2019年12月18日水曜日
明日12月19日の正信偈のなかみは、、、
明日12月19日の正信偈のなかみは、予定通り19時より本念寺の大座敷で行います。今回も1時間。獲信→信心をえる。見敬→真実を見た。大慶喜→大いに喜ぶ。即→いますぐ。横超→ありえないけど。截→断ち切る。五悪趣→どうしょうもない性分。というところになります。
2019年12月16日月曜日
煩悩は必要なものか!?
仏教では人間の「思い」を妄想であるといいます。そして、住職があちこちでやたら妄想だ妄想だと言って周るものだから、門徒さんに言われました。「住職は妄想、妄想って言うけど、元気をだして生きてゆくためには妄想だって、煩悩だって必要なんじゃないかね」と。
住職は羽咋に帰ってくるまで美術をやっていました。美術は人間の作ったものですから、100パーセント妄想です。音楽を聞いていい気持ちになるのも妄想です。だから、住職も妄想を肯定してきました。煩悩も大事だとみてきました。そして、ひっくりかえりました。そのひっくりかえったきっかけは、仲野良俊という先生の本を読んでいたときです。「長生きして煩悩が盛んなのを誇るな!せめて煩悩が枯れないことを恥じるくらいのことはないといけない」ということを仲野先生はおっしゃっていました。これ、住職も覚えがあります。「歳とったけど食い気も色気もまだまだなくならない」なんていうおじいさんに、「そりゃ、お若いですねぇ、元気な証拠ですねぇ」なんておべっかを言ったことがあるのです。どうでしょう、欲が深いことは元気の源だと思っていませんか?住職はそう考えていたんです。ところが、仲野先生のひと言で変わりました。他にも仲野先生はおっしゃっています。「煩悩で世の中が発展したなんて言うが、煩悩で世の中が発展したりはしない。煩悩によって世の中はだんだん壊されていくのです。」その煩悩をあたりまえとする。煩悩を恥じる気持ちもおこらない、むしろ誇る。それを煩悩濁といいます。正信偈「五濁悪時群生海」の五濁のひとつです。
仏教では煩悩を全否定します。いいとこなんてひとつもない。そんな煩悩だけれども、無くならないというのも事実です。その煩悩が無くならないわたしという事実に立った仏教が、お念仏の道なわけです。煩悩を無くすのではない、煩悩は有る。けれどもそれが往生の障りにならない。お念仏の道に入れば、起こした煩悩がむしろ徳になる。なぜ徳になるかというと煩悩を起こした心が仏に遭う場所になるからです。高僧和讃に「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」という例えがあります。まさにこれです。煩悩多くして仏さんに遭うことが増えるのです。ここで、少し話を脱線しますが、この「罪障功徳の体〜」という歌詞の歌がありますけど、あれどうなんでしょう。キレイで感動的なメロディにのせるというのは違うんじゃないかと思います。この歌を歌うとき、住職はいつも気持ち悪い思いをします。いや、その気持ち悪い、座りの悪い心持ちになるために歌う歌なんですよね、きっと。はなしを戻します。煩悩は無くさんでもいい、無くさんでもそれを縁として仏法に遭っていくのが念仏だから心配するなということですが、その煩悩を誇ってしまうと迷いが深くなる。迷いが深いというのは、煩悩は人間を縛るものだからです。人間は人生においていろんなことに遭ってゆきます。いいことも悪いことも遭ったらそれに応じていかねばなりませんけれども、そのときに縛るのは煩悩です。損得とか、体面とか、いろいろ縛られて自分の考えたように、望んだように応じることができない。「そんなふうにしていたら死ぬぞ!」みたいな話がありますが、この「死ぬぞ!」というのも煩悩のはたらきです。べつに生きているのがいいわけじゃないんです。だって、人間は必ず死ぬのですから。だから長生きするのを仏教ではいいとは言いません。けれどべつに急いで死ぬ必要もない。ときが来れば、必ず終わるのですから。だから「死ぬぞ!」といことは仏教では脅しになりません。仏教での本当に恐ろしいものは「空過(くうか)」を言われるものです。空しく過ぎた、ということです。例えるなら、人生の終盤に至って「私の人生は何だったのだろう」と言わなければならないことです。これはですね、ほんとに恐ろしいことに、ひと財産作っても、名声を得ても、華やかな人生を送っても、来る人には来ます。もう死んでいくという時に立って、財産と名声はなんにも助けになりません。楽しかった思い出なんて、そんなものは過去のことです。もうすでにないのです。だから「人生で一番幸せな時に死ななければならないの!」と言って旦那さんを置いて川に身投げした奥さんが出てくる映画がありました。「髪結いの亭主」という映画です。
