2019年10月26日土曜日

苦、労!

 いま、各町の門徒さんを「ほんこまいり」で周っています。お勤めのあとは法話というのが浄土真宗のカタチですが、ほんこまいりでは時間がないので法話を書いた紙をお渡しします。それでお勤めが終わって振りかえると、じっとその法話の紙に目をおとしている人がおられる。今年の法話の題は「念仏でたすかる!」です。なんとも脳天気な題にしたものだと、大丈夫かと思いますが、そのときは「これだ!」と思ったのですから、あとのまつりということです。ご高齢だったり、病気をもっておられたり、家族の介護をされていたり、苦労されてそうなひとが法話を読んでおられると「下手なこと書いたんじゃないか???調子のよいこと書いたんじゃないか??!」と心配になって、あとで自分で読みかえしてみたりしますが、ひとがどう受けとられるかまでは想像がつきません。ただ、法話は苦労されているひとに読まれることを思って書くべきだと知らされるだけです。どのように書けば正解だなんてわかりません。だから、きっと、失敗して怒られることもあると思います。実際、ご法事の法話の後で注意されたこともあります。けれど、どこにも角の立たない話をすれば、坊さんとして詐欺だろうと思います。角の立たない話はいらないのです。
 苦労ということなら、住職自身は大した苦労をしたと思いません。だから苦労されてそうなひとにお会いすると立場がないです。それはそれで、一方で、「わたしは苦労をしたぞ」なんて言ったら人間おしまいだと思っています。人間縁あって苦労しますが、大変な苦労をなさるひともいますが、人間である以上は苦労をし尽くすというところには立てないのだと思っています。「苦労したぞ」という一言で終わってしまうものがあります。それは仏さんに向かって開かれた道ではないでしょうか。仏道は自己完結したときに終わるものです。「わかった!」で行き止まりになってしまう道です。「苦労したぞ」はある意味驕慢な心の表れです。人間は相手にたいして優位に立つために「苦労した」なんて言葉をつかいます。そして行き止まりになる。どんな苦労があっても先に開かれてゆく道があるから、命ある限り無限に仏になってゆくのではないでしょうか。苦労を尽くすのは仏さんの仕事です。「仮令身止(けりょうしんし)  諸苦毒中(しょくどくちゅう)  我行精進(がぎょうしょうじん)  忍終不悔(にんじゅふけ)」と嘆仏偈のおわりにあります。「たとえ、我が身は地獄の苦しみのなかに止まることになろうとも、私は努力精進し、決して後悔することはありません」と、法蔵菩薩が誓われて阿弥陀仏になったのです。わたしの苦労をわたし以上に引き受けるものがいる。それが苦労のなかにある人間をたすけるのではないでしょうか。