2020年2月20日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書



本日もお集まりいただき、ありがとうございました。無事12回めの講座を終えることができました。本日のはじめでもお話ししましたが、もう12回です!あっという間でした。この調子だとあと2年弱、正信偈のなかみをはじめからおわりまで達成するのは、そんなに気の遠くなるようなことではないということを考えました。淡々とやればよいのです。毎月1回、少ないかなぁと開始当初は思いましたが、重ねればけっこうなことができます。
ところで、新型コロナ肺炎があります。ひょっとすると次回は、3月19日なんですが、お休みすることになるか、そのときの北陸地方の状況で考えますけど、無理はしません。ちょっと心に留めておいてください。お願いします。次回からは依釈分。七高僧を通してお念仏の教えにふれてゆきます。

2020年2月19日水曜日

あす2月20日の「正信偈のなかみ」予定通り

明日、2月20日の「正信偈のなかみ」を予定どおり19時から本念寺大座敷でおこないます。12回目です!正信偈の前半「依経分」の締めくくりになります。「依経分」は親鸞聖人がお経(主に無量寿経)をもとにお念仏の教えというものについて説かれた部分です。お念仏の教えについて、一回めのしめくくりです。

2020年1月22日水曜日

裏門の法語 2

「食べないと死ぬ、食べてても死ぬ」
本念寺裏門の法語、ふたつめは仲野良俊という先生のことばです。

 わたしは何で働かないとならんのか。それは働かないと食べてゆくことができないから。つまりは生きてゆけないから。けれども、そうやって食べていってもやがては死にます。耳ざわりのいい言葉ではありませんが、無視することもできない言葉です。そこにわたしが求めるべきもののヒントがあるのではないですか。財産をつくっても死にます。名声を得ても死にます。子孫を残しても死にます。人間がどんなにこだわっても、わたしが死ぬときには全て手放すものです。だから虚しいなんていうこともありますが、虚しいなんてのは人の思いで生きているからです。ぎゃくに死ぬからこそ生きているときが充実するということがあるのではないですか。終わるからこそ大事にできるということがあるのではないですか。ほんとうに自分をたすけるものを求めなければ、寿命だけ生きて不満のまま死にます。だからほんとうを求めるということが大事です。その一歩目は無視できない問題から始まります。問題があるということが、すくいの縁になります。

2020年1月16日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書


本日も「正信偈のなかみ」へご参加ありがとうございます。おかげで、住職は無人の場で講座を持つという寂しいことにならんでおります。いろいろドギツイ言葉表現もしてるなぁと思いますが、聞いてくださる方々の反応が明るくて助けられます。
 今日のはなしでもしたのですが、ごくたまに「住職、ありがたいはなしを頼む」というのがあります。あいがたい話は気持ちいいかもしれませんが、人をたすけません。人をたすけない話ならばそれは仏法ではなく外道です。なぜなら、道元禅師もおっしゃっているように仏法とは「自分を習う」ことだからです。人間はほんとうにいろんなことを知っています。役に立つのか金になるのかわかりませんが、遠い宇宙の果てのことだって知っている。自分の体の構造も知っている。けれども自分の心のことは知らない。なんで腹がたつのか、なんで悔しいのか、なんで生きてゆけないと思ってしまうのか、それを知ろうとは思わないようです。腹がたつのをあたりまえと思っている。悔しいのも、生きてゆけない思いもあたりまえと思って疑わない。 そして社会を壊す、環境を壊す。自然を壊す。環境破壊と言われるようになりましたが、それは人間が満足を外に求めた結果ではないでしょうか。だから、私自身耳の痛いことばかりですが、私をならうことが道を開くのだと思います。

次回は依経分の最後です。お念仏の教えについての段が一区切りつきます。十二回目ですね。

2020年1月15日水曜日

あす16日の「正信偈のなかみ」予定通り。

明日、1月16日の「正信偈のなかみ」は予定どおり19時から本念寺大座敷で行います。信心の利益の最後です!

住職

2020年1月1日水曜日

新年あけましておめでとうございます。


 
昨年来はお世話になりました。本年もよろしくお願いします。

写真は除夜の鐘でお配りした本念寺特製「煩悩饅頭」です。煩悩は我々を煩わし悩ませるもの。108つの鐘でおくって、、、と申しますが、お念仏の教えでは「あっても障りにならない」と言います。むしろ、煩悩をおこした時が仏さまに遭うとき。貴重なときです。だから、本念寺の煩悩饅頭は美味しく召し上がっていただきたい。ただ、煩悩は人間を使います。煩悩の別名を「正使」といいますが、これは「駆使衆生」。いのちあって、心あるものを使い走らせるものです。煩悩に使われると、煩悩に使われて人生が終わります。だから、龍樹菩薩は仏さまになったひとを「自在人」と呼んで大事になさいました。煩悩に使われることを脱したひとです。自分に帰っていきるひとです。お念仏があれば、煩悩はあっても差し支えない。むしろ、煩悩を起こすから覚めるきっかけになる。けれど、煩悩がわからなければ煩悩に使われる。使われて人生が終わってしまう。そこにお念仏があるということで分かれます。お念仏は自分が仏さまに照らされるということです。

追記 煩悩饅頭の本体は、はくい門内製菓さんのみそまんじゅう。

2019年12月19日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書


このあいだ始めたと思ったのが、もう10回を数えました。依経分が終盤に近づきました。
本日のポイントは、信心を獲るのは今!涅槃を得るのは未来だけど、確実に得ることが今確定する。涅槃の功徳(利益)は未来かというと今!現在に働いてきている。それが信心。信心とは自分が凡夫であったとわかる。だから凡夫に自分が帰る。人間は自分を凡夫だとは思っていない。もっと偉い何者かだと思っている。凡夫とは縁によって善いこともするけど、縁によって悪事もなしてしまう身ということ。自分のモノサシで世界を計るということをやめられない者。自分に見ていた夢に破れて凡夫に帰ったのが信心。凡夫が凡夫に帰る。自分の思いの立場を捨てて自分の本来に帰る。それが信心を獲るということ。自分がわかった、この一点でいい。だから、経典を読んだから信心を獲ったとかではない。機が熟して信心を如来から賜る。行はいらない。自分にみていた夢を破るのは真実。真実に遭うのが「見」。真実にあってはじめて敬うということが生まれる。三帰依と言うが、ほんとうに帰依するには真実にあって妄想が破れないといけない。妄想が破れてはじめて外道を捨てることができる。外道とは都合の良いことをもとめ、都合の悪いことを遠ざける教え。人間は神、仏と言うが、その神や仏を利用することに熱心なのだ。しかし、神や仏を利用するなら永遠に五悪趣(欲に支配された世界)を出ることができない。お念仏の道に出会えたということが非常な喜びである。大慶喜。信心を獲って往生するというのは普通の道ではない。人間からするとあり得ない道だ。横超。五悪趣という断ち難い欲望の世界をたち截って、仏のちからで即座に往生する。娑婆は苦しみだらけの場所だがその娑婆を去りがたい。断ち難い。人間は娑婆に未練がある。娑婆の夢を捨てられない。それを智慧のはたらきでもって即座に出る。それが横超の利益。
ポイントがずいぶん長くなりました。結果的に本日内容を簡潔にまとめられたでしょうか。