2020年12月17日木曜日

本日の板書



 本日の冒頭でお話ししたとおり、あともう一回天親菩薩のところをやります。なんだか今日のお話で全部終わった感もあるのですが、ちょっと天親菩薩の「十地経論」のお話がまるまる残っているのです。2月に曇鸞大師の一回目と二回目をまとめてできそうなので遅れたりはしません。本日は寒い中ご足労いただきありがとうございました。たくさんお集まりになられるので心は寒くないです。
 

2020年12月16日水曜日

明日、12月17日の「正信偈のなかみ」あります。

  明日。12月17日の「正信偈のなかみ」19時より本念寺大座敷であります。寒くなりましたので暖かくしておいで下さい。マスク着用、手アルコール消毒でご参加ください。

 天親菩薩のところ、完了するのですが内容がかなりあります。一方来年1月の曇鸞大師のところ、内容的に余裕があるので、12月17日と1月21日にかけて明日の内容をお話しすることになるかもしれません。明日の範囲は、
「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
 得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
 遊煩悩林現神通 入生死薗示応化」
のところであります。

住職

2020年11月19日木曜日

本日の板書





 本日のポイントは「信心」。それと「他力」ということです。お話しするほうにちからが入って、板書をあまりしませんでした。だから、覚えているうちに思いだして「本日の板書」を書きました。都会では新型コロナの流行が拡大しています。来月12月の「正信偈のなかみ」はどうしようかと思います。いちおう行う予定にしておいて、無理そうならなるべくはやく判断してこのページでお知らせします。

住職

本日、11月19日の「正信偈のなかみ」あります。

 本日、11月19日の「正信偈のなかみ」は19時から、本念寺大座敷であります。天親菩薩のところ二回目になります。信心ということについて大事なところが明らかになります。マスク着用と手の消毒をしてご参加下さい。

お知らせがぎりぎりになりました、ごめんなさい。 

本念寺 住職

2020年10月15日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書

 

 
予定どおりにすすめば、10月、11月、12月で天親菩薩のところをします。今日はその1回目でした。天親菩薩のいちばんのお仕事は何と言っても「浄土論」という無量寿経の論を造ったことだというはじまりでした。次回、その「浄土論」がいちばんの仕事をしたところをやります。おたのしみに。

2020年10月14日水曜日

明日10月15日の「正信偈のなかみ」あります。

 明日10月15日木曜日の「正信偈のなかみ」を19時より本念寺大座敷で予定どおり行います。県内の新型コロナ感染は落ち着いているようですが、マスク着用と手の消毒をしてご参加下さい。会場が本堂から大座敷に移りますが、椅子は間隔をあけて配置します。

浄土真宗の七高僧、龍樹菩薩を前回終えました。今回から3回、天親菩薩の部分をお話ししてゆきます。

2020年9月18日金曜日

昨夜の板書

 いつもは「本日の板書」なんですが、昨日はまとめている最中に寝落ちしました。なので、昨夜の板書になります。






 

 七高僧のはじめ、龍樹菩薩のところが終わりました。すこし寂しいですが、つぎは天親菩薩にはいります。「正信偈のなかみ」も現在のようなアルコール消毒、マスク着用、間隔あける、換気するであれば継続可能と考えております。でも、ほんとうに深刻な状況になったらお休みしますので、このブログを見る、もしくは本念寺に電話して確認してください。

大雨のなかご足労いただきありがとうございました。

2020年9月16日水曜日

明日9月17日の「正信偈のなかみ」あります。

 明日9月17日木曜日の「正信偈のなかみ」を予定どおり行います。

晩の7時から、本念寺本堂にて、入り口にアルコール消毒液を置きます。マスク着用で参加ください。

本念寺 住職

2020年8月20日木曜日

本日の板書

 

 本日は猛暑の中ご足労いただきありがとうございました。人間は意味を求める生き物です。わたくし住職も、誰も来ない講座なら心が折れてできないわけです。「正信偈のなかみ」は始めて二年目になりました。4ヶ月コロナでお休みもしました。前回、今回と行うことができました。でも、来月は今のところ雲行きがあやしいです。やわらかくすすめたいと思います。休むときは休む。できるときはやる。頑なは折れるといいます。ですからフニャフニャが理想です。コロナの合間をぬって一回一回を進めたいと思います。中身にふれると正信偈はあげるときにも生き生きとしてきます。
それにしても、今回は内容がたくさんでありました。

2020年8月19日水曜日

明日8月20日の「正信偈のなかみ」予定どおりあります。

 明日8月20日木曜日の「正信偈のなかみ」は予定どおり晩の7時から、本念寺本堂にて行います。席は空間を開けました。皆さんマスク着用で参加をお願いします。

本念寺 住職

2020年7月16日木曜日

本日の板書


  新型コロナウィルス感染予防のため4ヶ月間おやすみした正信偈講座を再開しました。まだまだ、新型コロナ流行によって開催は左右されますが、さいわいやってはいけないこととできることがわかってきました。大事なのはソーシャルディスタンスと換気の確保です。できるだけ安全を確保して「正信偈のなかみ」を継続したいと考えております。
 今日はひさしぶりの講座、休止まで来られていた方々のお顔をふたたび拝見して、開催できるというありがたさを感じました。コロナ前のなんでもあたりまえだったときとは大きな違いです。 思わずコロナウィルスに感謝しそうになりました。いや、こういうことでもなければわからないのですね。あたりまえがあたりまえでないことを。 
住職

