習うことは明解な答えを示してくれますが、生き方は教えてくれない。それを聴くことができるのが仏教、いや世界の宗教はそういうものだと思います。
だから、仏教を聴くことがオススメです。娑婆で大事に心がけていたことが仏教からみるとあさっての方向かもしれない。一度だけ生きるのです、お釈迦さまに始まる智慧を聴いてはいかがでしょうか。

2014年8月22日金曜日

ツィートから

仏教のことを哲学だと私は以前言っておりましたが、仏教は宗教だと思います。哲学的な深い探求のうえに成立した宗教です。哲学というのは理解しないとはたらかないのです。哲学を聞いてチンプンカンプンのひとは救済の外です。→

→宗教は全てのひと、学力、体力、財力、権力に関係なくはたらいて宗教です。だから頭で理解しないままでもはたらくことが不可欠な条件です。自分では量ることのできないものを信じる、すなわち南無阿弥陀仏です。→

→だから同時に危なっかしいわけでもあります。変な宗教を盲信したら大変なことになった!って話はよくある話です。だけどね、自分で理解したとして、それが正解なのか間違いなのか人間である以上わからんのです。自分の理解自体が間違っている可能性もある。→

→宗教を信じたほうが心は安定します。これは最近特に思うことです。人間が自らの知識に依って、考えて判断することには限界があるんです。自分はどうして存在するのか、そんな根源的な問いを抱えて日常を生きるのはとても心の負担が重い。これは心理学者の河井隼雄さんが言っておられました。→

→だから宗教があるほうが楽で安定しているとおっしゃっています。あ、と、は、変な宗教にひっかからないこと。そこが難しい。だって宗教は自分でわかって判断することのできないものだから。頭で理解して変な宗教を避けることはきっと不可能だと思います。→

→変な宗教から身をまもりながら宗教に接してゆく、これがこれから必要なのではないでしょうか。その唯一の方法は疑うことだと思います。疑いながら教えを聞いて間合いを計っていくわけです。親鸞さんが師匠の法然さんのところに百日間通って後入門する、これは疑っていたのだと思います。→

→自分で疑って、疑い抜いて教えを聞いたら、あとは身投げするように信じるしかないわけです。その心を親鸞さんは騙されて地獄に堕ちても悔い無しと言っておられる。なるほどなぁ、もの凄いことだなぁと思います。でも、とりあえずは「信じよ」って言って来る宗教が怪しいという根拠にはなりますね。

顔見知りのまちで暮らす

 お坊さん、園長どちらもそれなりに顔の広い職業であります。羽咋の駅前にゆけば停まっているタクシーの運転手さんたち、ほとんど顔見知りのひとです。お坊さんは役割上タクシーを利用することが多い仕事なのです。スーパーに買い物に行っても一人か二人はお寺、幼稚園を介した知人に会います。値段の高いものを買うと贅沢していると思われるかな、お惣菜なんかたくさん買うと格好わるいかな、なんてことを考えてしまいます。だから知ったひとのいない遠くのスーパーまで買いに出かけるというひともいます。私も自分が痔かも知れないと悩んだときは、わざわざ金沢市の薬局でお薬を求めたことがあります。やっぱり顔見知りの多いことは窮屈なことなのでしょうか?

 かって、移動手段が限られていた時代においては田舎に住もうと街に住もうとお互いが顔見知りであるというコミュニティを形成して生活してきました。お互いが顔見知りであるということは、常に複雑な人間関係がはたらいているということです。顔見知りのなかで暮らすと「変なひとだと思われやしないか」「立派なひとと思われたい」「陰口を言われるようなことにはなりたくない」という心が生じます。だから窮屈だと感じます。ひとが大なり小なり顔見知りのコミュニティがある故郷を離れて、誰も自分のことをしらないであろう場所に移動したがるのは、そうした窮屈さから解放されると心が楽に生活できると思っているからです。

 自分のことを誰も知らない街を一人で歩いていると、自分が暴れます。不機嫌な顔をしてもいいし、不親切なひとになることもできる。周囲の人間にたいする想像力がはたらかなくなって、傍若無人にふるまうようになります。仏教では、自分というのは記憶や経験、周囲の環境も含めた様々な縁によって生じているものだと教えています。自分の都合を適度に抑制してくれるものがなければ、とことん自分の都合が増長して迷惑な人間になる可能性が高いのです。自分のことを誰も知らない場所で暮らすと、人間は自分勝手な困ったひとになる傾向があるのです。お互い自分の都合を抑制しないから、暮らしは世知がないものになります。互いに不快の因となって怒ることの多い日常になります。

