2019年12月19日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書


このあいだ始めたと思ったのが、もう10回を数えました。依経分が終盤に近づきました。
本日のポイントは、信心を獲るのは今!涅槃を得るのは未来だけど、確実に得ることが今確定する。涅槃の功徳(利益)は未来かというと今!現在に働いてきている。それが信心。信心とは自分が凡夫であったとわかる。だから凡夫に自分が帰る。人間は自分を凡夫だとは思っていない。もっと偉い何者かだと思っている。凡夫とは縁によって善いこともするけど、縁によって悪事もなしてしまう身ということ。自分のモノサシで世界を計るということをやめられない者。自分に見ていた夢に破れて凡夫に帰ったのが信心。凡夫が凡夫に帰る。自分の思いの立場を捨てて自分の本来に帰る。それが信心を獲るということ。自分がわかった、この一点でいい。だから、経典を読んだから信心を獲ったとかではない。機が熟して信心を如来から賜る。行はいらない。自分にみていた夢を破るのは真実。真実に遭うのが「見」。真実にあってはじめて敬うということが生まれる。三帰依と言うが、ほんとうに帰依するには真実にあって妄想が破れないといけない。妄想が破れてはじめて外道を捨てることができる。外道とは都合の良いことをもとめ、都合の悪いことを遠ざける教え。人間は神、仏と言うが、その神や仏を利用することに熱心なのだ。しかし、神や仏を利用するなら永遠に五悪趣(欲に支配された世界)を出ることができない。お念仏の道に出会えたということが非常な喜びである。大慶喜。信心を獲って往生するというのは普通の道ではない。人間からするとあり得ない道だ。横超。五悪趣という断ち難い欲望の世界をたち截って、仏のちからで即座に往生する。娑婆は苦しみだらけの場所だがその娑婆を去りがたい。断ち難い。人間は娑婆に未練がある。娑婆の夢を捨てられない。それを智慧のはたらきでもって即座に出る。それが横超の利益。
ポイントがずいぶん長くなりました。結果的に本日内容を簡潔にまとめられたでしょうか。

2019年12月18日水曜日

明日12月19日の正信偈のなかみは、、、

明日12月19日の正信偈のなかみは、予定通り19時より本念寺の大座敷で行います。今回も1時間。獲信→信心をえる。見敬→真実を見た。大慶喜→大いに喜ぶ。即→いますぐ。横超→ありえないけど。截→断ち切る。五悪趣→どうしょうもない性分。というところになります。

2019年12月16日月曜日

煩悩は必要なものか!?

 仏教では人間の「思い」を妄想であるといいます。そして、住職があちこちでやたら妄想だ妄想だと言って周るものだから、門徒さんに言われました。「住職は妄想、妄想って言うけど、元気をだして生きてゆくためには妄想だって、煩悩だって必要なんじゃないかね」と。
 住職は羽咋に帰ってくるまで美術をやっていました。美術は人間の作ったものですから、100パーセント妄想です。音楽を聞いていい気持ちになるのも妄想です。だから、住職も妄想を肯定してきました。煩悩も大事だとみてきました。そして、ひっくりかえりました。そのひっくりかえったきっかけは、仲野良俊という先生の本を読んでいたときです。「長生きして煩悩が盛んなのを誇るな!せめて煩悩が枯れないことを恥じるくらいのことはないといけない」ということを仲野先生はおっしゃっていました。これ、住職も覚えがあります。「歳とったけど食い気も色気もまだまだなくならない」なんていうおじいさんに、「そりゃ、お若いですねぇ、元気な証拠ですねぇ」なんておべっかを言ったことがあるのです。どうでしょう、欲が深いことは元気の源だと思っていませんか?住職はそう考えていたんです。ところが、仲野先生のひと言で変わりました。他にも仲野先生はおっしゃっています。「煩悩で世の中が発展したなんて言うが、煩悩で世の中が発展したりはしない。煩悩によって世の中はだんだん壊されていくのです。」その煩悩をあたりまえとする。煩悩を恥じる気持ちもおこらない、むしろ誇る。それを煩悩濁といいます。正信偈「五濁悪時群生海」の五濁のひとつです。
仏教では煩悩を全否定します。いいとこなんてひとつもない。そんな煩悩だけれども、無くならないというのも事実です。その煩悩が無くならないわたしという事実に立った仏教が、お念仏の道なわけです。煩悩を無くすのではない、煩悩は有る。けれどもそれが往生の障りにならない。お念仏の道に入れば、起こした煩悩がむしろ徳になる。なぜ徳になるかというと煩悩を起こした心が仏に遭う場所になるからです。高僧和讃に「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」という例えがあります。まさにこれです。煩悩多くして仏さんに遭うことが増えるのです。ここで、少し話を脱線しますが、この「罪障功徳の体〜」という歌詞の歌がありますけど、あれどうなんでしょう。キレイで感動的なメロディにのせるというのは違うんじゃないかと思います。この歌を歌うとき、住職はいつも気持ち悪い思いをします。いや、その気持ち悪い、座りの悪い心持ちになるために歌う歌なんですよね、きっと。はなしを戻します。煩悩は無くさんでもいい、無くさんでもそれを縁として仏法に遭っていくのが念仏だから心配するなということですが、その煩悩を誇ってしまうと迷いが深くなる。迷いが深いというのは、煩悩は人間を縛るものだからです。人間は人生においていろんなことに遭ってゆきます。いいことも悪いことも遭ったらそれに応じていかねばなりませんけれども、そのときに縛るのは煩悩です。損得とか、体面とか、いろいろ縛られて自分の考えたように、望んだように応じることができない。「そんなふうにしていたら死ぬぞ!」みたいな話がありますが、この「死ぬぞ!」というのも煩悩のはたらきです。べつに生きているのがいいわけじゃないんです。だって、人間は必ず死ぬのですから。だから長生きするのを仏教ではいいとは言いません。けれどべつに急いで死ぬ必要もない。ときが来れば、必ず終わるのですから。だから「死ぬぞ!」といことは仏教では脅しになりません。仏教での本当に恐ろしいものは「空過(くうか)」を言われるものです。空しく過ぎた、ということです。例えるなら、人生の終盤に至って「私の人生は何だったのだろう」と言わなければならないことです。これはですね、ほんとに恐ろしいことに、ひと財産作っても、名声を得ても、華やかな人生を送っても、来る人には来ます。もう死んでいくという時に立って、財産と名声はなんにも助けになりません。楽しかった思い出なんて、そんなものは過去のことです。もうすでにないのです。だから「人生で一番幸せな時に死ななければならないの!」と言って旦那さんを置いて川に身投げした奥さんが出てくる映画がありました。「髪結いの亭主」という映画です。
 煩悩は元気の源と言いますが、仏教では元気なことだけがいいとは言わないのです。ずーっと元気だったら、それはそれで気味の悪いことではありませんか?。元気の出ないことも大事とする、仏教はそういうものですから、元気が出ることを理由に煩悩を正当化することもありません。いや、煩悩以外にも元気がでるお薬とかありますけど、やっちゃダメですよね。あれも作用がある。元気になるけど人間をダメにする作用がある。煩悩も同じです。それなら、お念仏で元気は出ないの?となりますが、お念仏には煩悩に支えられる元気と違うものが生まれます。それを、清沢満之という明治の先生はこうおっしゃっておられる。「所謂(いわゆる)人事を尽くして天命に安(やす)んずるは、吾人の適従(てきじゅう)すべき道教にあらずや〝精細に之を云えば、余は天命に安んじて人事を尽すと云うの可なるを思う。、、、、、〝」ちからを尽くして結果を天にゆだねるというのは、覚った人間のしたがうべき道ではない。より細かく言うなら、どんな結果になっても大丈夫だという心においてこそ、人間はちからを尽くすことができる。住職の受けとりですが、この文をはじめて見たときは、内容をよく受け取ることが出来ませんでした。ちょうど、力を尽くして結果はまかせるなんて思っていた頃でしたから。現在は、お念仏の作用、本願力という道理に拠ってということなのかなぁと受け取っています。ちなみに、その同じ文の少し後に「凡(およ)そ人力の如何(いかん)ともする能(あた)わざる所なりとして神仏に祈祷し、以て煩悩を安慰(あんい)せんとするもの、一として其必要を認可すべきを見ざるなり」とあります。人間の努力でどうにもならないこと、無事とか安全とかを神仏にお願いすることは、煩悩をなぐさめるだけのことで、全く必要のないものだとおっしゃっているのです。
 仏教では煩悩は全否定。煩悩で元気が出るということはあるけれども、人間や人間社会をやがては壊してゆくものになる。煩悩に支えられた元気よりも、お念仏に立った、人事を尽くすということがある。元気だけが人生じゃない。不元気だって大事だ。人間ほんとうに恐ろしいものは「空しく過ぎる」ということだ、ということを書きました。最後に、住職がやっていた美術は妄想だっていうけど、美術は煩悩で、不要なものなの?って問いに対しては、あらためて書こうと思います。

