関西に住んでいる友人が、夜中に見知らぬ人からお金を貸してくれと頼まれたと、インターネットで書いておりました。真夜中にコンビニへ出かけたらホームレス風のおじさんに家へ帰る金がないから電車賃を貸して欲しいと頼まれたそうです。病院へ来たのだが帰れないと。説明に納得しがたいところもあったそうですが、友人はお金を貸してあげたそうです。ただ、そのことでいろいろ考えることになった。本当に家に帰るお金がないのかどうかもっとキチンと話を聞くべきだったと、いろいろ心を迷わせることになったと書いていました。
それで、いろいろ迷い、考えをめぐらせながらも結局お金を貸した友人をえらいと思います。貸すということはその人を信じる方に賭けるということです。騙されたのならそれはとても不快なことですから、私ならば、さんざん話を聞いておいて貸さなかったかも知れません。外国では人にお金を恵むと、その人が自立するきっかけをなくするから恵んではいけないと考えるところもあります。でも、それは相手を信用することができない人間の言い訳だと思います。要は自分が人助けをするのか、騙されてお金をせびられたお人好しになるかの二者択一で迷っているのです。これは本質的に電車賃を貸す貸さないという行為とは全くつながりのないものです。電車賃は貸せるか貸せないか、それだけです。ところがその電車賃を貸すという行為に自分がどういう立場の人間になるかという思索が入ってくるわけです。おじさんが嘘をついていたら、自分はおじさんにいいように利用されてお金を渡したお人好しになってしまう。これはかなり腹の立つことです。それではおじさんを信用しないで電車賃を貸さないでいるとどうなるか。きっと後で、もしおじさんの言ったことが本当だったら、自分は困っているひとに冷たい仕打ちをした人間になってしまうと、後悔してやはり不快な気持ちになります。結局電車賃を貸そうが貸さまいが、おじさんが嘘をついていたのか、本当のことを言ったのか、それを考えるたびに心が苦しくなるのです。
おそらく最初に話を聞いた時にお金を貸す貸さないの答えは出ているのだと思います。それを話を聞きながら考え始めるからわからなくなるのです。すべてを仮定のことに置いて考えるからもちろん結論は出ません。それなのに考えてしまう私がいるわけです。そして貸す貸さないではなく、自分が騙される、騙されないの間で悩み、自分の心を苦しくしているわけです。本当のところはわかりません。100パーセントそれが真実であると確認する方法などないのです。おじさんは本当に帰宅の交通費が必要でお金を借りるけど、あとで心が変わってコンビニでお酒を買って飲んでしまうかもしれないのです。
人間は完全な善を行うことができない存在だと親鸞さんは教えておられます。それなのに自分を善人としたいという煩悩はなかなかはなれることができません。なにか判断するときにすぐに頭の中に登場するのは自分にとって損か得かということでしょう。しかし、これはひとのため、社会のためと考えれば乗り越えることもできます(実際にはなかなか難しいけど)、ところが、自分は悪い人間でありたくないという煩悩は本当に乗り越えがたいのです。「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし」と親鸞さんは歎異抄のなかで言っておられます。私たちはなにをしでかすのかわからない存在です。そんな人間がこれは善だ、これは悪だと決めつけて心を惑わせているのです。だから親鸞さんは善悪を離れなさいと言います。親鸞さんの言う他力とはそういうことです。自分は善である行いをしているという思いが自力であります。しかし、わたしらの実存はそんなところにないのだと親鸞さんはおっしゃいます。そしてそこにこそ阿弥陀仏のはたらきが生きてくるのだということです。
ところで、もしもという言い方は良くないですが、親鸞さんに上のおじさんに電車賃を貸すか貸さないかと尋ねることができたら、きっと、「貸したければ貸せ、善人になろうと思うな」と答えられるかと思います(想像)。
2014年1月28日火曜日
2014年1月1日水曜日
ひとにどうおもわれる。
