2019年12月16日月曜日

煩悩は必要なものか!?

 仏教では人間の「思い」を妄想であるといいます。そして、住職があちこちでやたら妄想だ妄想だと言って周るものだから、門徒さんに言われました。「住職は妄想、妄想って言うけど、元気をだして生きてゆくためには妄想だって、煩悩だって必要なんじゃないかね」と。
 住職は羽咋に帰ってくるまで美術をやっていました。美術は人間の作ったものですから、100パーセント妄想です。音楽を聞いていい気持ちになるのも妄想です。だから、住職も妄想を肯定してきました。煩悩も大事だとみてきました。そして、ひっくりかえりました。そのひっくりかえったきっかけは、仲野良俊という先生の本を読んでいたときです。「長生きして煩悩が盛んなのを誇るな!せめて煩悩が枯れないことを恥じるくらいのことはないといけない」ということを仲野先生はおっしゃっていました。これ、住職も覚えがあります。「歳とったけど食い気も色気もまだまだなくならない」なんていうおじいさんに、「そりゃ、お若いですねぇ、元気な証拠ですねぇ」なんておべっかを言ったことがあるのです。どうでしょう、欲が深いことは元気の源だと思っていませんか?住職はそう考えていたんです。ところが、仲野先生のひと言で変わりました。他にも仲野先生はおっしゃっています。「煩悩で世の中が発展したなんて言うが、煩悩で世の中が発展したりはしない。煩悩によって世の中はだんだん壊されていくのです。」その煩悩をあたりまえとする。煩悩を恥じる気持ちもおこらない、むしろ誇る。それを煩悩濁といいます。正信偈「五濁悪時群生海」の五濁のひとつです。
仏教では煩悩を全否定します。いいとこなんてひとつもない。そんな煩悩だけれども、無くならないというのも事実です。その煩悩が無くならないわたしという事実に立った仏教が、お念仏の道なわけです。煩悩を無くすのではない、煩悩は有る。けれどもそれが往生の障りにならない。お念仏の道に入れば、起こした煩悩がむしろ徳になる。なぜ徳になるかというと煩悩を起こした心が仏に遭う場所になるからです。高僧和讃に「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」という例えがあります。まさにこれです。煩悩多くして仏さんに遭うことが増えるのです。ここで、少し話を脱線しますが、この「罪障功徳の体〜」という歌詞の歌がありますけど、あれどうなんでしょう。キレイで感動的なメロディにのせるというのは違うんじゃないかと思います。この歌を歌うとき、住職はいつも気持ち悪い思いをします。いや、その気持ち悪い、座りの悪い心持ちになるために歌う歌なんですよね、きっと。はなしを戻します。煩悩は無くさんでもいい、無くさんでもそれを縁として仏法に遭っていくのが念仏だから心配するなということですが、その煩悩を誇ってしまうと迷いが深くなる。迷いが深いというのは、煩悩は人間を縛るものだからです。人間は人生においていろんなことに遭ってゆきます。いいことも悪いことも遭ったらそれに応じていかねばなりませんけれども、そのときに縛るのは煩悩です。損得とか、体面とか、いろいろ縛られて自分の考えたように、望んだように応じることができない。「そんなふうにしていたら死ぬぞ!」みたいな話がありますが、この「死ぬぞ!」というのも煩悩のはたらきです。べつに生きているのがいいわけじゃないんです。だって、人間は必ず死ぬのですから。だから長生きするのを仏教ではいいとは言いません。けれどべつに急いで死ぬ必要もない。ときが来れば、必ず終わるのですから。だから「死ぬぞ!」といことは仏教では脅しになりません。仏教での本当に恐ろしいものは「空過(くうか)」を言われるものです。空しく過ぎた、ということです。例えるなら、人生の終盤に至って「私の人生は何だったのだろう」と言わなければならないことです。これはですね、ほんとに恐ろしいことに、ひと財産作っても、名声を得ても、華やかな人生を送っても、来る人には来ます。もう死んでいくという時に立って、財産と名声はなんにも助けになりません。楽しかった思い出なんて、そんなものは過去のことです。もうすでにないのです。だから「人生で一番幸せな時に死ななければならないの!」と言って旦那さんを置いて川に身投げした奥さんが出てくる映画がありました。「髪結いの亭主」という映画です。
 煩悩は元気の源と言いますが、仏教では元気なことだけがいいとは言わないのです。ずーっと元気だったら、それはそれで気味の悪いことではありませんか?。元気の出ないことも大事とする、仏教はそういうものですから、元気が出ることを理由に煩悩を正当化することもありません。いや、煩悩以外にも元気がでるお薬とかありますけど、やっちゃダメですよね。あれも作用がある。元気になるけど人間をダメにする作用がある。煩悩も同じです。それなら、お念仏で元気は出ないの?となりますが、お念仏には煩悩に支えられる元気と違うものが生まれます。それを、清沢満之という明治の先生はこうおっしゃっておられる。「所謂(いわゆる)人事を尽くして天命に安(やす)んずるは、吾人の適従(てきじゅう)すべき道教にあらずや〝精細に之を云えば、余は天命に安んじて人事を尽すと云うの可なるを思う。、、、、、〝」ちからを尽くして結果を天にゆだねるというのは、覚った人間のしたがうべき道ではない。より細かく言うなら、どんな結果になっても大丈夫だという心においてこそ、人間はちからを尽くすことができる。住職の受けとりですが、この文をはじめて見たときは、内容をよく受け取ることが出来ませんでした。ちょうど、力を尽くして結果はまかせるなんて思っていた頃でしたから。現在は、お念仏の作用、本願力という道理に拠ってということなのかなぁと受け取っています。ちなみに、その同じ文の少し後に「凡(およ)そ人力の如何(いかん)ともする能(あた)わざる所なりとして神仏に祈祷し、以て煩悩を安慰(あんい)せんとするもの、一として其必要を認可すべきを見ざるなり」とあります。人間の努力でどうにもならないこと、無事とか安全とかを神仏にお願いすることは、煩悩をなぐさめるだけのことで、全く必要のないものだとおっしゃっているのです。
 仏教では煩悩は全否定。煩悩で元気が出るということはあるけれども、人間や人間社会をやがては壊してゆくものになる。煩悩に支えられた元気よりも、お念仏に立った、人事を尽くすということがある。元気だけが人生じゃない。不元気だって大事だ。人間ほんとうに恐ろしいものは「空しく過ぎる」ということだ、ということを書きました。最後に、住職がやっていた美術は妄想だっていうけど、美術は煩悩で、不要なものなの?って問いに対しては、あらためて書こうと思います。