2019年11月21日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書


本日もご足労いただきありがとうございました。毎月1回ずつしてもう9回目が終わりました。参加なさる人数がほとんど減らないこともびっくりです。これは親しみのある正信偈への関心が続けさせて下さるのだとおもいます。
人間は自分の思ったこと、したことを何でも自分の手柄にして誇ったり、所有権を主張したりしますが、「ひらめき」とは果たして自分の所有物なのでしょうか?考えてひらめくなら、自分の意思で自由にひらめくことができるものなら自分のものでしょうが、「ひらめき」はそう自分の考えたとおりにはひらめかないものです。かって、住職が美術をやっていたときは、その「ひらめき」を求めて3日も4日もウンウン唸って時を過ごしたものですが、センスのある芸術家などは『「ひらめき」は天から降ってくるもの』などと表現しています。そうです、実感としてはいただきものなんです。誰からのいただきものかはわかりませんが、それは深層心理と言ってもいいし、仏さまと言ってもいいし。いまの自分ではないと受け止めたら生活が広がるのではないでしょうか。仏(真実)は誤魔化せないものです。誤魔化してもかならずはたらいてくる。嘘は虚像でしかないのです。人間は虚像でもいいから都合のよいものを望みますが、嘘を頼めば迷いが深くなるだけです。自分の嘘、誤魔化しを常に照らして下さるのが摂取の心光だと思います。そして、迷いから常にわたしを護って下さるのです。仏のはたらきとは人智の否定であると現在思っています。でも、否定されるばかりなら辛い、元気出なくなります。だから仏の慈悲があるのです。仏さんは、人間の思いは否定しても存在はとことん肯定してくださるのです。思いを否定されることで自由になる生活、それが信心の生活ではないでしょうか。

2019年11月20日水曜日

11月21日の「正信偈のなかみ」は

明日、11月21日の「正信偈のなかみ」よていどおり本念寺大座敷で19時からおこないます。

住職

2019年10月26日土曜日

苦、労!

 いま、各町の門徒さんを「ほんこまいり」で周っています。お勤めのあとは法話というのが浄土真宗のカタチですが、ほんこまいりでは時間がないので法話を書いた紙をお渡しします。それでお勤めが終わって振りかえると、じっとその法話の紙に目をおとしている人がおられる。今年の法話の題は「念仏でたすかる!」です。なんとも脳天気な題にしたものだと、大丈夫かと思いますが、そのときは「これだ!」と思ったのですから、あとのまつりということです。ご高齢だったり、病気をもっておられたり、家族の介護をされていたり、苦労されてそうなひとが法話を読んでおられると「下手なこと書いたんじゃないか???調子のよいこと書いたんじゃないか??!」と心配になって、あとで自分で読みかえしてみたりしますが、ひとがどう受けとられるかまでは想像がつきません。ただ、法話は苦労されているひとに読まれることを思って書くべきだと知らされるだけです。どのように書けば正解だなんてわかりません。だから、きっと、失敗して怒られることもあると思います。実際、ご法事の法話の後で注意されたこともあります。けれど、どこにも角の立たない話をすれば、坊さんとして詐欺だろうと思います。角の立たない話はいらないのです。
 苦労ということなら、住職自身は大した苦労をしたと思いません。だから苦労されてそうなひとにお会いすると立場がないです。それはそれで、一方で、「わたしは苦労をしたぞ」なんて言ったら人間おしまいだと思っています。人間縁あって苦労しますが、大変な苦労をなさるひともいますが、人間である以上は苦労をし尽くすというところには立てないのだと思っています。「苦労したぞ」という一言で終わってしまうものがあります。それは仏さんに向かって開かれた道ではないでしょうか。仏道は自己完結したときに終わるものです。「わかった!」で行き止まりになってしまう道です。「苦労したぞ」はある意味驕慢な心の表れです。人間は相手にたいして優位に立つために「苦労した」なんて言葉をつかいます。そして行き止まりになる。どんな苦労があっても先に開かれてゆく道があるから、命ある限り無限に仏になってゆくのではないでしょうか。苦労を尽くすのは仏さんの仕事です。「仮令身止(けりょうしんし)  諸苦毒中(しょくどくちゅう)  我行精進(がぎょうしょうじん)  忍終不悔(にんじゅふけ)」と嘆仏偈のおわりにあります。「たとえ、我が身は地獄の苦しみのなかに止まることになろうとも、私は努力精進し、決して後悔することはありません」と、法蔵菩薩が誓われて阿弥陀仏になったのです。わたしの苦労をわたし以上に引き受けるものがいる。それが苦労のなかにある人間をたすけるのではないでしょうか。

2019年10月17日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書

本日もご足労いただきありがとうございました。涼しく、いや寒くなって会場は本堂から大座敷に移りました。座敷だとひとでいっぱいです。ありがたいです、うれしいです。

信心の利益ということで、九月は「大乗の利益」どんな人間でも仏になれるということ。本日十月の内容は「一乗の利益」、善人も悪人も、悟ったひとも、仏法を嫌う人も浄土に入るためには廻入して入る。廻入とはひっくり返る、懺悔する。悪人は悪人だと懺悔する、善人は善を誇っていたことを懺悔する。悟った人間も悟りを縁に生まれる慢心を懺悔する。そしてみな一味の同じ仏になるということでした。
次回(十一月二十一日)は「心光常護の益」、摂取心光常照護から雲霧之下明無闇まで、仏さまのはたらきについてです。