わたし考えですが、初対面のひとに与える印象はちょっと悪いくらいがよいということがあります。そんなこと言っても自分の悪い印象を与えるなんて損なことだし、第一相手に失礼だ、と思われるかもしれません。しかし、最初に最高の印象を与えてしまうと正直後がしんどいです。聖人君主としてひとに接すると聖人君主として接することがやめられなくなります。これは立派な煩悩です。常によい人でありつづけなければいけない、ちょっとでも自堕落なところをみせると大幅なイメージダウンになってしまう。でも、いつも自堕落でいないことなんてできませんよね。それに比べて悪い印象を与えたところからスタートすると、なんでもない親切をしただけでイメージアップになるわけです。ほんとたいしたことない親切でも「このひとは、結構いいひとじゃないか」と。あらかじめ悪い印象も与えているので常にイメージアップをはかる必要はありません。イメージダウンしてももとのところにもどるだけです。わたしはこっちの方が美味しいと思うのですがねぇ、どうでしょう。もし、中学生の私が今くらいに仏教をかじっていたら、気に入った女子の前でぜひこのテクニックを使いたいと思いますね。でも、悲しいことに中学時代の男子にはど真ん中のストレートしか投げることができませんから、気に入った女子を前にしてつま先立ちした良い人を演じることになります。精一杯背伸びした自分で相手に接して、あとはもうボロが出てイメージダウンを繰り返すばかりになります。そして失恋ですね。もうほんと哀れで悲しいことです。
ちょっと話をはじめに戻しましょう。初対面のひとに悪い印象を与えることは自分にとって損なことだと申しました。もしくは相手にとって失礼なことだとも申しました。はたしてこれはそのとおりなのでしょうか?確かに悪い人だなと思われるとそのときは損かもしれません。しかし、マイナスイメージからスタートすることでよりのびのびした人間関係を築くことができる因でもあります。最高のイメージからスタートすると、後は崩れるばかりであります。良い人を演じようと自分も硬直した動きかたしかできなくなります。これは例えばの話ですから、最初に与えた悪いイメージが後々人間関係に影を落とす可能性もありますし、良い人を演じ続けることで相手に良いことをしてあげる縁になるかもしれません。本当は「良い悪い」はわからないことなのです。私たちの心はいつも「良い悪い」って思ってしまいますが、複雑で予測不可能な縁起のうえに生きている我々人間にははかり知ることのできないものです。もしくは「良い悪い」ということは人間の心が思ったことであって、実際にあるわけでもないのです。このなんでもかんでも「良い悪い」って判断してしまう心の働きが実は心の一番やっかいな部分で、その一番やっかいなところを仏さんに引き受けてもらうのが「ナムアミダブツ」ってことなのです。自分が知らないということを知っているのが最高の知性だとおっしゃった学者さんがいたと思います。自分で思った良し悪しは確かなものじゃないんだということを知るのが仏教の智慧であります。だから自分の心の働きから解放されるために阿弥陀さんの願いを信じるのです。
もう一つ、悪いイメージを与えることは相手に失礼だと申しました。これはもっと大人な考えですね。これくらいの礼儀はあってしかるべきだと思いますが、何をもって失礼とするのでしょうか。自分を覆い隠して良い人として振る舞うことが相手にとって失礼なことではないことなのか?親鸞さんは「外に善人のふるまい、仏道に励んでいるふうに見せるな、なぜならば、内懐虚仮(ないえこけ)(内は煩悩を抱く虚仮)だからである」(唯信鈔文意)とおっしゃいました。あんまり悪い自分を出すとドン引きされるかも知れませんが、善人としてふるまってはいけないと釘をさされております。
そもそも自分のふるまいにたいしてひとにどう思われるか、こんな予測不可能で不確かなことはありません。ひとの評判に振り回される、これはひとつの地獄です。そんな地獄からはなんとかして抜け出したい、だからひとにどう思われるかで心を煩わせるよりも、もっとしっかりと自分のふるまいの基礎になってくれるものが必要になります。キリスト教ではそれは神様になります。ですから、ひとにどのように誤解されようとも神様と個人の関係がしっかりしていることが大事になります。それでキリスト教のひとは外聞を日本人ほど気にしません。一方で日本では宗教的な縛りがひじょうにゆるいので、ひとにどのように思われるかということが自己評価として大きくなってしまう。阿弥陀さんは言うことを聴かないからといって怒ったり天罰を下すような存在ではありませんが、親鸞さんの教えを聴くのであるなら、ひとよりも阿弥陀さんとの関係を大切にしたいものであるなぁと、きっとこのほうがいいなぁと思って今回を終わるのです。
新年、修正会の法話
だいぶとお休みしていました。
死について
ちようど2週間ほど前にオーストラリアへ旅行してきました。オーストリアじゃなくて、オーストラリアのほうです。南半球にある大陸、カンガルーやコアラのいるところです。私は学生時代に2年半ほどオーストラリアにおりました。キッカケは京都の美大生だった時に出会った、このひとに学ぼうと考えた先生がオーストラリアの大学の先生だったからです。以後、その先生とは日本に帰った後でも年に1度はお会いするというお付き合いをいただきました。