煩悩は元気の源と言いますが、仏教では元気なことだけがいいとは言わないのです。ずーっと元気だったら、それはそれで気味の悪いことではありませんか?。元気の出ないことも大事とする、仏教はそういうものですから、元気が出ることを理由に煩悩を正当化することもありません。いや、煩悩以外にも元気がでるお薬とかありますけど、やっちゃダメですよね。あれも作用がある。元気になるけど人間をダメにする作用がある。煩悩も同じです。それなら、お念仏で元気は出ないの?となりますが、お念仏には煩悩に支えられる元気と違うものが生まれます。それを、清沢満之という明治の先生はこうおっしゃっておられる。「所謂(いわゆる)人事を尽くして天命に安(やす)んずるは、吾人の適従(てきじゅう)すべき道教にあらずや〝精細に之を云えば、余は天命に安んじて人事を尽すと云うの可なるを思う。、、、、、〝」ちからを尽くして結果を天にゆだねるというのは、覚った人間のしたがうべき道ではない。より細かく言うなら、どんな結果になっても大丈夫だという心においてこそ、人間はちからを尽くすことができる。住職の受けとりですが、この文をはじめて見たときは、内容をよく受け取ることが出来ませんでした。ちょうど、力を尽くして結果はまかせるなんて思っていた頃でしたから。現在は、お念仏の作用、本願力という道理に拠ってということなのかなぁと受け取っています。ちなみに、その同じ文の少し後に「凡(およ)そ人力の如何(いかん)ともする能(あた)わざる所なりとして神仏に祈祷し、以て煩悩を安慰(あんい)せんとするもの、一として其必要を認可すべきを見ざるなり」とあります。人間の努力でどうにもならないこと、無事とか安全とかを神仏にお願いすることは、煩悩をなぐさめるだけのことで、全く必要のないものだとおっしゃっているのです。
仏教では煩悩は全否定。煩悩で元気が出るということはあるけれども、人間や人間社会をやがては壊してゆくものになる。煩悩に支えられた元気よりも、お念仏に立った、人事を尽くすということがある。元気だけが人生じゃない。不元気だって大事だ。人間ほんとうに恐ろしいものは「空しく過ぎる」ということだ、ということを書きました。最後に、住職がやっていた美術は妄想だっていうけど、美術は煩悩で、不要なものなの?って問いに対しては、あらためて書こうと思います。
住職は羽咋に帰ってくるまで美術をやっていました。美術は人間の作ったものですから、100パーセント妄想です。音楽を聞いていい気持ちになるのも妄想です。だから、住職も妄想を肯定してきました。煩悩も大事だとみてきました。そして、ひっくりかえりました。そのひっくりかえったきっかけは、仲野良俊という先生の本を読んでいたときです。「長生きして煩悩が盛んなのを誇るな!せめて煩悩が枯れないことを恥じるくらいのことはないといけない」ということを仲野先生はおっしゃっていました。これ、住職も覚えがあります。「歳とったけど食い気も色気もまだまだなくならない」なんていうおじいさんに、「そりゃ、お若いですねぇ、元気な証拠ですねぇ」なんておべっかを言ったことがあるのです。どうでしょう、欲が深いことは元気の源だと思っていませんか?住職はそう考えていたんです。ところが、仲野先生のひと言で変わりました。他にも仲野先生はおっしゃっています。「煩悩で世の中が発展したなんて言うが、煩悩で世の中が発展したりはしない。煩悩によって世の中はだんだん壊されていくのです。」その煩悩をあたりまえとする。煩悩を恥じる気持ちもおこらない、むしろ誇る。それを煩悩濁といいます。正信偈「五濁悪時群生海」の五濁のひとつです。