縁あって休むことがあっても、また出てきてくださいね。大丈夫です。全部欠かさずに受講するのが仏法ではありません。正信偈講座を通して、親鸞聖人の偈のなかに響くものがあればそれが人生の宝物です。真面目である必要も一生懸命である必要も全くありません。と、いうかそれは人間の仕事ではありません。仏さんの仕事なんです。自分には真面目も一生懸命も何にもない。それが一心ということです。

2019年10月16日水曜日

明日10月17日の「正信偈のなかみ」

明日10月17日の「正信偈のなかみ」は予定どおり19時から本念寺大座敷で行います。

2019年9月23日月曜日

報恩講。




本日(9月23日)より9月26日まで本念寺は報恩講です。朝、準備の五色幕を本堂にかけたところ。毎年大提灯もつるのですが、今年は台風の様子をみて待機中。

23日
14時からお勤めと御法話があります。門前より諸岡 敏先生がお話しにこられます。

24日
8時のお勤め、住職の法話。10時のお勤め諸岡先生の法話。12時御膳つき。14時お勤め諸岡先生の法話。

25日
8時のお勤め、住職の法話。10時羽咋幼稚園園児のこども報恩講。13時半お勤め諸岡先生の法話。

26日
8時半のお勤め。9時半永代供養共同墓法要。10時五銭講住職の法話

の日程になります。

24日12時、御膳です。大人500円、子ども(中学生以下)100円であります。

2019年9月19日木曜日

本日の板書

9月19日「正信偈のなかみ」板書です。3枚になってしまいました。

9月から「信心の利益」についてやってゆきます。先ず「大乗の利益」。これは煩悩を滅することなく涅槃につながるということです。煩悩を断ずるというと社会生活は不可能になりますが、念仏は煩悩があるままで涅槃(愚痴を言わんで済む心)が現在の生活にはたらいてくるということです。

先ずは簡単におさらいと今後の予定。



ほんじつもお集まりいただき有難うございました。わたし、出不精なので、みなさんが出てこられるということがほんとうに簡単ではないことだとしみじみ思っております。
本日は3枚のプリントを配布しましたので、お休みされたかたは次回お取りください。

本日「正信偈のなかみ」

予定どおり、19時から、本念寺で。

「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」をします。

みがみもの。





9月23日から26日まで、本念寺報恩講(はくいほうじ)です。その準備のみがきものをしました。みなさんごくろうさまでした。ピカピカです、仏具がピカピカになるのは達成感があります。次回は1年後ですが、興味のあるかたはお寺まで。

2019年9月18日水曜日

明日9月19日の「正信偈のなかみ」

明日9月19日の「正信偈のなかみ」は予定どおり、19時から本念寺にて行います。

本念寺 住職

2019年9月8日日曜日

「そんなこと言うけど、どうしたらそうなるのさ?」

住職はブログや法話で、「念仏の道というものは生活を明るくする。」「苦労がないことがたすかったことじゃなくて、どんな苦労も受けとめてゆける人間になったこと、それがたすかったこと、仏の御恩です。」なんて書いたり言ったりしていますが、すると、「そんなこと言うけど、どうしたらそうなるのさ?」ということが出てくると思います。どうするかはその名の通り、「念仏すること」なのですが、その念仏もなかなかできない。何が念仏なのかわからないということになります。「南無阿弥陀仏」と口にとなえてみても、なんにも変わらないし、たすかったという気もしない。なんにもならないじゃないか、と。でも、変化がなに一つ無かったというわけじゃないですね。少なくとも「お念仏もうした」ということはあります。そして、「念仏してもピンとこない」ということもあるわけです。厳密にみると、念仏してなにも無かったわけじゃない。これはわたし(住職)の実感なのですが、それが念仏の道の入り口に立ったということではないでしょうか。それは人間の「わかっている世界」から、仏智の「わからない世界、思いを越えた世界」へ入る入り口なんじゃないかと思ったのです。念仏はわからないものだけど、そのわからないことを通して、深く人間の思いを越えた、真実に向かう道をすすんでいくわけです。すなわちこれが往生への道です。

 実は、道は念仏だけじゃありません。究極的には念仏ですが、親鸞聖人は主著「教行信証」の総序に「摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」と説いておられます。「摂取不捨の真言、超世希有の正法、」これは仏法のことですね、聞(もん)は聞くということ、思(し)は自分の日常生活を仏法に照らすということ、遅慮は遅れるな、遠慮なんかするなです。とても確信を持って勧めておられるわけです。この聞思のために真宗のお寺では聞法会が開かれます。お寺の行事も聞思のためです。報恩講、太子講、と行事に「講」という字がつくのもそのためです。お寺の本堂なら、真宗のお寺以外にもいろんな宗派の本堂がありますが、真宗の本堂の特徴はお参りする場所が圧倒的に広いということです。真宗以外のお寺では、お勤めをする(お坊さんが読経する)場所のほうが広いです。本堂の割合にだって、聞思するのが真宗の仏道ということがあらわれているのです。真宗は修行しない宗派と言われます。たしかに修行はなにひとつしません、というか要求されません。けれども全くなにもしないのではないのです。くり返しくり返し仏法を聞いていきなさいと、お寺の行事で聞法がないものは皆無なのです。御法事だって読経のあと絶対に住職が法話します。余談ですが、こんな話があります。昭和の時代に宗門(東本願寺)が改革運動に揺れたことがあります。その改革運動に熱く参加された住職がおられたのですが、保守派も改革派もともに人間ですから、それぞれの立場とか利害とか政治的なちから関係とかでぐちゃぐちゃになって来て、自分がなにをしているのか自信が無くなったということでした。それで、当時おられた安田先生という真宗の先生に「どうしたらいいでしょう?」と相談に行ったのです。すると安田先生のこたえは一言でした。あまりにあっさり一言だったので、もう一度尋ね直したそうです。そのこたえは、「聞法です。」という言葉でした。念仏の道は仏法を聞く、仏法に自分の生活を照らす、正しいとか保守とか改革とかでなく、聞法するということが念仏者の立場だとハッキリおっしゃったわけです。ほんとうにこれしかないのですね。そして、それ以上に確かなものもないのです。