人付き合いをするときに「いらっしゃい」というのは比較的簡単ですが、実際に長い距離を移動して訪れるというのは大変なことです。その先生と家族のかたには京都で度々お会いし、この羽咋にまで来ていただいたこともあります。私も「必ず家族を連れてオーストラリアに行きますね」と先生家族からの招待に返事していたのですが、もたもたしている間にその先生が亡くなってしまいました。2年前のことです。これが一番の縁となりまして、先生のお墓参りに行こうと、22年ぶりにオーストラリアに行き、先生の家族にお会いしてきました。
オーストラリアに行くまでは、義理を果たすというか、これまで先生家族から受けてきたお付き合いに応えるという気持ちが主だったのですが、学生時代によく招待いただいた先生の家を訪れ、先生の仕事場に立って、今は先生の奥さんと一匹の犬が住んでいる20年前と変わらぬところで「私は先生が亡くなったことを確認に来たのだ」ということに思い当たりました。2年前に先生の奥さんから先生がガンで亡くなったと電話で教えてもらいました。海の向こうのことですから、私は先生の葬式にも参加せず、先生の奥さんとのやりとりだけを通して先生の死に接してきました。ところが、これまでもお互い遠く離れたところに住んでいて、たまにお会いするというお付き合いでしたから、私にとって先生の死が体験を伴った認識として受け止められていなかったのだと思います。先生の死後2年たって、先生のいない仕事場に立って、私は、本当は先生が死んだことを確認しに来たのだなと気がついたわけです。これは私にとって親しい人と死別する初めての体験になりました。現在わたしはお坊さんとしてお葬式に立ちあう身でありますが、自分自身が身近に引き受けるひとの死は先生の死が初めてでした。
仏教は全ての事柄は因縁によって成り立っていると教えています。因とは物事の直接の原因、縁とは物事が成るための条件のことです。人間が死ぬことの因は生まれること。人間は生まれたからやがて死ぬのです。ですから、ひとが死ぬことはごく自然なことです。これまで死ななかった人間はひとりだっていない、そういう意味でほんとうにあたりまえのことです。それを命があるということだけを良いことだと、重きを置くと、誰にでも訪れる死をとても忌むべき悪いことにしてしまうようです。死というものを単純に嫌ってそれで良いものなのでしょうか?確かに私自身、昨年狭心症で入院したときは、このままほおっておくと心筋梗塞で死ぬかもなぁと怖い思いをしました。それでも、死と向き合うことなしには、本当の意味で生きることは不可能なのだと仏法では教えているのです。先ほど死ぬことの原因は生まれることだと申しました。では、生きるということを支えているのは何かというと死ぬことなのです。やがて死がおとずれるからこそ、それまで生きているのです。いつまでも死なないのであれば生きているということも生じないのです。
ここで死について、iPhoneとiPadを世に送り出したアップル社のスティーブジョブスさんがアメリカ、スタンフォード大学で行ったスピーチから抜粋したいと思います。卒業式を迎えた大学生にむけて語られたスピーチのなかで死との向き合いかたについてとても的確に語っておられると思います。
私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。
自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。
この後ジョブズさんはすい臓ガンになり、一度は死の宣告を受けます。そして、その後奇跡的に手術で治ることがわかり、命がたすかります。
中略
これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。
以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。
ここまでがスティーブジョブズさんのスピーチからの引用になります。
現代社会では生きているということだけに重きを置いて、われわれ自身の死を日常から遠ざけているように思えます。死だけではありません、年をとって老いること、病気になって苦しむこと、どれも人間にとって必然であることにたいして、それを遠ざけることばかりにかかりきりになっているようです。死を徹底的に排除して、タブーにしてしまったので「人間は死んでもいいんだ!」などと言うのはかなり勇気のいる言葉になりました。でも、そんな死に触れない近づかないでいると、自分自身の存在の意味からも遠ざかってしまいます。
