明日7月18日の本念寺正信偈講座「正信偈のなかみ」を予定どおり、19時から本念寺本堂にて行います。今回も1時間!
本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
のなかみをします。わたしたちが「たすかる」本願のはたらきは立派なものですが、それはこのわたしのところに来ている!どんな立派なはたらきでもこのわたしのところに来ていなければ人ごとなんです。念仏の浄土真宗というお話をします。
2019年7月17日水曜日
2019年7月16日火曜日
教えはひつようなものか。
わたしたちが生きているのは日常生活です。そして日常の生活だけなら必ず行き詰まります。苦労に遭えば苦しいと嘆き、苦労が去ってよかったと喜び、再び苦労にあって迷う、それを繰り返しているうちに人生が終わります。それは物事が解決したようで、何も解決しないままに終わるということではないですか。どうして繰り返すだけなのか、解決しないのか。
わたしたちの日常生活は「都合のよいものを取って、都合の悪いものを遠ざける」ことで成り立っています。そんなのあたりまえじゃん、と思われるかもしれませんが、都合のよいものだけ取るわけにはいかない、都合の悪いものも沢山遭うていかねばならないということも動かせない事実です。だから、人間はひじょうに苦しみます。欲しいものが手に入らないと嘆き、手に入っても不安だと言い、自分をばかにしているのかと怒り、あのひとはいいなぁと妬み、具体的に挙げ始めるとキリがありません。これに名前をつけると煩悩といいます。唯識という仏教の学問では、この煩悩は二十種類あると分類されています。煩悩のボンは煩わしいの煩、煩悩のノウは悩ませるの悩、煩わしく悩ませるなんてロクなものではないですけど、これは財産の有る無しに関係なく、社会的地位、名誉に関係なく、健康不健康、老若男女関係なく人間を苦しめるものです。ひと財産築いたら煩悩の苦しみから解放されたなんて、聞いたことないですよね。財産がないときには、そりゃ欲しいと思いますが、財産ができればできたで、泥棒に入られるのではないかとか、財産を失って貧乏な生活になったらどうしようとか、相続のことで親族がモメて困るとか、いろいろ心配や悩みはくっついてきます。名誉を得たら、ちょっと立ちションしたくなったときとか困りますね。酔っ払ってクダ巻いたときに失うものが大きいのは社会的地位のある人間です。そんな財産、名誉、健康、老若、性別に関係なく人間を苦しめるものからどうやったら自由になれるのか、その道を説いてくださったのがお釈迦さまの仏教です。お釈迦さま自身、小国とはいえ身分は王子さまですから、社会的には恵まれた環境におられました。しかし、「わたしたちが社会生活で望み求めるものを全て手にしたとしても、煩悩から生じる苦しみからは自由になれない」というお釈迦さまご自身の問題をもって出家なさったのです。そして、そのお釈迦さまの仏教の流れをうけて、親鸞聖人のお念仏の教えがあります。
お念仏とは、阿弥陀如来という名の法則を私の依どころとすることです。わたしたちは普段気がつくことさえありませんが、誰でもどんな人でも「わたしがルール」って思って生活しています。その「わたしがルール」の心を翻して(廻心)、仏法にわたしの煩悩いっぱいの生活を照らし出されて生活してゆくことが、たすかった(信心を得た)ことだいいます。ところが、私には「自我」という強力なこだわりがありますから、自分のちからでもって阿弥陀如来ひとつを依どころとすることなんてとてもできません。「わたしがルール」を翻すことができないのです。だから「南無」があたまにつきます。「南無」とはナモ、「まかせよ」という呼びかけです。浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来と言われますが、厳密には「南無阿弥陀仏」が御本尊です。自分で思いこだわっている自分(自我)を離れて、生きているそのままの自分(自己)に帰れば、喜んで苦労できる生活がそこにあるのだと、だからそこへ帰りなさいという仏さまからの呼びかけです。言葉を変えれば、「我執を破って本来のいのちのはらたきに帰れ」という願いが南無阿弥陀仏という言葉になっているのです。その仏さまの願いに応えることで開かれる精神生活を往生といいます。繰り返すこと、堂々巡りすることなく、一歩一歩、仏法にわたしの生活を照らされて、知らされて生きてゆく生活ということです。じつは、煩悩はなくなったりしません。煩悩の代表、三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)のうち、貪欲、瞋恚は一生おつきあいすることになります。けれどもその貪欲、瞋恚が「わたしがルール」というところから生じているのだということがわかればいい。三毒の三つめ愚痴が破れれば、苦しみはあっても惑わされることはない生活がはじまる。それで煩悩の苦しみから自由になることができると、お釈迦さまの説かれた「無量寿経」を基として教えられてます。それを「そのままでたすかる」と言います。「都合よくなる」ということが生活において大した問題でなくなる。そんな生活であります。どんなに人生調子よく行っても、「挫折したらどうしよう、今はいいけれど将来はどうなのか」と考えると不安から自由になることはありません。一方で、「来るならおいで」と姿勢が座れば、それほど心強いことはないのではないでしょうか。