 わたしたち人間はいつも「どうしたら?」で生活しています。「どうしたら?」のさきにあるのは、自分にとって受け入れることが可能な事態です。だから、人間が「どうしたら?」と言うとき、いちばん大事にされるのは自分の願望です。「どうしたら?」には「わたしの思いどおりにしたいんですけど。」ということがウラにくっついているんです。旅行から自坊に帰って来て「仏さま、おかげで無事に帰って来れました、ありがとうございます。」なんてのも一見立派ですが、仏さまを自分の願望のために利用しているのです。だって、無事に帰って来れたのが仏さまのおかげなら、無事でなかったときには仏さまのせいですね。それなら何かあったら仏さまを恨まないといけない。わたしが無事なのも無事でないのも「業」によります。業があって災難に遭い、業があって無事なんです。仏さまの御恩とは、どんな業にあってもそれを受けとめて生きてゆける人間にしてくださるということです。しかし、油断すると人間はすぐに仏さまも利用しにかかるのです。ときに念仏でさえ利用しようとすることがあります。真宗の集まりなんかでは、念仏するひとは立派なひとだなんて見ることがありますが、誰にも批判されない立場というのは危ないものです。批判されることがないと人間はすぐに曲がった道にはいる。念仏することで批判されることのない立場を取ろうというなら、それも念仏を自分の立場のために利用していることになります。だから、それを直していただくのが聞法です。いわば人生を通して、仏さまに叱られ批判される立場に立つ。なにをするにもなにを考えるのも自分中心、煩悩具足、罪悪深重の人間がまっすぐに生きようって思ったら、それしかないのではないですか。ずーっと叱られるのだ、人生の終いまで批判されるのだと考えたら気持ちが暗くなるかもしれません。しかし、だからこそ慈悲があるのです。キリスト教だときっとこれは神の愛と言うのでしょう。決して見捨てないのです。仏さまと言うと、人間をたすけるはたらきですが、どんな人間になっても、仏さまのはたらきはその人間を離れることはありません。仏さまは、まさに我が身となって一緒になってはたらいてくださる苦労して下さる。現世で地獄に落ちるなら、その地獄にだってついて来て下さる。そういうものがある。見ることも触ることも匂いを嗅ぐこともできないけれど、そういう人間を救おうとするはたらきが存在する。それを確信したからこそ親鸞聖人は「教行信証」を著し、「正信偈」を勧められたのです。

 優等生と劣等生、どっちが自由だと思いますか?優等生は褒められるけれども、立ち振る舞いには大きな制限がかかります。立場が大きくなって、自分を生きると言うよりも自分の立場を生きるようになる。それに対して劣等生は自由です。ちょっとでもマシなことをすれば褒めてもらえるし、失う立場も面子もない。どんな自分にだってなることができる。そう考えたら劣等生の人生のほうが、優等生の人生よりも自由でいいなぁと思いますが、そうはならない。なぜなら、人間には自分の存在を認めたい、周りに承認されたいという強力な欲求があるからです。だから、劣等生になると、優等生と比べて自分はダメだなぁ、優秀じゃないから存在価値がないなぁ、と自己嫌悪になって苦しむのです。そうして自分を他人と比べて、自分には価値がないと嫌悪するはたらきが我執です。自分にこだわる心です。その我執の心を破って、人間の思いよりもっと深い、自己存在の立場に帰っておいでと、わが心の底の底から呼びかけるのが弥陀の本願というものです。本願の「本」という字は人間の根っこという意味です。仏さまは人間の存在の根っこからはたらきかけるものなんです。我執は人生をとおしてついてまわります。自分へのこだわりは絶対に無くなったりしません。けれども、だからこそ、仏さまに叱られ、批判されて真っ直ぐに生きるということが起きてくるのです。もちろん慈悲のうちに。

 真宗では「さとり」とは言いません。「信心を獲る」と言います。「さとり」と言ったら煩悩が無くなった、我執を滅したというニュアンスになってしまう。だから「信心」と言います。けれども「信心」はさとったに等しい立場だとも言われる。「信心」は菩薩の歓喜地と同じ意味を持っているのだと親鸞聖人はおっしゃっています。煩悩も我執も残っているけれど、それがわが人生において頼りとするべきものじゃないと覚ったということです。信心とは、仏さまのはたらきに守られ、叱咤されて生活してゆく道に入ったと言うことです。その生活を「正信偈」では、「摂取心光常照護」と、これは自ら体験した人間でないと言えない言葉として表しておられます。いまは「さとり」とは言わない。けれども人生をとおして無限に「さとり」に近づいてゆく生活が開かれたということです。「さとり」というと、立派になるという印象がありますが、人間の世界で言うところの「立派」とは全然質を違えるものです。「さとり」とは偉い人間になることではないのです。自由な人間になることです。業を背負った自分の存在に向き合った、偽りのない純粋な人間になることです。その「さとり」への確実な道が開かれたということが「信心を獲る」ということです。信心歓喜と「無量寿経」にはありますが、これは何が歓喜(うれしい)のかと言ったら、我執を越えたということです。要注意ですが、我執を滅したのでなく越えたのです。我執の正体がわかった。ここにつながる道が念仏、聞法ということです。はじめに「どうしたら?」という言葉を出しましたが、「どうしたら?」は常に願望と我執のセットになっている。だからお念仏のこたえは、『仏法を聞いてゆくことで「どうしたら?」が破れる。』ということです。それを「そのままのすくい」と言います。「どうしたら?たすかる」ではなく、「何一つ変更することなし、ということがすくい」なのです。

 往生というのは難儀して困ることでも、死ぬことでもありません。仏さまに見守られ叱咤される生活が始まるということです。寿命のうちに往生の生活に入れと、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ。」と勧めておいでになるのです。

2019年9月7日土曜日

裏門の法語 1


本念寺の裏門、自動車で境内に出入りする門のところに掲示板があります。真宗のお寺ではたいてい「法語」という「ひとこと仏法」を掲示します。言葉で苦しむ人間だから、「ひとこと」で救われるということがあります。そんな「ひとこと」になればうれしいと、選んだ「ひとこと」の理由についてブログにかくのです。

ひとつめの「法語」は、

「崖っぷち ありがとう!最高だ!」松岡修造さん

 我々は崖っぷちを嫌います。いつも安心して、不安なく生活したいと願っています。けれども何事もないと、「生きているということがわからなくなる」ということがあります。満たされて苦労も何もないけれど、なんだか虚しいということがあります。仏教では短命がダメだとは言いません。苦労したということも大変だけれども、それでもいいと言います。けれども、虚しく過ぎることを恐れます。虚しく過ぎたということは生きた甲斐がなかったということです。病気や食べることができないといった問題は、命が終われば解決するけれども、虚しく過ぎてしまったということは命終わっても解決しないと問題にするのです。そもそも我々が無事に人生を送ることができるかどうかは生まれた場所、時代に左右されます。親鸞聖人の生きられた時代も大変な時代でした。ちょうど同じ時代を生きられた鴨長明が「方丈記」に記していますが、安元の大火、治承の竜巻、養和の飢餓、元暦の地震と大災難がありました。大変な時代に生まれたからたすからない。ではなく、大変な時代のなかにあって、何がほんとうにたすかってゆく道なのかを親鸞聖人は求められたのだと想像します。「崖っぷちだなんてまっぴらごめんだ」と安全、無事に身を置いたところで解決しないものがある。虚しく終わったら生まれなかったのと同じになってしまう。それが我々が生まれた時に受けとった、ひとつの仕事なのではないでしょうか。「人生の目標は何ですか?」と聞かれたら、「仏になること」と答えられた先人がおられますが、それはギャグではなくて、結構シビアな答えだったりするのです。災難、苦労を回避することだけが人生をつくるんじゃない。崖っぷちに立ったことに「ありがとう」と言える。無事がいい、楽がいい、という人間の根性を破ってその瞬間を喜ばせてくれる大事なものが、私たちの人生にはあるのだということを端的に現してくださっている言葉です。