仏教では死は悪いことでも良いことでもないとしています。その死に悪い、怖い、穢れているなどと意味を貼付けているのは我々の心のはたらきです。しかしその死を恐れる心のはたらきを私たちは自ら乗り越えることができない。私たちの心の奥の奥、自分でも意識できない深いところにある心は自分を頼みにすることでは解決できないのです。死を乗り越えることは死ぬのが平気になることではありません。先のスティーブジョブズさんのお話にあったように毎日自分の死と向き合い、そしてよく生きることからしか死に臨む姿勢は生まれません。私たちはよく生きるために死との向き合い方を変えなければならない時期に来ていると思います。自ら乗り越えられない自分の心はどうしたらよいか、それは阿弥陀さんにおまかせしなさいと親鸞さんが教えておられます。
本日はご足労いただきどうもありがとうございました。新年、おめでとうございます。
2013年9月29日日曜日
「風立ちぬ」みた。
今日は予定がないので娘と映画。黄色いのが二つ出てくるギャグCGアニメと宮崎駿の「風立ちぬ」、娘とYoutubeで予告編をみて「どっちにする?」と尋ねると「風立ちぬ」がいいと言う。内容がこども向けでないのは知っていたが本人の選択、ま、いいかと「風立ちぬ」を観にいきました。「風立ちぬ」は封切り当時話題になったから観た人も知っている人も多いと思いますが、零戦の設計者のはなし。内容が戦争を否定していないのでけしからん、零戦、戦争の道具を美化していると言われてネット上でも議論になった作品です。遅ればせながら私も「風立ちぬ」を観てみると、確かにたいして良いとも悪いとも言わず、戦争についてはサラリと流している感じ、控えめに戦争を否定しているのだけど戦争反対、過去の戦争に対する反省と言う姿勢は表に出て来ない。話の主軸はあくまで技術者たちの人間模様です。しかし、そうやって「戦争は悪い」とか「戦争は格好よい」とかのことを横に置いておいたことで表現できたことがあり、宮崎駿さんは最後の作品でそれをやりたかったのだろうと想像します。
まず戦争反対ということですが、私も個人的に戦争反対には賛成。お釈迦様は自分の祖国が滅ぼされることになろうとも一切の武力抵抗をなさらなかったお方なので、さすがにお釈迦様の姿勢について行く自信はありませんが、小説、映画、経験されたひとの話、ゲームを通して戦争を想像した限りは理由にかかわらず戦争はすべきではないことと考えます。しかし、その戦争反対という大義も、それが絶対不可侵、疑うべかざるものになってしまうと人間を縛り、硬直させ、果ては人間を抑圧するイデオロギーになってしまうのです。敗戦国日本において戦争に関連した作品を制作する際には、その戦争に対する反省の姿勢が踏み絵のようにのしかかって、作品を陳腐な反戦作品に貶めようとするバイアスがかかることになっていると思います(全ての反戦作品が陳腐と言っているわけではありません)。だから宮崎駿さんはあえて反戦という表現を映画の脇に置いたのだと思います。
お釈迦様は何事も疑う姿勢を持ちなさいとおっしゃいました。お釈迦様のお説きになった仏法でさえもです。親鸞さんは善悪を離れよとおっしゃいました。何事にも勝る善は念仏することであり、念仏することとは阿弥陀さんのはたらきを信じて身を投じることです。どんなに立派でステキなことでも、それが絶対不可侵のものになってしまうと人間を抑圧するものになる。だからお釈迦様は極端を離れて中道を歩みなさいと教えられました。大切なのは正義でも正解でもなく疑うことのできる流動性なのです。そしてその疑って疑い抜いた果てにしか阿弥陀さんの願いへの信はない。ですから、戦争反対という大切な主張でさえもそれを絶対なものにして振りかざすとろくなことがないのです。だから私は「風立ちぬ」という作品には賛成。きっと宮崎駿さんは反戦でないギリギリのところを意識してつくられたのではないでしょうか。
ところで、私は映画のなかで三度ほど泣きました。一つめはもう忘れちゃいましたが、二つめは結婚式のところ、三つめは最後零戦がたくさん飛んで行くところ。技術者のひとが心身を削って追い求めた零戦は美しい、そしてその零戦によって命を失ったひとが沢山いる。私は詳しくは知りませんが零戦で特攻に出て死んだ若者も沢山いるでしょう。人間がおるのは善や悪や美や醜が入り交じってごちゃごちゃになったところです。戦争は悪い、人殺しの道具はすべからず邪悪であると主張する極端なひとがいる一方で、高性能な戦闘機に憧れ、殺傷の道具にドキドキする自分がいる、その善い人になりたいと思いながらもそう振る舞うことのできない自分の姿を見つめるところから本当に生きるという姿勢が生まれてくるのではないでしょうか。「風立ちぬ」最初のほうから主人公の夢に登場するイタリア人設計者、このひとの語ることが狂っているようであり、純粋なようであり、善悪というものを通り越して宮崎駿さんが描こうとしたことを象徴していると思います。
