2019年9月8日日曜日

「そんなこと言うけど、どうしたらそうなるのさ?」

住職はブログや法話で、「念仏の道というものは生活を明るくする。」「苦労がないことがたすかったことじゃなくて、どんな苦労も受けとめてゆける人間になったこと、それがたすかったこと、仏の御恩です。」なんて書いたり言ったりしていますが、すると、「そんなこと言うけど、どうしたらそうなるのさ?」ということが出てくると思います。どうするかはその名の通り、「念仏すること」なのですが、その念仏もなかなかできない。何が念仏なのかわからないということになります。「南無阿弥陀仏」と口にとなえてみても、なんにも変わらないし、たすかったという気もしない。なんにもならないじゃないか、と。でも、変化がなに一つ無かったというわけじゃないですね。少なくとも「お念仏もうした」ということはあります。そして、「念仏してもピンとこない」ということもあるわけです。厳密にみると、念仏してなにも無かったわけじゃない。これはわたし(住職)の実感なのですが、それが念仏の道の入り口に立ったということではないでしょうか。それは人間の「わかっている世界」から、仏智の「わからない世界、思いを越えた世界」へ入る入り口なんじゃないかと思ったのです。念仏はわからないものだけど、そのわからないことを通して、深く人間の思いを越えた、真実に向かう道をすすんでいくわけです。すなわちこれが往生への道です。

 実は、道は念仏だけじゃありません。究極的には念仏ですが、親鸞聖人は主著「教行信証」の総序に「摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」と説いておられます。「摂取不捨の真言、超世希有の正法、」これは仏法のことですね、聞(もん)は聞くということ、思(し)は自分の日常生活を仏法に照らすということ、遅慮は遅れるな、遠慮なんかするなです。とても確信を持って勧めておられるわけです。この聞思のために真宗のお寺では聞法会が開かれます。お寺の行事も聞思のためです。報恩講、太子講、と行事に「講」という字がつくのもそのためです。お寺の本堂なら、真宗のお寺以外にもいろんな宗派の本堂がありますが、真宗の本堂の特徴はお参りする場所が圧倒的に広いということです。真宗以外のお寺では、お勤めをする(お坊さんが読経する)場所のほうが広いです。本堂の割合にだって、聞思するのが真宗の仏道ということがあらわれているのです。真宗は修行しない宗派と言われます。たしかに修行はなにひとつしません、というか要求されません。けれども全くなにもしないのではないのです。くり返しくり返し仏法を聞いていきなさいと、お寺の行事で聞法がないものは皆無なのです。御法事だって読経のあと絶対に住職が法話します。余談ですが、こんな話があります。昭和の時代に宗門(東本願寺)が改革運動に揺れたことがあります。その改革運動に熱く参加された住職がおられたのですが、保守派も改革派もともに人間ですから、それぞれの立場とか利害とか政治的なちから関係とかでぐちゃぐちゃになって来て、自分がなにをしているのか自信が無くなったということでした。それで、当時おられた安田先生という真宗の先生に「どうしたらいいでしょう?」と相談に行ったのです。すると安田先生のこたえは一言でした。あまりにあっさり一言だったので、もう一度尋ね直したそうです。そのこたえは、「聞法です。」という言葉でした。念仏の道は仏法を聞く、仏法に自分の生活を照らす、正しいとか保守とか改革とかでなく、聞法するということが念仏者の立場だとハッキリおっしゃったわけです。ほんとうにこれしかないのですね。そして、それ以上に確かなものもないのです。