それにしても、さすがスポーツマンですね。臨場感のある言葉です。

2019年9月6日金曜日

手短に仏教

ご法事で「手短に」と言われることがあるので。

 人間は自分でつくった世界を本当だと思いこんで疑わず(妄想)。自分の思いに捉われ、自分で自分を縛り、悪いのはあいつだ、自分が不幸なのはこいつのせいだと他人を責め、願望通りにならない自分自身を自分で裁いて、自分の存在を傷つける。自由と言うが、人間の思う自由は、貪瞋痴の煩悩にうごかされるままのことで、もとが煩悩であるから求めても決して満足することがない。その姿は立場に縛られ、欲望に引きずられて不自由なことこの上ないけれども、人間にはその自分の姿がわからない。それでいつまでも不満を口にする。愚痴を言う。そのうち寿命が尽きて娑婆を去ってゆく。一生のあいだに、一度も自分をそのままで満足することもなく一生を終える。
そもそも自分がどうなるかこうなるかには良いも悪いもない。すべては業による。業こそが自分の存在である。それを嫌うのが妄想だ。人間は妄想して迷い苦しんでいる。業を受けとめられるものになることは仏のはたらきである。妄想を破って真実に出遭えばそのままに自分の業を引きうけるということが出てくる。そこに「何一つ変更することなしに」ということがある。業を受けとめられたということは明るいということだ、なにがあっても明るいということは人間にとって大事なことである。それが仏の御恩である。はじめに御恩があるのではない。自分がたすかってみせて初めて御恩ということが明らかになる。

2019年9月2日月曜日

「教えとは信じるものである、疑ってはいけない。」は深刻な間違い。

 宗教といえば信じることからはじまるというのが普通ですよね、きっと。でも、そんなこと言ったって信じられないですよね。「念仏すればそのままで助かる」とは浄土真宗の教えですが、「南無阿弥陀仏」と念仏してみたところで全くたすかった気持ちにならない、なんにも変わらない。だから「ほんとうなの?」って心が起こる。さて、この「ほんとうなの?」もしくは、「信じられない」という疑心はどうしたらよいのでしょうか。
 まず最初にお釈迦さまは「仏法は信じなくてもいいですよ」とおっしゃいました。「別に信じなくても、そのとおりにしたらはたらきはあります」というのが仏教の基本姿勢です。だから仏教は教(まず、教えがあって)、行(方法、修行があって)、証(証を得る、悟る)と言います。これに信を入れると、教(教えがあって)、信(その教えを信じて)、行(教えの通り修行して)、証(証を得る、悟る)となるかと思います。この、「教行証」、「教信行証」って言葉、見たことありませんか。でも、少し順番が違う。親鸞聖人の著作は「教行信証」。「行」と「信」が入れ替わっている。「教行信証」とは、教(教えがあって)、行(仏法に触れて)、信(仏法への疑いが晴れて)、証(証を獲る、そのままでたすかる)ということです。そうです、疑いはそんなに簡単に晴れない。信じるなんてそんな簡単なものじゃないということが「教行信証」の並びのなかに言われているわけです。また、お釈迦さまが「信じなくてもいい」と言われたように、仏教は信じることを目的としません。浄土真宗は「信心」という言葉を使いますが、「信じなさい」とは一言も言わないのです。「信心」とは仏法への疑いが晴れた心のことを言うのです。



 さて、「疑心」というところにはなしを戻しましょう。「信じる」ことと「疑う」ことは車の両輪のようなもので、ほんとうに信じるには疑うことが不可欠です。信じると言っても、人間は口あたりの良いことに弱くて、物事を深く追求する根性も頼りないですから、すぐに適当なところに落ち着いてしまいます。自分にとって楽で都合のよいものを信じる、いや信じたい。ところが、そうやって落ち着くけれども、それはほんとうに信じるに足りるものではありませんから、結局誤魔化さないといけない。無理を見ないようにしないと保たない。信じたと言っても、ほんとうに落ち着くということができないわけです。その誤魔化した心を破って、より深い真理へと導いて下さるのが疑いの心ではないでしょうか。ほんとうに信じるとは、もはやこれ以上疑うことができない真理だということが明らかになってこそ起こるのです。わたしはこの疑いの心は仏の心だと思います。「そんなんじゃたよりにならんぞ、目を覚ませ」という心の深いところからのはたらきがあって、それを仏性という。人間からしたら面倒なことはしたくないわけです。適当に居心地のよいところを見つけて安住したいわけです。でも、そうさせてくれない。もっと進めという。ゆさぶられて安住できない。そうなれば自分を誤魔化し続けるか、疑いをもってより深く仏法を聞いて行くしかない。そうして仏法(真理)に対する信が深められてゆくということです。
 そもそも信じるなんて、自分の力ではできませんね。「住職を信じてください」と言われたとします。それで「はい、信じます」と言ったところで、疑いの思いはどんどん出てきますよね。「この坊さん自分の都合のよいように私を利用しているんじゃないか」とか、「立派な外面しているけれども中身は意地汚い人間なんじゃないか」とか、まさにその疑いはあたっているんですけどね。「信じます」という心と「疑い」の心が起きてきたら、これは間違いなく疑いの心を大事にした方がいいと思います。だって疑いの心は仏のはたらきですから。でも、疑って終わりにするのは儲け話の勧誘ぐらいしておいたほうがいい。疑ったものがほんとうに疑って終わりでいいのか、それを確かめてゆく仕事があるわけです。自分の家族を信じるか、親友を信じるか、信じるということはつねに確かめるという仕事を伴います。だって、「信じた!」とひとこと言って済むものではありませんから。人間を信じるのは困難ですね。相手は人間ですから。最後は「自分が騙されてもいい」「裏切られてもかまわない」というところに立たなければ、人間を信じることはできないと思います。すなわち損得勘定がある限り人間を信じることができない。何故なら人間は不確実な存在だからです。無常な存在です、めまぐるしく変化してどうなるかわからない。変化が終わるのは命が終わるときです。だから、人間が人間を信じるということは自分可愛さの心、我執を破らなければ成り立ちません。人間を信じるとは、まさに「賭ける」と言ってもいい。
 仏法が信じられない、疑いの心が起きてくる。このとき疑う対象は誰かと言うと、坊さんはもちろんですが、坊さんが真摯に仏法をはなしているのであれば、蓮如上人であり、親鸞聖人であり、七高僧の方々であり。お釈迦さまを疑うということになります。いや、最後はお釈迦さまだからって疑ってはいけないわけじゃないんです。疑いの心は仏性ですから、仏さんが「疑え」とはたらきかけておられるんです。坊さんの話が信用できんと離れてすむものかどうか、親鸞聖人が仰ったことなら、お釈迦さまの教えなら、疑って求めていく価値はあるのではないでしょうか。もちろん、「この坊さん大丈夫か!?」という問題は残るのですけど。