最後に、「風立ちぬ」は日本がまだ技術的に西洋に劣っていた時代のはなし、無我夢中で努力する技術者の話をとおして、不況と震災を経た日本に「がんばれ、元気だせ」って言っているように感じました。
まず戦争反対ということですが、私も個人的に戦争反対には賛成。お釈迦様は自分の祖国が滅ぼされることになろうとも一切の武力抵抗をなさらなかったお方なので、さすがにお釈迦様の姿勢について行く自信はありませんが、小説、映画、経験されたひとの話、ゲームを通して戦争を想像した限りは理由にかかわらず戦争はすべきではないことと考えます。しかし、その戦争反対という大義も、それが絶対不可侵、疑うべかざるものになってしまうと人間を縛り、硬直させ、果ては人間を抑圧するイデオロギーになってしまうのです。敗戦国日本において戦争に関連した作品を制作する際には、その戦争に対する反省の姿勢が踏み絵のようにのしかかって、作品を陳腐な反戦作品に貶めようとするバイアスがかかることになっていると思います(全ての反戦作品が陳腐と言っているわけではありません)。だから宮崎駿さんはあえて反戦という表現を映画の脇に置いたのだと思います。
お釈迦様は何事も疑う姿勢を持ちなさいとおっしゃいました。お釈迦様のお説きになった仏法でさえもです。親鸞さんは善悪を離れよとおっしゃいました。何事にも勝る善は念仏することであり、念仏することとは阿弥陀さんのはたらきを信じて身を投じることです。どんなに立派でステキなことでも、それが絶対不可侵のものになってしまうと人間を抑圧するものになる。だからお釈迦様は極端を離れて中道を歩みなさいと教えられました。大切なのは正義でも正解でもなく疑うことのできる流動性なのです。そしてその疑って疑い抜いた果てにしか阿弥陀さんの願いへの信はない。ですから、戦争反対という大切な主張でさえもそれを絶対なものにして振りかざすとろくなことがないのです。だから私は「風立ちぬ」という作品には賛成。きっと宮崎駿さんは反戦でないギリギリのところを意識してつくられたのではないでしょうか。
ところで、私は映画のなかで三度ほど泣きました。一つめはもう忘れちゃいましたが、二つめは結婚式のところ、三つめは最後零戦がたくさん飛んで行くところ。技術者のひとが心身を削って追い求めた零戦は美しい、そしてその零戦によって命を失ったひとが沢山いる。私は詳しくは知りませんが零戦で特攻に出て死んだ若者も沢山いるでしょう。人間がおるのは善や悪や美や醜が入り交じってごちゃごちゃになったところです。戦争は悪い、人殺しの道具はすべからず邪悪であると主張する極端なひとがいる一方で、高性能な戦闘機に憧れ、殺傷の道具にドキドキする自分がいる、その善い人になりたいと思いながらもそう振る舞うことのできない自分の姿を見つめるところから本当に生きるという姿勢が生まれてくるのではないでしょうか。「風立ちぬ」最初のほうから主人公の夢に登場するイタリア人設計者、このひとの語ることが狂っているようであり、純粋なようであり、善悪というものを通り越して宮崎駿さんが描こうとしたことを象徴していると思います。
最後に、「風立ちぬ」は日本がまだ技術的に西洋に劣っていた時代のはなし、無我夢中で努力する技術者の話をとおして、不況と震災を経た日本に「がんばれ、元気だせ」って言っているように感じました。
2013年9月27日金曜日
わるいことは、わるいことじゃない。
人間、生きていれば楽しいことも、苦しいこともあります。テレビやインターネットの広告をみるかぎりは楽しいことでちりばめられているような現代社会ですが、困った事にこう楽しいことの勧誘が増えると「楽しくなければ人生でない」という思い込みに縛られるようになります。ほんとうのところは、生きていれば楽しいことより苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、不満なことのほうが多いのだと思います。お釈迦様は「一切皆苦」とおっしゃいましたし、親鸞さんは「生死の苦海」と申されました。もし「人生苦しいんです」ってお釈迦様、親鸞さんに相談することができるのなら「そうだよ!普通は苦しいんだよ!気がついた!?」って言われてしまうのだと思います。そこを「人生楽しくなければ意味がない」なんて思い込んでしまうと、生きることに伴う苦しみは10倍、いや100倍になるかも知れません。