 わたしたち人間はいつも「どうしたら?」で生活しています。「どうしたら?」のさきにあるのは、自分にとって受け入れることが可能な事態です。だから、人間が「どうしたら?」と言うとき、いちばん大事にされるのは自分の願望です。「どうしたら?」には「わたしの思いどおりにしたいんですけど。」ということがウラにくっついているんです。旅行から自坊に帰って来て「仏さま、おかげで無事に帰って来れました、ありがとうございます。」なんてのも一見立派ですが、仏さまを自分の願望のために利用しているのです。だって、無事に帰って来れたのが仏さまのおかげなら、無事でなかったときには仏さまのせいですね。それなら何かあったら仏さまを恨まないといけない。わたしが無事なのも無事でないのも「業」によります。業があって災難に遭い、業があって無事なんです。仏さまの御恩とは、どんな業にあってもそれを受けとめて生きてゆける人間にしてくださるということです。しかし、油断すると人間はすぐに仏さまも利用しにかかるのです。ときに念仏でさえ利用しようとすることがあります。真宗の集まりなんかでは、念仏するひとは立派なひとだなんて見ることがありますが、誰にも批判されない立場というのは危ないものです。批判されることがないと人間はすぐに曲がった道にはいる。念仏することで批判されることのない立場を取ろうというなら、それも念仏を自分の立場のために利用していることになります。だから、それを直していただくのが聞法です。いわば人生を通して、仏さまに叱られ批判される立場に立つ。なにをするにもなにを考えるのも自分中心、煩悩具足、罪悪深重の人間がまっすぐに生きようって思ったら、それしかないのではないですか。ずーっと叱られるのだ、人生の終いまで批判されるのだと考えたら気持ちが暗くなるかもしれません。しかし、だからこそ慈悲があるのです。キリスト教だときっとこれは神の愛と言うのでしょう。決して見捨てないのです。仏さまと言うと、人間をたすけるはたらきですが、どんな人間になっても、仏さまのはたらきはその人間を離れることはありません。仏さまは、まさに我が身となって一緒になってはたらいてくださる苦労して下さる。現世で地獄に落ちるなら、その地獄にだってついて来て下さる。そういうものがある。見ることも触ることも匂いを嗅ぐこともできないけれど、そういう人間を救おうとするはたらきが存在する。それを確信したからこそ親鸞聖人は「教行信証」を著し、「正信偈」を勧められたのです。

 優等生と劣等生、どっちが自由だと思いますか?優等生は褒められるけれども、立ち振る舞いには大きな制限がかかります。立場が大きくなって、自分を生きると言うよりも自分の立場を生きるようになる。それに対して劣等生は自由です。ちょっとでもマシなことをすれば褒めてもらえるし、失う立場も面子もない。どんな自分にだってなることができる。そう考えたら劣等生の人生のほうが、優等生の人生よりも自由でいいなぁと思いますが、そうはならない。なぜなら、人間には自分の存在を認めたい、周りに承認されたいという強力な欲求があるからです。だから、劣等生になると、優等生と比べて自分はダメだなぁ、優秀じゃないから存在価値がないなぁ、と自己嫌悪になって苦しむのです。そうして自分を他人と比べて、自分には価値がないと嫌悪するはたらきが我執です。自分にこだわる心です。その我執の心を破って、人間の思いよりもっと深い、自己存在の立場に帰っておいでと、わが心の底の底から呼びかけるのが弥陀の本願というものです。本願の「本」という字は人間の根っこという意味です。仏さまは人間の存在の根っこからはたらきかけるものなんです。我執は人生をとおしてついてまわります。自分へのこだわりは絶対に無くなったりしません。けれども、だからこそ、仏さまに叱られ、批判されて真っ直ぐに生きるということが起きてくるのです。もちろん慈悲のうちに。

 真宗では「さとり」とは言いません。「信心を獲る」と言います。「さとり」と言ったら煩悩が無くなった、我執を滅したというニュアンスになってしまう。だから「信心」と言います。けれども「信心」はさとったに等しい立場だとも言われる。「信心」は菩薩の歓喜地と同じ意味を持っているのだと親鸞聖人はおっしゃっています。煩悩も我執も残っているけれど、それがわが人生において頼りとするべきものじゃないと覚ったということです。信心とは、仏さまのはたらきに守られ、叱咤されて生活してゆく道に入ったと言うことです。その生活を「正信偈」では、「摂取心光常照護」と、これは自ら体験した人間でないと言えない言葉として表しておられます。いまは「さとり」とは言わない。けれども人生をとおして無限に「さとり」に近づいてゆく生活が開かれたということです。「さとり」というと、立派になるという印象がありますが、人間の世界で言うところの「立派」とは全然質を違えるものです。「さとり」とは偉い人間になることではないのです。自由な人間になることです。業を背負った自分の存在に向き合った、偽りのない純粋な人間になることです。その「さとり」への確実な道が開かれたということが「信心を獲る」ということです。信心歓喜と「無量寿経」にはありますが、これは何が歓喜(うれしい)のかと言ったら、我執を越えたということです。要注意ですが、我執を滅したのでなく越えたのです。我執の正体がわかった。ここにつながる道が念仏、聞法ということです。はじめに「どうしたら?」という言葉を出しましたが、「どうしたら?」は常に願望と我執のセットになっている。だからお念仏のこたえは、『仏法を聞いてゆくことで「どうしたら?」が破れる。』ということです。それを「そのままのすくい」と言います。「どうしたら?たすかる」ではなく、「何一つ変更することなし、ということがすくい」なのです。

 往生というのは難儀して困ることでも、死ぬことでもありません。仏さまに見守られ叱咤される生活が始まるということです。寿命のうちに往生の生活に入れと、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ。」と勧めておいでになるのです。