2019年8月22日木曜日

8月22日本日の板書

1週間延びた「正信偈のなかみ」を行いました。雨がちのところご足労いただき有難うございました。講座を開くのも楽とは申しませんが、毎月足を運ぶということもたいへんなことであります。おかげで、住職ひとりポツンということなく6回目を終えることができました。正信偈を聞くために毎回集まっているわけです。まさにサンガ(僧伽)であります。
講座終了後、お風呂にはいって、ご飯を食べて、忘れないうちに本日の板書をつくるのですが、本日は講座とはちょっと表現が変わりました。同じことを申しているのですが2回目は言い方が変わったということです。
人間は煩悩によって業をつくり、煩悩によって自分の存在を苦しむ。人間不幸だから悩みがあるのではなく、生きていること自体に悩みがある(@安田理深)。その凡夫が凡夫のままで、私は存在として凡夫であった、業に動かされて生きているものであったと発見して、人間としての思いを破って、なに一つ改変することなく、立派になる必要もなく、善人になる必要もなく、成功者になる必要など全くなく(なってもいいけど)、そのままで自分自身の存在を喜ぶことができる。凡夫であることをきっかけとして無限に解放されてゆく、自分を取り戻していく生活があると、確信を持って親鸞聖人は我々に「如来如実の言」をすすめておられるわけです。一番のお経「無量寿経」にはだれでも、どんなときでもその道を歩んで生きることができると説かれているのですから、「ほんとかなー」と思ってもかまわないのですけど、仏法を聞いて無上仏になると言うことが我々に機会として与えられているのです。
次回は9月19日。釈迦章のつづき「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」のなかみをお話しします。
無上仏になるとは冗談じゃありません。現実的で大事なことです。

2019年8月21日水曜日

明日22日「正信偈のなかみ」あります。

台風で1週間のびた「正信偈のなかみ」は予定通り明日8月22日19時から本念寺にて行います。

2019年8月14日水曜日

明日、8月15日の「正信偈のなかみ」変更。

 

明日8月15日夜台風10号が北陸地方に接近するため、予定していた「正信偈のなかみ」を1週間後の8月22日19時からに予定変更しました。

みなさん、大事になさってください。

本念寺 住職 飯貝 孝介

2019年8月13日火曜日

今月8月15日の「正信偈のなかみ」

台風10号が8月15日に来ます。北陸地方はちょうど18時から暴風警戒に入るので、8月の「正信偈のなかみ」は日程を変更する可能性があります。台風等はなくても毎回前日にこのブログで日程をお知らせしていますから、14日の夕方にでも一度ご確認いただけると幸いであります。もし、15日が変更になったときは1週間後、8月22日19時から「正信偈のなかみ」をひらくつもりであります。猛暑で台風もやってきますがお大事に。

本念寺 住職


2019年7月18日木曜日

今日の板書

「正信偈のなかみ」もう五回終わりました。はやいものです。本日もご足労いただきありがとうございました。やっぱり沢山来ていただくと支えになります。
本日は、本願と光明、ありがたいものだけど、それが私たちのもとまで道として来ている!それが大事!その道の名が「浄土真宗」というお話をしました。信心という言葉が出ました。わかっているつもりの我が心を頼む世界が破れて、「千歳の暗室」(曇鸞大師)とたとえられる無明の闇に僅かな光が差して、それで外の世界の存在を知る。それがご信心というお話をしました。次回(予定通りなら8月15日19時、本念寺本堂)はいよいよ釈迦章に入ります。

2019年7月17日水曜日

7月18日の「正信偈のなかみ」

明日7月18日の本念寺正信偈講座「正信偈のなかみ」を予定どおり、19時から本念寺本堂にて行います。今回も1時間!

本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

のなかみをします。わたしたちが「たすかる」本願のはたらきは立派なものですが、それはこのわたしのところに来ている!どんな立派なはたらきでもこのわたしのところに来ていなければ人ごとなんです。念仏の浄土真宗というお話をします。

2019年7月16日火曜日

教えはひつようなものか。

 わたしたちが生きているのは日常生活です。そして日常の生活だけなら必ず行き詰まります。苦労に遭えば苦しいと嘆き、苦労が去ってよかったと喜び、再び苦労にあって迷う、それを繰り返しているうちに人生が終わります。それは物事が解決したようで、何も解決しないままに終わるということではないですか。どうして繰り返すだけなのか、解決しないのか。
わたしたちの日常生活は「都合のよいものを取って、都合の悪いものを遠ざける」ことで成り立っています。そんなのあたりまえじゃん、と思われるかもしれませんが、都合のよいものだけ取るわけにはいかない、都合の悪いものも沢山遭うていかねばならないということも動かせない事実です。だから、人間はひじょうに苦しみます。欲しいものが手に入らないと嘆き、手に入っても不安だと言い、自分をばかにしているのかと怒り、あのひとはいいなぁと妬み、具体的に挙げ始めるとキリがありません。これに名前をつけると煩悩といいます。唯識という仏教の学問では、この煩悩は二十種類あると分類されています。煩悩のボンは煩わしいの煩、煩悩のノウは悩ませるの悩、煩わしく悩ませるなんてロクなものではないですけど、これは財産の有る無しに関係なく、社会的地位、名誉に関係なく、健康不健康、老若男女関係なく人間を苦しめるものです。ひと財産築いたら煩悩の苦しみから解放されたなんて、聞いたことないですよね。財産がないときには、そりゃ欲しいと思いますが、財産ができればできたで、泥棒に入られるのではないかとか、財産を失って貧乏な生活になったらどうしようとか、相続のことで親族がモメて困るとか、いろいろ心配や悩みはくっついてきます。名誉を得たら、ちょっと立ちションしたくなったときとか困りますね。酔っ払ってクダ巻いたときに失うものが大きいのは社会的地位のある人間です。そんな財産、名誉、健康、老若、性別に関係なく人間を苦しめるものからどうやったら自由になれるのか、その道を説いてくださったのがお釈迦さまの仏教です。お釈迦さま自身、小国とはいえ身分は王子さまですから、社会的には恵まれた環境におられました。しかし、「わたしたちが社会生活で望み求めるものを全て手にしたとしても、煩悩から生じる苦しみからは自由になれない」というお釈迦さまご自身の問題をもって出家なさったのです。そして、そのお釈迦さまの仏教の流れをうけて、親鸞聖人のお念仏の教えがあります。
お念仏とは、阿弥陀如来という名の法則を私の依どころとすることです。わたしたちは普段気がつくことさえありませんが、誰でもどんな人でも「わたしがルール」って思って生活しています。その「わたしがルール」の心を翻して(廻心)、仏法にわたしの煩悩いっぱいの生活を照らし出されて生活してゆくことが、たすかった(信心を得た)ことだいいます。ところが、私には「自我」という強力なこだわりがありますから、自分のちからでもって阿弥陀如来ひとつを依どころとすることなんてとてもできません。「わたしがルール」を翻すことができないのです。だから「南無」があたまにつきます。「南無」とはナモ、「まかせよ」という呼びかけです。浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来と言われますが、厳密には「南無阿弥陀仏」が御本尊です。自分で思いこだわっている自分(自我)を離れて、生きているそのままの自分(自己)に帰れば、喜んで苦労できる生活がそこにあるのだと、だからそこへ帰りなさいという仏さまからの呼びかけです。言葉を変えれば、「我執を破って本来のいのちのはらたきに帰れ」という願いが南無阿弥陀仏という言葉になっているのです。その仏さまの願いに応えることで開かれる精神生活を往生といいます。繰り返すこと、堂々巡りすることなく、一歩一歩、仏法にわたしの生活を照らされて、知らされて生きてゆく生活ということです。じつは、煩悩はなくなったりしません。煩悩の代表、三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)のうち、貪欲、瞋恚は一生おつきあいすることになります。けれどもその貪欲、瞋恚が「わたしがルール」というところから生じているのだということがわかればいい。三毒の三つめ愚痴が破れれば、苦しみはあっても惑わされることはない生活がはじまる。それで煩悩の苦しみから自由になることができると、お釈迦さまの説かれた「無量寿経」を基として教えられてます。それを「そのままでたすかる」と言います。「都合よくなる」ということが生活において大した問題でなくなる。そんな生活であります。どんなに人生調子よく行っても、「挫折したらどうしよう、今はいいけれど将来はどうなのか」と考えると不安から自由になることはありません。一方で、「来るならおいで」と姿勢が座れば、それほど心強いことはないのではないでしょうか。