話がすこし脱線してしまいました。とにかく私たちは、日頃から自分にとってよいことがあるようにと願って、そのために努力して生活しております。そして、自分にとって苦しいことを嫌い遠ざけて、苦しいことが避けられぬときは嘆いているのですが、仏さまの眼からみれば、よい、わるいと嘆くのは人間が無明であり、真実が見えておらんからだということになります。無明とは何も知らないということではありません。何事も知ることのできないということを知らんということです。物事を知ったつもりになって、その偏った視点でしか世界をみることができなくなっている状態を無明というのです。
私を含めたこの世界は、複雑な縁起の関係性のうえに成り立っております。何が因となり、何が果となるか、それは人間の考えでは計ることのできないものです。先ほど人間は自分にとってよいことを望んでいると書きましたが、順調すぎる人生を歩んで、それで虚しくなって麻薬に溺れたり、自死を選ぶ人間もいるのが事実です。自分にとってとても苦しかったことが、自分が生きる力を得てゆく縁となったということはありませんでしょうか。私を支えるのは楽しいことではなく、むしろ苦しいこと、悲しいこと、辛いことなのではないでしょうか。その苦しいことも受けとめてゆく安心を得るのが仏の智慧であります。
どれだけ成功した人生を長生きしてみても、自分が今生きておるという存在に向き合うことがなければ、その人生は虚しいものです。自分の存在の事実に向きあわなければ、よそ見をして酔っぱらっておるようなものです。そして、いつまでも酔っぱらっておるというわけにはいかないのです。私は生まれて、そして必ず死に至る存在である。病めば苦しい、老いれば辛い、別離は悲しい、その苦しみの起こってくるもと、自分の心に向き合って、わたしの心が安まり定まるよう尽くすこと、死んでからでなく生きてこの身があるうちに仏となること、これがなければどれだけ煌びやかで華々しい人生を送ったところで虚しいのだと思います。
虚しくない人生を生きるためには、阿弥陀さんの声を聞いて、自らの存在に安心を得るしかない。われながら説教くさい言い方と思いますが、他に方法が思いあたりません。
あっ!法話とは別名お説教でしたね。
話がすこし脱線してしまいました。とにかく私たちは、日頃から自分にとってよいことがあるようにと願って、そのために努力して生活しております。そして、自分にとって苦しいことを嫌い遠ざけて、苦しいことが避けられぬときは嘆いているのですが、仏さまの眼からみれば、よい、わるいと嘆くのは人間が無明であり、真実が見えておらんからだということになります。無明とは何も知らないということではありません。何事も知ることのできないということを知らんということです。物事を知ったつもりになって、その偏った視点でしか世界をみることができなくなっている状態を無明というのです。
私を含めたこの世界は、複雑な縁起の関係性のうえに成り立っております。何が因となり、何が果となるか、それは人間の考えでは計ることのできないものです。先ほど人間は自分にとってよいことを望んでいると書きましたが、順調すぎる人生を歩んで、それで虚しくなって麻薬に溺れたり、自死を選ぶ人間もいるのが事実です。自分にとってとても苦しかったことが、自分が生きる力を得てゆく縁となったということはありませんでしょうか。私を支えるのは楽しいことではなく、むしろ苦しいこと、悲しいこと、辛いことなのではないでしょうか。その苦しいことも受けとめてゆく安心を得るのが仏の智慧であります。
どれだけ成功した人生を長生きしてみても、自分が今生きておるという存在に向き合うことがなければ、その人生は虚しいものです。自分の存在の事実に向きあわなければ、よそ見をして酔っぱらっておるようなものです。そして、いつまでも酔っぱらっておるというわけにはいかないのです。私は生まれて、そして必ず死に至る存在である。病めば苦しい、老いれば辛い、別離は悲しい、その苦しみの起こってくるもと、自分の心に向き合って、わたしの心が安まり定まるよう尽くすこと、死んでからでなく生きてこの身があるうちに仏となること、これがなければどれだけ煌びやかで華々しい人生を送ったところで虚しいのだと思います。
虚しくない人生を生きるためには、阿弥陀さんの声を聞いて、自らの存在に安心を得るしかない。われながら説教くさい言い方と思いますが、他に方法が思いあたりません。