わたしたちの日常生活は「都合のよいものを取って、都合の悪いものを遠ざける」ことで成り立っています。そんなのあたりまえじゃん、と思われるかもしれませんが、都合のよいものだけ取るわけにはいかない、都合の悪いものも沢山遭うていかねばならないということも動かせない事実です。だから、人間はひじょうに苦しみます。欲しいものが手に入らないと嘆き、手に入っても不安だと言い、自分をばかにしているのかと怒り、あのひとはいいなぁと妬み、具体的に挙げ始めるとキリがありません。これに名前をつけると煩悩といいます。唯識という仏教の学問では、この煩悩は二十種類あると分類されています。煩悩のボンは煩わしいの煩、煩悩のノウは悩ませるの悩、煩わしく悩ませるなんてロクなものではないですけど、これは財産の有る無しに関係なく、社会的地位、名誉に関係なく、健康不健康、老若男女関係なく人間を苦しめるものです。ひと財産築いたら煩悩の苦しみから解放されたなんて、聞いたことないですよね。財産がないときには、そりゃ欲しいと思いますが、財産ができればできたで、泥棒に入られるのではないかとか、財産を失って貧乏な生活になったらどうしようとか、相続のことで親族がモメて困るとか、いろいろ心配や悩みはくっついてきます。名誉を得たら、ちょっと立ちションしたくなったときとか困りますね。酔っ払ってクダ巻いたときに失うものが大きいのは社会的地位のある人間です。そんな財産、名誉、健康、老若、性別に関係なく人間を苦しめるものからどうやったら自由になれるのか、その道を説いてくださったのがお釈迦さまの仏教です。お釈迦さま自身、小国とはいえ身分は王子さまですから、社会的には恵まれた環境におられました。しかし、「わたしたちが社会生活で望み求めるものを全て手にしたとしても、煩悩から生じる苦しみからは自由になれない」というお釈迦さまご自身の問題をもって出家なさったのです。そして、そのお釈迦さまの仏教の流れをうけて、親鸞聖人のお念仏の教えがあります。
お念仏とは、阿弥陀如来という名の法則を私の依どころとすることです。わたしたちは普段気がつくことさえありませんが、誰でもどんな人でも「わたしがルール」って思って生活しています。その「わたしがルール」の心を翻して(廻心)、仏法にわたしの煩悩いっぱいの生活を照らし出されて生活してゆくことが、たすかった(信心を得た)ことだいいます。ところが、私には「自我」という強力なこだわりがありますから、自分のちからでもって阿弥陀如来ひとつを依どころとすることなんてとてもできません。「わたしがルール」を翻すことができないのです。だから「南無」があたまにつきます。「南無」とはナモ、「まかせよ」という呼びかけです。浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来と言われますが、厳密には「南無阿弥陀仏」が御本尊です。自分で思いこだわっている自分(自我)を離れて、生きているそのままの自分(自己)に帰れば、喜んで苦労できる生活がそこにあるのだと、だからそこへ帰りなさいという仏さまからの呼びかけです。言葉を変えれば、「我執を破って本来のいのちのはらたきに帰れ」という願いが南無阿弥陀仏という言葉になっているのです。その仏さまの願いに応えることで開かれる精神生活を往生といいます。繰り返すこと、堂々巡りすることなく、一歩一歩、仏法にわたしの生活を照らされて、知らされて生きてゆく生活ということです。じつは、煩悩はなくなったりしません。煩悩の代表、三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)のうち、貪欲、瞋恚は一生おつきあいすることになります。けれどもその貪欲、瞋恚が「わたしがルール」というところから生じているのだということがわかればいい。三毒の三つめ愚痴が破れれば、苦しみはあっても惑わされることはない生活がはじまる。それで煩悩の苦しみから自由になることができると、お釈迦さまの説かれた「無量寿経」を基として教えられてます。それを「そのままでたすかる」と言います。「都合よくなる」ということが生活において大した問題でなくなる。そんな生活であります。どんなに人生調子よく行っても、「挫折したらどうしよう、今はいいけれど将来はどうなのか」と考えると不安から自由になることはありません。一方で、「来るならおいで」と姿勢が座れば、それほど心強いことはないのではないでしょうか。
2019年6月20日木曜日