2019年6月20日木曜日

本日の板書

本日もたくさんご足労いただきありがとうございます。もう4ヶ月がすみました。「正信偈のなかみ」は36回3年間を予定としますが、依経分だけなら12回1年間で完了です。と、いうことは早くも1/3が終わったことになります。
本日はタブレット板書でなかったので講義ノートと記憶(覚えているうちに)をたよりに板書を作成しました。
十二光では、「いつでも、どこでも、どんなときでも(どんなひとでも)」たすかることがお念仏の大事な特徴。「阿弥陀さん一仏で大丈夫」「煩悩はいらんものだけれども清浄、歓喜、智慧の因となる」「仏法を何故だか聞いてしまうのも仏のしごと」「仏の本質はわからん、とらえようがない」「ほんとうの世界は我々の目に見たものを超えたもっと豊かなもの」ということが表されています。あっ、数行で済んでしまいましたね。住職が1時間も喋ったのはなんだったのでしょう。

2019年6月19日水曜日

明日20日予定どおり

「正信偈のなかみ」明日6月20日夜7時予定通り行います。
今回は羽咋幼稚園バザー準備のため本念寺本堂で行います。

2019年5月16日木曜日

三回目おわり。

正信偈講座「正信偈のなかみ」三回目が終わりました。本日も三十余名のご参加ありがとうございました。三回目にして正信偈前半(依経分)の内容にはいりました。予定にあわせて毎回1時間でもって確実に進んでゆきたいと思います。それでは本日の板書を手直しと加筆を加えて掲載します。

 次回は6月20日、羽咋幼稚園バザー準備の関係もあって、本念寺本堂で行います。

普放無量無邊光 無碍無對光炎王

清淨歡喜智慧光 不斷難思無稱光

超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

をやります。

2019年5月15日水曜日

三回目、予定通りやります。

正信偈講座「正信偈のなかみ」は明日5月16日19時より本念寺で予定どおり行います。今回は、

法藏菩薩因位時 在世自在王佛所
覩見諸佛淨土因 國土人天之善惡
建立無上殊勝願 超發希有大弘誓
五劫思惟之攝受 重誓名聲聞十方

のところです。「無量寿経」、本願について説かれているところです。

2019年5月10日金曜日

仏法は難しい。

「仏法は難しい」と言います。その通りです。わたしも、ちんぷんかんぷんな本を沢山かかえています。でも、それはほんとうに難しいということでしょうか。それは言葉として難解なのではなく、私たちの考えと全く異なるから、根本的に理解に苦しむということではないでしょうか。
私たちは努力と発展を基として生活しています。努力すれば発展する、発展すれば報われる、これは人間社会を動かしてゆくためには有効な考えですが、根本的に「人間の都合のよい様にする」というものですから、「都合のよい様にならなかったらどうする」という事象については、全くフォローされません。努力して都合よくならないときは、我慢するか人生を嘆くか、どちらもあまりいい受け取りかたではありませんね。
仏法は「都合どおりになって解決するなんて、ごまかしである」という立場で人間の人生を見ます。「都合よくしてはいけない」ということではありません。「都合よくしてもかまわないけど、根本的な問題は解決しない」というのです。たしかに努力しても都合よくできないことは沢山あります。老死なんてまさに都合よくないけれども、誰もが直面していく問題です。一方、都合よくなれば問題ないかというと、べつに都合よくなったからといって「これで満足」とか、あまり感じることもないですね。あるのは更に求めてしまうという状態なのではないでしょうか。貯金はどこまでしても十分だとは思えない。楽しいことも、もっと、もっと、ばかりできりがない。綺麗になれば劣化する心配が出てくる。やっぱりいいことだけじゃない、ややこしい。この人間社会のことを娑婆と言いますね。サンスクリット語の「サハー」の音写が娑婆です。サハーを翻訳すると忍土、耐え忍ばなければならない世界という意味です。「娑婆の空気は美味い」なんて台詞がありますが、使い方をまったく誤っていますね。
このように、仏法はなんでも都合よくするための教えではありません。苦労はするし、病気にもなる。収入は、頑張りしだい、縁しだい。時がたてば老いるし、老いればいろいろ都合が悪くなるし、そのうち娑婆ともサヨナラするし、という人間の生活は何も変わらない。けれども変化はある。仏法に遭えば生活の質が変わる。どういうふうに変わるのかと言えば、苦労はするけど苦労でなくなる。夢とか目標とか言って求めていたものよりももっと大事なものを発見できる。人間が普段求めている「都合のよい生活」とはまったく違った世界をひらいてくるのが仏法です。これは言うならば人間理性の否定です。「仏となるために一切の努力を要求しない」のがお念仏の道ですから、理解して、実行して、上手くやって、という考えからは、とうてい受け入れることのできないものがあります。これが仏法の難しさのいちばんの原因ではないでしょうか。仏法は「道」であります。仏道なんていいます。人間には受け入れがたい教えだけれども、道はこの私たちのもとにまで来ています。親鸞聖人は「聞思」とおっしゃいました。仏法を「聞いて」仏法を生活に「思って」、それを繰り返してゆけば業になる。人間をほんとうに動かすものは業です。業を重ねてゆけば、気が熟すればひらける。生活が変わる。間違いなしに仏となれる不退転の生活をはじめられる。と、言うわけで、わからんなりにも重ねることが大事ということでないでしょうか。わたしも実感としてあります。10年前にちんぷんかんぷんだったことがここに来て受け取れるようになった気がしてます。大事なのは継続的な努力ではありません。「願い」だそうです。仏法を聞きながら寝ちゃってもちゃんとはたらくんだそうです。

