2020年6月2日火曜日

気にすること

 我々はいろんなことを気にします、評判とか、見かけとか、体裁とか。しかし、これは人それぞれに違って、ある人がとても気にすることが違う人は平気だったりします。だから、気にしない人は言うのです。「そんなの気にしなければいいじゃん」と。しかし、それで解決にはなりません。だって、気になって仕方ないからです。そもそも気にするのではないのです。気にするんだったら気にしないことも自分でできます。しかし、実態は気になるんです。気になるのですから「気にしなくていい」と言われても解決しないのです。腹をたてるのもそうですね。腹はたつのであって、たてるものではない、あんな自分も他人も嫌な思いをすること、腹をたてないでいられるなら、たてないに越したことはありません。でも、腹はたつのです。これが我々人間という生き物です。
 どうしてそうなるのか、考えとしては気にしたくないのに気になる。腹をたてたくないけれども腹がたつ。それは自分が自分の心に縛られていると言うことです。人間は自分の心なんだから自分で自由にできると勘違いします。しかし、実際は自分の心に縛られ振り回されるのです。そのことがひとつ分かっただけでも楽になりませんか?気にしてはいけないと考えるとなおさら苦しい、だって自分で自由にできないことを自由にしようというのですから無理がでる。気になるものは気になる、腹がたつものは腹がたつ。そうやって受け取るだけで多少は楽になるのでないですか。
ところで、何がどうなってそんな自分の心に縛られるようになったのでしょう。人間は経験したこと、自分で行動したこと、心のなかで思ったことによって未来の自分をつくります。社会的な地位を獲得することが自分の目標であり、自分の人生の価値であるという生きかたをすれば、地位というものにつよく縛られ、振り回される人間になります。容姿端麗な人は羨ましいですけど、容姿を維持するのはなかなか苦労なことですし、何より老いて容姿を失う苦しみはとても大きいでしょう。お金が大事なら、お金で苦労すること決定です。お金で苦労するというのはお金がないということだけではありません。お金があるがために利益目的の人間ばかり近づいて来るかもしれないし、財産分与で家族が壊れる可能性もある。さらにお金を失う不安も背負います。地位をもとめるな、容姿なんてあてにならない、お金を大事にしてはいけないと言っているのではありません。地位というものは人間社会を動かすために必要なかたちです。誰かが大事なところを務めないと社会は動かない。できれば地位のある人を尊敬できる社会に住みたいものです。容姿もひとそれぞれですから、カワイイとか、綺麗とか、かっこいいって、やっぱり心がキュンとなるのでいいじゃないですか。お金のことをけなすと「それじゃおまえはお金がいらないのか」という論理で来られることがありますが、お金は人間生活をするために必要不可欠なものです。お金にはキレイも汚いもない。ただ、お金をみる人間の心にはキレイもあるし汚いもある。それだけです。仏法というものに照らしたら、その、地位とか、容姿とか、お金とか、それがいいとか悪いとかではなくて、そればかりに執着して縛られると生活世界が暗く不安で狭いものになってしまいますよ、ということが出てくるのです。地位も容姿もお金も価値あるものですが、それが生きているということを超えることはありません。どうしてか、それは地位も容姿もお金も人間が思ったこと、造ったことだからです。我々人間の生活には大事にすべきもの、気になるものがたくさんありますが、すべて生きているという存在事実を超えるものはありません。だから、地位を失っても生活はあります。容姿が衰えても全てがなしになるわけじゃない。お金も、ないと苦しいですが、それはご飯を十分に食べれない苦しみでしょう。お金がないだけならばそれは苦しみではない。だから、地位があっても容姿端麗でもお金持ちでも、それに縛られていない人は明るくてひろいと思います。それではどうしたらそんな人間になれるのか、ということではありません。未来の自分は経験したこと、行動したこと、思ったことでつくるのですから、何かと独りよがりになりがちな、迷いがちな自分というものを、分かりながら生活する。これしかないでしょう。「自分がわかった」これを浄土真宗では信心と言います。人間は自分知らずなのです。無根拠に自分が正しいと思い、人生でほんとうに求めるべきものを求めず、人間の欲望に支えられているものを取っ替え引っ替え求めて人生の間中うろうろする。それを流転と言います。流転には終わりがありません。別の言葉で無窮(むきゅう)と言います。終わりなく満足なく安心なくです。それで親鸞聖人は「本願の名号(わたしをたすけるはたらきの名前)は正定の業(かならず満足と安心を得られる道)なり」とおっしゃったのであります。浄土真宗は念仏ですが、念仏とは南無阿弥陀仏、「自分というものを知れ」という仏さまからの呼びかけに耳を向けることです。聞法ということもあります。その字のとおり法を聞くのです。法を聞いて自分が照らしだされる、わかる。気になることがある、そしたら「どうしたらいい」ではないのです。気になることは法に照らすのです、自分ごと法に照らす。それが聞法ということです。そういう生活が人間を自分の思いから自由にします。心が柔軟で、苦労が小さく、虚しいということが無くなる生活です。薫習(くんじゅう)ということがあります。経験したこと、行動したこと、思ったことが薫りとして心のもとに染み付くのです。薫習はいいことだけとは言えません。自分の思いに執着して迷えば、迷いが薫習として染みます。地位ばかりにこだわり、容姿ばかり気にして、お金ばかり大事にせざるおえない人間をつくるのです。だから、毎日の生活が要注意です。どうしようと迷ったら、聞法です。それが念仏者の立場です。明るく気分良く生活したいのであれば聞法です。