あっ!法話とは別名お説教でしたね。
2013年9月5日木曜日
2013年8月28日水曜日
仏教の信心
宗教というと信じるものだと考えていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。実はお釈迦様は仏になる方法をお説きになられましたが「信じなさい」とはおっしゃいませんでした。あれれー、宗教というものは信じるところから始まるものと言いますが、全然宗教らしくないではないですか。それに親鸞さんは信心っておっしゃっている。お釈迦様と親鸞さん、どうなっているの?そこのところについて書いてみたいと思います。
今時、宗教って言って思い浮かべられるものは、神サマ仏サマって超越者がいて、その超越者にお願いするものということだと思います。神サマ(ここからは神サマだけを例に考えます、仏をいれると話が複雑になりますから)にお願いするためには、最初に信仰がないといけない。神サマは自分を信じたひとをなんとかしてくださる、という形だと思います。宗教の種類によっては神サマに寄進するお金が多いほどご利益があるとか、修行したから、聖典をよんだから、勉強したから救われるという形もあります。これがごく一般的な宗教を信仰するというイメージだと思います。
お釈迦様はまず信じなさいとはおっしゃいませんでした。「別に仏教徒にならなくてよいから話を聴いて」というふうに他宗教のひとたちにも教えを説いていたそうです。そして、お釈迦様の教えには特別な能力を持った超越者は登場しません。仏とは悟った人間のこと、仏とはひたすら崇めるものではなくて人間がなるものです。ですから正確には「仏さまお願い」というのは仏教ではないのです。日本でも平安時代までの仏教では、信じることよりも戒律をまもり(戒)身心を調え(定)自分の都合をなくす(慧)ことに重きをおいてきました。それを「わたしなどは戒−定−慧の三学を実践できる身ではありません」とカミングアウトされたのが親鸞さんの御師匠法然さん。たくさんのお坊さんは修行して経典を読んで悟ればよいかも知れないが、そのような行のできない、またその能力もない多くの人間はどのようにして仏となれるのか、と問うたのです。そして、法然さんがお釈迦様のたくさんの教えの中からこれだと選ばれたのが阿弥陀仏の本願によって仏となる教えでした。自らによらず阿弥陀仏の本願にたのめ、あずけよという教えです。この阿弥陀仏の本願、みなさんひとり残らず仏となってくださいという願いを信じることが信心であるのです。阿弥陀仏を信じて頼むというのとはちょっと、いやかなりニュアンスが違います。
たまに阿弥陀仏信仰を、ほんらい無神教であった仏教を一神教の教えにかえしたというふうに説明されるひとがおりますが、阿弥陀仏信仰は一神教ではありません。
阿弥陀仏とは、お釈迦様の発見した縁起、龍樹菩薩の説かれた空、その、すべての事柄は私の考えたとおりにならないという真実にあって、その考えたとおりにならない身のまま仏にするというはたらきのことを言います。私が縁起によって起こっているという自覚を持ち、縁起による実存にハッキリと目覚めることであります。ところが自分の能力、自分で考えた善行というものに執っているとなかなかその眼が開かない。その自分というものを手放すための必殺ワザが他力の信心なのです。「仏を信じたから助かるのでない、信じることは助けの因ではない、仏のお助けを信じるのだ、それで助かっているということを味わうことができるのだ。」ということなのです。
一般的に考えられる神サマと私の関係では、神サマを信じたからいいことがある、救われるというふうにみられますが、そのように信じたから救われる関係は取り引きの関係です。そして結果的には盲信して神サマに従属する人間を生み出してしまいます。自ら考え、自ら感じ、自らの足で歩むことを止め、神サマの奴隷になってしまうのです。お釈迦様はそのような思考停止すること、奴隷になることを執着だと言って、それが惑い苦しみの生まれてくるもとだと明かしました。ですから、阿弥陀仏信仰も、阿弥陀仏を神サマのような超越者にとらえて信仰し、頼むなら困ったことになってしまいます。阿弥陀仏は人間を奴隷にするものではありません、逆に人間を硬直させ思考停止に陥らせるものから解放する教えです。ですから「まず、信じよ」ではないのです。親鸞さんのおっしゃった他力の信心とは阿弥陀仏の願いに眼がひらいたということです。親鸞さんの教えでは信じることから始まるのではないのです。信じることができるようになることが目的なのです。それを信楽(しんぎょう)とおっしゃっています。正信偈には「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」とあります。「信楽を得ることは難中の難」だということでございます。でもめざすべきはハッキリいたしました。仏教の信心ははじめにあるのではなく、仏になることなのです。