本日の板書
本日もたくさんご足労いただきありがとうございます。もう4ヶ月がすみました。「正信偈のなかみ」は36回3年間を予定としますが、依経分だけなら12回1年間で完了です。と、いうことは早くも1/3が終わったことになります。
本日はタブレット板書でなかったので講義ノートと記憶(覚えているうちに)をたよりに板書を作成しました。
十二光では、「いつでも、どこでも、どんなときでも(どんなひとでも)」たすかることがお念仏の大事な特徴。「阿弥陀さん一仏で大丈夫」「煩悩はいらんものだけれども清浄、歓喜、智慧の因となる」「仏法を何故だか聞いてしまうのも仏のしごと」「仏の本質はわからん、とらえようがない」「ほんとうの世界は我々の目に見たものを超えたもっと豊かなもの」ということが表されています。あっ、数行で済んでしまいましたね。住職が1時間も喋ったのはなんだったのでしょう。
本日はタブレット板書でなかったので講義ノートと記憶(覚えているうちに)をたよりに板書を作成しました。
十二光では、「いつでも、どこでも、どんなときでも(どんなひとでも)」たすかることがお念仏の大事な特徴。「阿弥陀さん一仏で大丈夫」「煩悩はいらんものだけれども清浄、歓喜、智慧の因となる」「仏法を何故だか聞いてしまうのも仏のしごと」「仏の本質はわからん、とらえようがない」「ほんとうの世界は我々の目に見たものを超えたもっと豊かなもの」ということが表されています。あっ、数行で済んでしまいましたね。住職が1時間も喋ったのはなんだったのでしょう。
2019年6月19日水曜日
2019年5月16日木曜日
三回目おわり。
正信偈講座「正信偈のなかみ」三回目が終わりました。本日も三十余名のご参加ありがとうございました。三回目にして正信偈前半(依経分)の内容にはいりました。予定にあわせて毎回1時間でもって確実に進んでゆきたいと思います。それでは本日の板書を手直しと加筆を加えて掲載します。
次回は6月20日、羽咋幼稚園バザー準備の関係もあって、本念寺本堂で行います。
普放無量無邊光 無碍無對光炎王
清淨歡喜智慧光 不斷難思無稱光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
をやります。
次回は6月20日、羽咋幼稚園バザー準備の関係もあって、本念寺本堂で行います。
普放無量無邊光 無碍無對光炎王
清淨歡喜智慧光 不斷難思無稱光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
をやります。
2019年5月15日水曜日
三回目、予定通りやります。
正信偈講座「正信偈のなかみ」は明日5月16日19時より本念寺で予定どおり行います。今回は、
法藏菩薩因位時 在世自在王佛所
覩見諸佛淨土因 國土人天之善惡
建立無上殊勝願 超發希有大弘誓
五劫思惟之攝受 重誓名聲聞十方
のところです。「無量寿経」、本願について説かれているところです。
2019年5月10日金曜日
仏法は難しい。
「仏法は難しい」と言います。その通りです。わたしも、ちんぷんかんぷんな本を沢山かかえています。でも、それはほんとうに難しいということでしょうか。それは言葉として難解なのではなく、私たちの考えと全く異なるから、根本的に理解に苦しむということではないでしょうか。
私たちは努力と発展を基として生活しています。努力すれば発展する、発展すれば報われる、これは人間社会を動かしてゆくためには有効な考えですが、根本的に「人間の都合のよい様にする」というものですから、「都合のよい様にならなかったらどうする」という事象については、全くフォローされません。努力して都合よくならないときは、我慢するか人生を嘆くか、どちらもあまりいい受け取りかたではありませんね。
仏法は「都合どおりになって解決するなんて、ごまかしである」という立場で人間の人生を見ます。「都合よくしてはいけない」ということではありません。「都合よくしてもかまわないけど、根本的な問題は解決しない」というのです。たしかに努力しても都合よくできないことは沢山あります。老死なんてまさに都合よくないけれども、誰もが直面していく問題です。一方、都合よくなれば問題ないかというと、べつに都合よくなったからといって「これで満足」とか、あまり感じることもないですね。あるのは更に求めてしまうという状態なのではないでしょうか。貯金はどこまでしても十分だとは思えない。楽しいことも、もっと、もっと、ばかりできりがない。綺麗になれば劣化する心配が出てくる。やっぱりいいことだけじゃない、ややこしい。この人間社会のことを娑婆と言いますね。サンスクリット語の「サハー」の音写が娑婆です。サハーを翻訳すると忍土、耐え忍ばなければならない世界という意味です。「娑婆の空気は美味い」なんて台詞がありますが、使い方をまったく誤っていますね。