顔見知りのコミュニティで暮らすのは窮屈だ、知らないひとのなかで暮らせば世知がない、はたして、私たちはどこに住んだらよいのでしょうか。

 人に立派なひとだと思われたい、キチンとしたひとだ、ステキなひとだと印象づけたい、これはただの煩悩であります。そもそもそこまで自分のことを気にされていないのに、あれこれ自分のなかで他人に与える印象を考えて煩悶しているのが人間なんです。人の噂も七十五日ということわざがあります。たとえ噂にのぼっても七十五日しか(も!?)保たないよということです。七十五日ほおっておけば消えてなくなるものに大きく心を煩わせて暮らしているのが我々です。これは立派だとかステキだとか思われたいという煩悩のほうをなんとかしたほうがよいわけです。あのひとは変わっているなぁ、あのひとも人間だなぁという見られかたを受け入れてゆく。そうすれば顔見知りのコミュニティで暮らす心労が軽減でき、なおかつ顔見知りのコミュニティであるからこその安心のなかに暮らせるのです。顔見知りの安心、これは特に子どもやお年寄りにとっては大事なことなのではないでしょうか。

 親鸞さんは「愚禿鈔(ぐとくしょう)」で「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」と2回も書いておられます。「愚禿と名のる私の心は、その内側には愚かさを持ちながら、外見には賢く振る舞って生きていこうとしている。」という意味であります。自らを偽らず、自らに向きあって煩悩具足の自分を生きよという教えだと思います。煩悩具足の自分として生きるからこそ阿弥陀さんのお助けが活きてくるのであります。

2014年2月3日月曜日

UFOとお坊さん

 (先々週になったけど)沖縄、那覇市の上空にUFOが出たそうです。私もYouTubeで撮影された動画を見ましたが、色が次々と変化してとても綺麗に見えました。こういうことがあると、その映像はニセモノ、トリック撮影やCG合成だと言い出す人がおりますが、なぜそういうのでしょうか?または、UFOには宇宙人が乗っていて、地球を偵察にやってきているのだという人もおりますが、どうやったらそこまでわかるのでしょうか。
 「お坊さん的にはUFOってどうなのよ」って、別に聞く人がいるわけではありませんが、仏さまの教えにてらしてお書きしたいと思います。まず、個人的にもお坊さんとしてでも、キラキラと光りながら空を飛ぶわけのわからないものは存在するのだろうと思います。私もCG映像をつくったり、教えたりしておりましたから、合成映像に関しては敏感な方です。それでも沖縄のUFOは自然なようにみえました。ただ、それが宇宙人の乗り物であるかはわかりません。私の社会経験上説明のつかないものが空を飛んでいる映像をみたというだけであります。
 ところで、人間は説明のつかないものには拒否反応がでるようです。さきにあげた、何が何でもUFOは存在しないんだと主張するひと、一方で想像をふくらませてUFOを宇宙人の乗り物だというひと、これはどちらも説明のつかないものがあっては困るという姿勢で同一です。とにかく何等かしら説明をつけてわかったことにしないと気持ちが安定しないのです。それでUFO以外にもたくさんの説明のつかないことを無いことにして暮らしているのが現代の人間の生活です。ときにしばらくの間なかったもの、あるはずなんだけどあってほしくないものも無いことにするのが人間の心のはたらきです。地震や津波、竜巻、国の経済の破綻などがそれにあてはまるだろうと思います(かと言ってやたら心配して生きるのがよいとは言いませんが)。
 現在の科学で説明のつかないことはたくさんあるだろうと考えます。だからと言ってそれをオバケのせいにして恐れおののいたり、お札を貼って呪文をとなえるなんてことは、本来しないでよい心配をする愚かな行為です。一方で「科学で説明できないことは存在しない!」なんて言うのも「人間は神様が創造されたのだからお猿から人間が進化したなんてあり得ない!」って言っているのと似たものです。解剖学者の養老孟司さんはこのことを「バカの壁」とおっしゃいました。先日のSTAP細胞の発見も、研究者の小保方さんがまわり中からあり得ないと否定されたことを一心に継続して研究された成果です。本当に科学的なひとは物事にたいしてとても柔軟なひとだとおっしゃる学者さんもいます。仏法では、自分の心のはたらきをなるべく小さくして物事を見るように教えています。南無阿弥陀仏のお念仏もそのためにはたらきます。
 UFOとは、未確認飛行物体のことですから、空を飛ぶなんだかよくわからないものが存在するのは事実です。でも、そこに宇宙人が乗っているうんぬんは人間の心が勝手に考えたことです。空を飛ぶよくわからないものをキッカケに想像力をはたらかせて、他の事象とも関連づけて推理する、これはわからないことを知ろうとする人間の大事でステキな能力と思いますが、自分で考えたことに縛られて、恐れおののくようになる、他の説明(例えばUFOは未発見の鳥だとか)を受け入れられなくなると、それは愚かで嘆かわしいことになります。親鸞さんが正像末和讃で「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」(2013年8月27日のブログに書いています)と書かれたことは現代の私たちにもあてはまるのであります。