仏教では煩悩を全否定します。いいとこなんてひとつもない。そんな煩悩だけれども、無くならないというのも事実です。その煩悩が無くならないわたしという事実に立った仏教が、お念仏の道なわけです。煩悩を無くすのではない、煩悩は有る。けれどもそれが往生の障りにならない。お念仏の道に入れば、起こした煩悩がむしろ徳になる。なぜ徳になるかというと煩悩を起こした心が仏に遭う場所になるからです。高僧和讃に「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」という例えがあります。まさにこれです。煩悩多くして仏さんに遭うことが増えるのです。ここで、少し話を脱線しますが、この「罪障功徳の体〜」という歌詞の歌がありますけど、あれどうなんでしょう。キレイで感動的なメロディにのせるというのは違うんじゃないかと思います。この歌を歌うとき、住職はいつも気持ち悪い思いをします。いや、その気持ち悪い、座りの悪い心持ちになるために歌う歌なんですよね、きっと。はなしを戻します。煩悩は無くさんでもいい、無くさんでもそれを縁として仏法に遭っていくのが念仏だから心配するなということですが、その煩悩を誇ってしまうと迷いが深くなる。迷いが深いというのは、煩悩は人間を縛るものだからです。人間は人生においていろんなことに遭ってゆきます。いいことも悪いことも遭ったらそれに応じていかねばなりませんけれども、そのときに縛るのは煩悩です。損得とか、体面とか、いろいろ縛られて自分の考えたように、望んだように応じることができない。「そんなふうにしていたら死ぬぞ!」みたいな話がありますが、この「死ぬぞ!」というのも煩悩のはたらきです。べつに生きているのがいいわけじゃないんです。だって、人間は必ず死ぬのですから。だから長生きするのを仏教ではいいとは言いません。けれどべつに急いで死ぬ必要もない。ときが来れば、必ず終わるのですから。だから「死ぬぞ!」といことは仏教では脅しになりません。仏教での本当に恐ろしいものは「空過(くうか)」を言われるものです。空しく過ぎた、ということです。例えるなら、人生の終盤に至って「私の人生は何だったのだろう」と言わなければならないことです。これはですね、ほんとに恐ろしいことに、ひと財産作っても、名声を得ても、華やかな人生を送っても、来る人には来ます。もう死んでいくという時に立って、財産と名声はなんにも助けになりません。楽しかった思い出なんて、そんなものは過去のことです。もうすでにないのです。だから「人生で一番幸せな時に死ななければならないの!」と言って旦那さんを置いて川に身投げした奥さんが出てくる映画がありました。「髪結いの亭主」という映画です。
煩悩は元気の源と言いますが、仏教では元気なことだけがいいとは言わないのです。ずーっと元気だったら、それはそれで気味の悪いことではありませんか?。元気の出ないことも大事とする、仏教はそういうものですから、元気が出ることを理由に煩悩を正当化することもありません。いや、煩悩以外にも元気がでるお薬とかありますけど、やっちゃダメですよね。あれも作用がある。元気になるけど人間をダメにする作用がある。煩悩も同じです。それなら、お念仏で元気は出ないの?となりますが、お念仏には煩悩に支えられる元気と違うものが生まれます。それを、清沢満之という明治の先生はこうおっしゃっておられる。「所謂(いわゆる)人事を尽くして天命に安(やす)んずるは、吾人の適従(てきじゅう)すべき道教にあらずや〝精細に之を云えば、余は天命に安んじて人事を尽すと云うの可なるを思う。、、、、、〝」ちからを尽くして結果を天にゆだねるというのは、覚った人間のしたがうべき道ではない。より細かく言うなら、どんな結果になっても大丈夫だという心においてこそ、人間はちからを尽くすことができる。住職の受けとりですが、この文をはじめて見たときは、内容をよく受け取ることが出来ませんでした。ちょうど、力を尽くして結果はまかせるなんて思っていた頃でしたから。現在は、お念仏の作用、本願力という道理に拠ってということなのかなぁと受け取っています。ちなみに、その同じ文の少し後に「凡(およ)そ人力の如何(いかん)ともする能(あた)わざる所なりとして神仏に祈祷し、以て煩悩を安慰(あんい)せんとするもの、一として其必要を認可すべきを見ざるなり」とあります。人間の努力でどうにもならないこと、無事とか安全とかを神仏にお願いすることは、煩悩をなぐさめるだけのことで、全く必要のないものだとおっしゃっているのです。