2019年4月18日木曜日

正信偈のなかみ二回目の板書

正信偈のなかみ二回目の板書に追記してアップします。
今晩もたくさんおいでいただきありがとうございました。おかげでやる気が発生します。聞いていただけると言うことが法話することのご褒美であります。
住職

2019年4月17日水曜日

正信偈講座二回目、予定どおりに行います。

4月18日木曜日の「正信偈のなかみ」は予定どおり夜7時から本念寺で行います。毎回確認していただいてすみません。

お経のなかみ

お経には、長生きするとか、病気を治すとか、成功するとか、偉い人間になるとか、そういうことは全く書いてありません。書いてあるのは苦労だらけ、思い通りにいかないことだらけの「この人生」をいかに生きたらよいかという心のありかたです。これを「度す」、「わたす」と言います。「どうしたらいいですか?」という問いに親鸞聖人のお師匠さま法然上人は「ただ念仏」とお答えになりました。「ただ念仏」って、「?」ではないですか。けれどもそこから仏法を求めるという生活が始まるわけです。
長生きしても、短命でも、人間社会で成功してもしなくても、健康でも不健康でも、そういう人間の価値を突き抜けて「他と取り替えできないこの私を生きる」ということに着地することが仏法のご利益だと考えます。これは決して妥協するというのではありません。仏教では「諦める」といいますが、これは通常わたしたちが使う悪い意味ではなく、明らかにみる、自分を本当に覚って惑わず迷わずに生きるということです。私たち人間は自分に夢をみています。夢をみて、おまけに人生に注文をつけて生活しています。そして、注文どおりでなかった人生を嘆き苦しみます。その夢から覚ましてくださるのが仏さまのはたらきです。仏法という法に出遭ってこれまでを越えた生活が始まるのです。だから、快不快、損得にこだわってどうにもこうにもならない、自分を失って生活している状態から脱出することがお経のなかみであるわけです。

明日の「正信偈のなかみ」第二回目は「帰命無量寿如来、南無不可思議光」をお話しします。

2019年3月22日金曜日

正信偈講座「正信偈のなかみ」一回目終了。

昨日「正信偈のなかみ」第一回目をしました。50名ほどおいでになってびっくりした、ありがたかったです。予想して余分にみて用意した配布物が40セットでしたので、追加の印刷でいろいろお手伝いいただきました。

一回目で聞いていただきたかったのは、正信偈は親鸞聖人が自ら「たすかった!」「人生を生き抜くこの上ないものにあった!」という事実のうえに歌われた偈(仏教での歌のこと)です。内容を知っているとお得な面もあるかと思いますが、究極的には損得を越えた、人生を全うする生活にはいる門であります。「なんで生まれてきたのだろう」「最後は死ぬのにどうして生きなければならないのだろう」「幸せとはどういうことなのだろう」という現代人の問いも受け止める法について説かれているものが、この正信偈という歌です。正信偈のなかみはこの上なく圧縮されているので、一句一句に込められた教えを解凍するとびっくりするくらい大きくなります。だから、3年間かけてやりますと申しました。それから、19時にはじまって20時にはかならず終えますと誓いました。
「正信偈のなかみ」は一回目から連続して聞いていないとわからない講座ではありません。また、全部出るというのも励みになりますが、同時に大変なところも出てくると思いますから、出れるときに聞きにきていただくくらいが丁度よいのではないかと思います。

まずは、一回目、講座に出席くださったかたがたへのお礼をもって投稿を終えます。

住職

2019年3月20日水曜日

正信偈講座

明日、3月21日の本念寺 正信偈講座「正信偈のなかみ」は予定どおり19時から本念寺で行います。住職

2019年3月14日木曜日

正信偈のなかみ御案内

真宗大谷派 北方山 本念寺 

やさしい正信偈講座

「正信偈のなかみ」のご案内。

平成三十一年、三月二十一日木曜日 晩七時から 本念寺にて正信偈講座をします。
これから、毎月第三木曜日の晩七時、毎回一時間を目処に、三年間、三十六回で正信偈の内容、「帰命無量寿如来」から「唯可信斯高僧説」まで正信偈の内容に触れてゆくことを目標にします。講師は本念寺住職がつとめます。やさしいとつけましたので、わかりやすさには気をつけます。

正信偈とは、
六十行百二十句の歌で、浄土真宗の宗祖親鸞聖人のお書きになった歌です。
最初の二句は「正信偈」全体にたいする親鸞聖人のお心が表明されているところです。総讃といいます。そして三句目「覩見諸仏浄土因」から四十四句目「難中之難無過斯」までを依経分と言って、お経(お釈迦さまが説かれた教え)から内容をひいております。四十五句目「印度西天之論家」からを依釈分と言います。念仏の教えが誰にでも・いつでも・どこででも歩むことのできる仏道であるということを、インド・中国・日本の七人の高僧が確かめられてきたという内容が歌われています。

正信偈のなかみに触れるとどんなことがあるのか。
他人にどう思われるか気になって仕方のない人には、外聞があまり気にならん生活が開かれる。人と比べて、すぐに有頂天になったり、自己卑下して嫌になる人には、比べる必要のない生活が開かれる。苦労は嫌だ楽がいいと逃げ回った人には、逃げんでいい生活が開かれる。思い通りにならない人生を、思い通りにならないそのままで喜んで受け取る生活が開かれる。生きている甲斐がない、虚しいということのない生活が開かれる。いまここに、このままで、自分が百八十度転回することで、新しい生活が開かれる。それが親鸞聖人がお説きくださった仏法の利益です。この正信偈をとおして、仏法にふれる会として、この「正信偈のなかみ」を催します。

興味のあるかた。若いかたもお年を召したかたも、忙しいかたも時間のあるかたも、この機会に「正信偈のなかみ」に触れてください。初回から参加できるチャンスは一度だけです。

平成三十一年二月十五日 本念寺 住職 飯貝 孝介

現在予定している日程では、三月二十一日、四月十八あ日、五月十六日、六月二十日、七月十八日、八月十五日、九月十九日、十月十七日、十一月二十一日、十二月十九日になります。日程の変更はインターネットの「はくい 本念寺 イイガイさんのブログ」(http://iigai3.blogspot.com/)にあげますので、前日か当日ご確認ください。お葬式がでると日程が変更になります。確率としてはそれほど高くありませんが、念のためインターネットで確認できるようにします。本念寺にお電話いただいても確認できます(0767-22-0355)。

2019年3月13日水曜日

やさしい正信偈講座 本念寺で。

正信偈のなかみというタイトルの正信偈講座を、毎月第3木曜日19時から行います。毎回1時間をめどに、3年間全36回で全部終えることを目標にします。予定の変更はこのブログページで前日を目処におしらせします。第3木曜19時がお通夜等と重なった月は第4木曜19時に変更することをきほんとします。第1回目は2019年3月21日木曜日です。