2021年3月24日水曜日

ロックと真宗

  お寺の法語を探すのに「ロック名言」をみていた。これは!と思った名言は以下のとおり。

「自分の人生を変えられる唯一の人間は自分だけなんだよ。」

                         ノエル・ギャラガー(OASIS)

「偽りの自分を愛されるより、ありのままの自分を憎まれる方がいい」

                         カート・コバーン

「その日をちゃんと生きること。人生にこの日は一度しか訪れない。」

                         エリック・クラプトン

「雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる。」

                         ボブ・マーリー

「あなたはあなたが妥協したものになる」

                         ジャニス・ジョプリン

 家族にきいたら、「ロックって、けっこう自力な感じ」と感想。「そうなのか、、、住職が大好きなロックは、、自力なのか」と瞬間思ったが、いや違う。そのときは、「一生懸命やって自分を誇るのが自力、一生懸命やって自分がわかるのが他力なんだよ。だからお念仏の道も、龍樹菩薩が言ってるように一生懸命は一生懸命なんだよ。」と返事したけど、もうひとつ足りない気がする。
 あとで気がついた。ロックとお念仏、必ず共通するところは「ぜったいに偉くならない」ということ。ロックは優良なものじゃない、ロックミュージシャンはいつも不良から出発する。バンドをやって学校から褒められたり、大人たちに認められて音楽をはじめたりしない。それはどうしてかというと「いい子」だと格好がつかないから。国とか共同体とか世間から褒められてはじまったロックはない。ビートルズだって当時の大人が眉をひそめる不良だった。そのあとのハードロック、グラムロック、パンク、オルタナティブ、種類分けされてるけど、どれも極悪不良の姿で、世間の反感をかって登場している、これは明らか。

「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて」
(賢く善く、努力家のすがたをするな。だって、心は嘘と我執でいっぱいなんだから)親鸞聖人は善導大師の「散善義」のことばをこう読みました。念仏者の生活は、聖人の生活ではないことを明かしてくださった。
蓮如聖人は、「たとい牛盗人といわるとも、後世者(極楽往生を願う人)ぶるな」「仏法者とみえざる人のすがたを生きよ」と御文に繰り返して説かれた。「人間世界でけっして立派なものになるな!」それは念仏者のポリシーであります。
自分は立派だ、自分は正しい、自分は聖だ、と思う心が人間心の一番深い闇であり、阿弥陀仏のお仕事をさまたげるのだということをおっしゃっている。
「信心」ということがあります。念仏は誰でもいただくことができる。けれども念仏をいただいてもぜんぜん助からないということがある。これを曇鸞大師が「信心」が欠ければ念仏をいただいても助からないと教えてくださった。それでは「信心」とはどんなこころか?。「信心」はそのまま、仏さまの救済力を信じるこころのことだけれども、実際信じることは自分ではできない。自分を捨てたところでないと「信じる」が成立しない。わたしたちは娑婆生活で「信じていたのに、、、」なんて愚痴を吐きますが、信じる代償を求めていたのなら、それは信じたのではなくて、取引をしていただけです。だから「信じた」と言ってみんな取引をしている。「私を裏切らないでね」がくっ付いてくるなら約束です。だから、みんな「信じた」とは言わず「約束した」と言うべきです。
自分を捨てたところでないと「信じる」ことは成り立たない。そして自分を捨て去ると、通常の社会生活はおくれなくなります(心配しなくとも自分は捨てられないのだけど)。そんな人間にとって有り得ない「信じる」を瞬間成り立たせるのが「聞く」ということだと教えられています。仏法を聞いて自分の心が否定される。自分が否定されたらそこに自分の心からの解放がある。真理に遭えば「間違っておった、勘違いしていた!」と心が開ける。自分の心を否定される瞬間は仏さまに遭っている。だから立派なひと、できるひとに落ち着くことを警戒するのは、ただのスタイルではなくて、人間心を深く射抜いたところの教えなのです。
極悪不良なスタイルが商売になる自由経済の時代でありますが、とって付けた極悪不良はなにか臭う。本気と金儲けの違いは滲み出る。ロックもなにかを得るため、これまでを超えるため、立派、優良ということを捨てたのでしょう。そこがお念仏とつうじる。

住職はお寺生まれだから住職になりましたが、徳のたかい坊さんにならなければいけない教えのお寺じゃなくてよかったと、ほんとうに思っています。