仏教では煩悩は全否定。煩悩で元気が出るということはあるけれども、人間や人間社会をやがては壊してゆくものになる。煩悩に支えられた元気よりも、お念仏に立った、人事を尽くすということがある。元気だけが人生じゃない。不元気だって大事だ。人間ほんとうに恐ろしいものは「空しく過ぎる」ということだ、ということを書きました。最後に、住職がやっていた美術は妄想だっていうけど、美術は煩悩で、不要なものなの?って問いに対しては、あらためて書こうと思います。
2019年11月21日木曜日
「正信偈のなかみ」本日の板書
本日もご足労いただきありがとうございました。毎月1回ずつしてもう9回目が終わりました。参加なさる人数がほとんど減らないこともびっくりです。これは親しみのある正信偈への関心が続けさせて下さるのだとおもいます。
人間は自分の思ったこと、したことを何でも自分の手柄にして誇ったり、所有権を主張したりしますが、「ひらめき」とは果たして自分の所有物なのでしょうか?考えてひらめくなら、自分の意思で自由にひらめくことができるものなら自分のものでしょうが、「ひらめき」はそう自分の考えたとおりにはひらめかないものです。かって、住職が美術をやっていたときは、その「ひらめき」を求めて3日も4日もウンウン唸って時を過ごしたものですが、センスのある芸術家などは『「ひらめき」は天から降ってくるもの』などと表現しています。そうです、実感としてはいただきものなんです。誰からのいただきものかはわかりませんが、それは深層心理と言ってもいいし、仏さまと言ってもいいし。いまの自分ではないと受け止めたら生活が広がるのではないでしょうか。仏(真実)は誤魔化せないものです。誤魔化してもかならずはたらいてくる。嘘は虚像でしかないのです。人間は虚像でもいいから都合のよいものを望みますが、嘘を頼めば迷いが深くなるだけです。自分の嘘、誤魔化しを常に照らして下さるのが摂取の心光だと思います。そして、迷いから常にわたしを護って下さるのです。仏のはたらきとは人智の否定であると現在思っています。でも、否定されるばかりなら辛い、元気出なくなります。だから仏の慈悲があるのです。仏さんは、人間の思いは否定しても存在はとことん肯定してくださるのです。思いを否定されることで自由になる生活、それが信心の生活ではないでしょうか。
2019年11月20日水曜日
2019年10月26日土曜日
苦、労!
いま、各町の門徒さんを「ほんこまいり」で周っています。お勤めのあとは法話というのが浄土真宗のカタチですが、ほんこまいりでは時間がないので法話を書いた紙をお渡しします。それでお勤めが終わって振りかえると、じっとその法話の紙に目をおとしている人がおられる。今年の法話の題は「念仏でたすかる!」です。なんとも脳天気な題にしたものだと、大丈夫かと思いますが、そのときは「これだ!」と思ったのですから、あとのまつりということです。ご高齢だったり、病気をもっておられたり、家族の介護をされていたり、苦労されてそうなひとが法話を読んでおられると「下手なこと書いたんじゃないか???調子のよいこと書いたんじゃないか??!」と心配になって、あとで自分で読みかえしてみたりしますが、ひとがどう受けとられるかまでは想像がつきません。ただ、法話は苦労されているひとに読まれることを思って書くべきだと知らされるだけです。どのように書けば正解だなんてわかりません。だから、きっと、失敗して怒られることもあると思います。実際、ご法事の法話の後で注意されたこともあります。けれど、どこにも角の立たない話をすれば、坊さんとして詐欺だろうと思います。角の立たない話はいらないのです。
苦労ということなら、住職自身は大した苦労をしたと思いません。だから苦労されてそうなひとにお会いすると立場がないです。それはそれで、一方で、「わたしは苦労をしたぞ」なんて言ったら人間おしまいだと思っています。人間縁あって苦労しますが、大変な苦労をなさるひともいますが、人間である以上は苦労をし尽くすというところには立てないのだと思っています。「苦労したぞ」という一言で終わってしまうものがあります。それは仏さんに向かって開かれた道ではないでしょうか。仏道は自己完結したときに終わるものです。「わかった!」で行き止まりになってしまう道です。「苦労したぞ」はある意味驕慢な心の表れです。人間は相手にたいして優位に立つために「苦労した」なんて言葉をつかいます。そして行き止まりになる。どんな苦労があっても先に開かれてゆく道があるから、命ある限り無限に仏になってゆくのではないでしょうか。苦労を尽くすのは仏さんの仕事です。「仮令身止(けりょうしんし) 諸苦毒中(しょくどくちゅう) 我行精進(がぎょうしょうじん) 忍終不悔(にんじゅふけ)」と嘆仏偈のおわりにあります。「たとえ、我が身は地獄の苦しみのなかに止まることになろうとも、私は努力精進し、決して後悔することはありません」と、法蔵菩薩が誓われて阿弥陀仏になったのです。わたしの苦労をわたし以上に引き受けるものがいる。それが苦労のなかにある人間をたすけるのではないでしょうか。