今時、宗教って言って思い浮かべられるものは、神サマ仏サマって超越者がいて、その超越者にお願いするものということだと思います。神サマ(ここからは神サマだけを例に考えます、仏をいれると話が複雑になりますから)にお願いするためには、最初に信仰がないといけない。神サマは自分を信じたひとをなんとかしてくださる、という形だと思います。宗教の種類によっては神サマに寄進するお金が多いほどご利益があるとか、修行したから、聖典をよんだから、勉強したから救われるという形もあります。これがごく一般的な宗教を信仰するというイメージだと思います。
お釈迦様はまず信じなさいとはおっしゃいませんでした。「別に仏教徒にならなくてよいから話を聴いて」というふうに他宗教のひとたちにも教えを説いていたそうです。そして、お釈迦様の教えには特別な能力を持った超越者は登場しません。仏とは悟った人間のこと、仏とはひたすら崇めるものではなくて人間がなるものです。ですから正確には「仏さまお願い」というのは仏教ではないのです。日本でも平安時代までの仏教では、信じることよりも戒律をまもり(戒)身心を調え(定)自分の都合をなくす(慧)ことに重きをおいてきました。それを「わたしなどは戒−定−慧の三学を実践できる身ではありません」とカミングアウトされたのが親鸞さんの御師匠法然さん。たくさんのお坊さんは修行して経典を読んで悟ればよいかも知れないが、そのような行のできない、またその能力もない多くの人間はどのようにして仏となれるのか、と問うたのです。そして、法然さんがお釈迦様のたくさんの教えの中からこれだと選ばれたのが阿弥陀仏の本願によって仏となる教えでした。自らによらず阿弥陀仏の本願にたのめ、あずけよという教えです。この阿弥陀仏の本願、みなさんひとり残らず仏となってくださいという願いを信じることが信心であるのです。阿弥陀仏を信じて頼むというのとはちょっと、いやかなりニュアンスが違います。
たまに阿弥陀仏信仰を、ほんらい無神教であった仏教を一神教の教えにかえしたというふうに説明されるひとがおりますが、阿弥陀仏信仰は一神教ではありません。
阿弥陀仏とは、お釈迦様の発見した縁起、龍樹菩薩の説かれた空、その、すべての事柄は私の考えたとおりにならないという真実にあって、その考えたとおりにならない身のまま仏にするというはたらきのことを言います。私が縁起によって起こっているという自覚を持ち、縁起による実存にハッキリと目覚めることであります。ところが自分の能力、自分で考えた善行というものに執っているとなかなかその眼が開かない。その自分というものを手放すための必殺ワザが他力の信心なのです。「仏を信じたから助かるのでない、信じることは助けの因ではない、仏のお助けを信じるのだ、それで助かっているということを味わうことができるのだ。」ということなのです。
一般的に考えられる神サマと私の関係では、神サマを信じたからいいことがある、救われるというふうにみられますが、そのように信じたから救われる関係は取り引きの関係です。そして結果的には盲信して神サマに従属する人間を生み出してしまいます。自ら考え、自ら感じ、自らの足で歩むことを止め、神サマの奴隷になってしまうのです。お釈迦様はそのような思考停止すること、奴隷になることを執着だと言って、それが惑い苦しみの生まれてくるもとだと明かしました。ですから、阿弥陀仏信仰も、阿弥陀仏を神サマのような超越者にとらえて信仰し、頼むなら困ったことになってしまいます。阿弥陀仏は人間を奴隷にするものではありません、逆に人間を硬直させ思考停止に陥らせるものから解放する教えです。ですから「まず、信じよ」ではないのです。親鸞さんのおっしゃった他力の信心とは阿弥陀仏の願いに眼がひらいたということです。親鸞さんの教えでは信じることから始まるのではないのです。信じることができるようになることが目的なのです。それを信楽(しんぎょう)とおっしゃっています。正信偈には「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」とあります。「信楽を得ることは難中の難」だということでございます。でもめざすべきはハッキリいたしました。仏教の信心ははじめにあるのではなく、仏になることなのです。
登録:
投稿 (Atom)