このように、仏法はなんでも都合よくするための教えではありません。苦労はするし、病気にもなる。収入は、頑張りしだい、縁しだい。時がたてば老いるし、老いればいろいろ都合が悪くなるし、そのうち娑婆ともサヨナラするし、という人間の生活は何も変わらない。けれども変化はある。仏法に遭えば生活の質が変わる。どういうふうに変わるのかと言えば、苦労はするけど苦労でなくなる。夢とか目標とか言って求めていたものよりももっと大事なものを発見できる。人間が普段求めている「都合のよい生活」とはまったく違った世界をひらいてくるのが仏法です。これは言うならば人間理性の否定です。「仏となるために一切の努力を要求しない」のがお念仏の道ですから、理解して、実行して、上手くやって、という考えからは、とうてい受け入れることのできないものがあります。これが仏法の難しさのいちばんの原因ではないでしょうか。仏法は「道」であります。仏道なんていいます。人間には受け入れがたい教えだけれども、道はこの私たちのもとにまで来ています。親鸞聖人は「聞思」とおっしゃいました。仏法を「聞いて」仏法を生活に「思って」、それを繰り返してゆけば業になる。人間をほんとうに動かすものは業です。業を重ねてゆけば、気が熟すればひらける。生活が変わる。間違いなしに仏となれる不退転の生活をはじめられる。と、言うわけで、わからんなりにも重ねることが大事ということでないでしょうか。わたしも実感としてあります。10年前にちんぷんかんぷんだったことがここに来て受け取れるようになった気がしてます。大事なのは継続的な努力ではありません。「願い」だそうです。仏法を聞きながら寝ちゃってもちゃんとはたらくんだそうです。
私たちは努力と発展を基として生活しています。努力すれば発展する、発展すれば報われる、これは人間社会を動かしてゆくためには有効な考えですが、根本的に「人間の都合のよい様にする」というものですから、「都合のよい様にならなかったらどうする」という事象については、全くフォローされません。努力して都合よくならないときは、我慢するか人生を嘆くか、どちらもあまりいい受け取りかたではありませんね。
仏法は「都合どおりになって解決するなんて、ごまかしである」という立場で人間の人生を見ます。「都合よくしてはいけない」ということではありません。「都合よくしてもかまわないけど、根本的な問題は解決しない」というのです。たしかに努力しても都合よくできないことは沢山あります。老死なんてまさに都合よくないけれども、誰もが直面していく問題です。一方、都合よくなれば問題ないかというと、べつに都合よくなったからといって「これで満足」とか、あまり感じることもないですね。あるのは更に求めてしまうという状態なのではないでしょうか。貯金はどこまでしても十分だとは思えない。楽しいことも、もっと、もっと、ばかりできりがない。綺麗になれば劣化する心配が出てくる。やっぱりいいことだけじゃない、ややこしい。この人間社会のことを娑婆と言いますね。サンスクリット語の「サハー」の音写が娑婆です。サハーを翻訳すると忍土、耐え忍ばなければならない世界という意味です。「娑婆の空気は美味い」なんて台詞がありますが、使い方をまったく誤っていますね。
このように、仏法はなんでも都合よくするための教えではありません。苦労はするし、病気にもなる。収入は、頑張りしだい、縁しだい。時がたてば老いるし、老いればいろいろ都合が悪くなるし、そのうち娑婆ともサヨナラするし、という人間の生活は何も変わらない。けれども変化はある。仏法に遭えば生活の質が変わる。どういうふうに変わるのかと言えば、苦労はするけど苦労でなくなる。夢とか目標とか言って求めていたものよりももっと大事なものを発見できる。人間が普段求めている「都合のよい生活」とはまったく違った世界をひらいてくるのが仏法です。これは言うならば人間理性の否定です。「仏となるために一切の努力を要求しない」のがお念仏の道ですから、理解して、実行して、上手くやって、という考えからは、とうてい受け入れることのできないものがあります。これが仏法の難しさのいちばんの原因ではないでしょうか。仏法は「道」であります。仏道なんていいます。人間には受け入れがたい教えだけれども、道はこの私たちのもとにまで来ています。親鸞聖人は「聞思」とおっしゃいました。仏法を「聞いて」仏法を生活に「思って」、それを繰り返してゆけば業になる。人間をほんとうに動かすものは業です。業を重ねてゆけば、気が熟すればひらける。生活が変わる。間違いなしに仏となれる不退転の生活をはじめられる。と、言うわけで、わからんなりにも重ねることが大事ということでないでしょうか。わたしも実感としてあります。10年前にちんぷんかんぷんだったことがここに来て受け取れるようになった気がしてます。大事なのは継続的な努力ではありません。「願い」だそうです。仏法を聞きながら寝ちゃってもちゃんとはたらくんだそうです。
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