苦労ということなら、住職自身は大した苦労をしたと思いません。だから苦労されてそうなひとにお会いすると立場がないです。それはそれで、一方で、「わたしは苦労をしたぞ」なんて言ったら人間おしまいだと思っています。人間縁あって苦労しますが、大変な苦労をなさるひともいますが、人間である以上は苦労をし尽くすというところには立てないのだと思っています。「苦労したぞ」という一言で終わってしまうものがあります。それは仏さんに向かって開かれた道ではないでしょうか。仏道は自己完結したときに終わるものです。「わかった!」で行き止まりになってしまう道です。「苦労したぞ」はある意味驕慢な心の表れです。人間は相手にたいして優位に立つために「苦労した」なんて言葉をつかいます。そして行き止まりになる。どんな苦労があっても先に開かれてゆく道があるから、命ある限り無限に仏になってゆくのではないでしょうか。苦労を尽くすのは仏さんの仕事です。「仮令身止(けりょうしんし) 諸苦毒中(しょくどくちゅう) 我行精進(がぎょうしょうじん) 忍終不悔(にんじゅふけ)」と嘆仏偈のおわりにあります。「たとえ、我が身は地獄の苦しみのなかに止まることになろうとも、私は努力精進し、決して後悔することはありません」と、法蔵菩薩が誓われて阿弥陀仏になったのです。わたしの苦労をわたし以上に引き受けるものがいる。それが苦労のなかにある人間をたすけるのではないでしょうか。
2019年10月17日木曜日
「正信偈のなかみ」本日の板書
本日もご足労いただきありがとうございました。涼しく、いや寒くなって会場は本堂から大座敷に移りました。座敷だとひとでいっぱいです。ありがたいです、うれしいです。
信心の利益ということで、九月は「大乗の利益」どんな人間でも仏になれるということ。本日十月の内容は「一乗の利益」、善人も悪人も、悟ったひとも、仏法を嫌う人も浄土に入るためには廻入して入る。廻入とはひっくり返る、懺悔する。悪人は悪人だと懺悔する、善人は善を誇っていたことを懺悔する。悟った人間も悟りを縁に生まれる慢心を懺悔する。そしてみな一味の同じ仏になるということでした。
次回(十一月二十一日)は「心光常護の益」、摂取心光常照護から雲霧之下明無闇まで、仏さまのはたらきについてです。
縁あって休むことがあっても、また出てきてくださいね。大丈夫です。全部欠かさずに受講するのが仏法ではありません。正信偈講座を通して、親鸞聖人の偈のなかに響くものがあればそれが人生の宝物です。真面目である必要も一生懸命である必要も全くありません。と、いうかそれは人間の仕事ではありません。仏さんの仕事なんです。自分には真面目も一生懸命も何にもない。それが一心ということです。
信心の利益ということで、九月は「大乗の利益」どんな人間でも仏になれるということ。本日十月の内容は「一乗の利益」、善人も悪人も、悟ったひとも、仏法を嫌う人も浄土に入るためには廻入して入る。廻入とはひっくり返る、懺悔する。悪人は悪人だと懺悔する、善人は善を誇っていたことを懺悔する。悟った人間も悟りを縁に生まれる慢心を懺悔する。そしてみな一味の同じ仏になるということでした。
次回(十一月二十一日)は「心光常護の益」、摂取心光常照護から雲霧之下明無闇まで、仏さまのはたらきについてです。
縁あって休むことがあっても、また出てきてくださいね。大丈夫です。全部欠かさずに受講するのが仏法ではありません。正信偈講座を通して、親鸞聖人の偈のなかに響くものがあればそれが人生の宝物です。真面目である必要も一生懸命である必要も全くありません。と、いうかそれは人間の仕事ではありません。仏さんの仕事なんです。自分には真面目も一生懸命も何にもない。それが一心ということです。
2019年10月16日水曜日
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