2020年7月15日水曜日

明日7月16日の「正信偈のなかみ」は行います。

 4カ月間お休みしました「正信偈のなかみ」を明日再開します。19時から本念寺御堂にて、20時終了で行います。今後、新型コロナの流行状況をみながら、感染予防に気をつけて継続したいと考えています。参加のかたはマスクの着用をお願いします。

 2月で正信偈の前段「依経分」が終わりました。ようやく後段「依釈分」に入って、7人の高僧を通してお念仏の道が確かであることを明かしてゆきます。

本念寺 住職

2020年7月11日土曜日

7月16日、「正信偈のなかみ」再開よてい。

 3月からおやすみしていました「正信偈のなかみ」を7月16日(木)の回から再開したいと考えております。時間は19時、本念寺本堂にて行います。ソーシャルディスタンスと換気に注意してします。参加のかたはマスクの持参をお願いします。
あらためて7月15日夕方に「正信偈のなかみ」の実施についてお知らせします。ご確認ください。

本念寺 住職

2020年6月16日火曜日

「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い。その三

普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

 前回「法蔵菩薩因位時 ~ 重誓名声聞十方」のところでは本願が説かれています。本願というのは仏が仏になるためにたてた願いです。まず、本願という願いがあって光明ということが出てきます。光明とは本願によって開かれるはたらきです。親鸞聖人は、「教行信証」の後序に「心を弘誓の仏地に樹て」とおっしゃっていますが、我々はふつう心を自分の思いにたてています。何が良くて何が悪いのか、それを自分視点とこだわりのうえにたてています。そんなのあたりまえ、では済まないです。自分の思いというのは個人の思いにすぎないのです、他人は他人の思いになる。だから人間どうしぶつかることになります。人間界ではぶつかったときに喧嘩して、勝ったほうが思いを通すということになりますが、それで全て丸く収まることはありません。負けたほうには恨みが残ります。「いまにみておれ」ということが残ります。そんなことですから、我々は争いの終わらない生活をすることになるのです。もうひとつ、人間は無常です。無常というのは無情とちがう、常に変化を続けて定まることがないというものです。社会的には、去年の自分の言動に責任が伴いますが、仏教世界でみれば去年のわたしと今のわたしは別人です。きっと、ものの見方とか、こだわりとか、微妙に変化しているはずです。そんな定まることのないもののうえに心をたてているのですから、右往左往するわけです。結婚するときに「一生大事にするから」と言って結婚したら、後で「大事にするの忘れてるじゃないか」と言われます。いや、そう言われても困るのです。結婚するときは本気でそう思ったんです。でも、現在のわたしはそうではないですから、そこを「大事にする」と無理をすると、またいろいろとストレスが出てきます。はなしが伸びましたが、我々は自分の思いに心をたてていたけれども、これがなかなか難儀なことであったと。過去の人格に囚われ縛られ自ら窮屈で視野の狭い生活に入ってゆくわけですから、苦しくなってあたりまえなのです。一方で、本願は変わらないものです。お釈迦さまが発見してもう二千五百年たったけど、生活の形もすごーく便利に変化しましたけど、本願の重みは全く変わらないものです。その本願に心を樹てたら生活が変わるということです。どう変わるかというと、安定します。心を変わらないものに樹てるのですから、その時々で右往左往するということがない。自分というこだわりからも解放されますから明るくなります。そして物事がよく見えるようになる。それまでは自分視点とこだわりを基に、ほかにも損するとか得するとか縛られて、結果窮屈なものにしか見えなかった世界が広く明るいものに変化する。ということです。
本願に立つならば、我々の一切の生活は光に満ちている。それで光明というのです。その光明を、広い明るいというだけでは漠然として要領を得ませんから、十二の光として具体的に示されているのです。その十二の光明とは、無量光 無辺光 無碍光 無対光 炎王光 清浄光 歓喜光 智慧光 不断光 難思光 無称光 超日月光になります。

無量光 無辺光 無碍光
 「無量寿経」では十二光としてあげられているけど「阿弥陀経」であげられているのはこの三つです。阿弥陀経のなかでお釈迦さまが「かの仏を何のゆえぞ阿弥陀と号する」と自分で問い、そして自分で答えられています。「かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし。このゆえに号して阿弥陀とす」。阿弥陀如来が阿弥陀と名乗る所以として無量光、無辺光、無碍光が出てきます。
 無量とはいつでも照らすということ、無辺とはどこでも照らすということ、無碍とはどんなことがあっても照らすということ、言い換えたらどんな人間でも照らすということ。その「いつでも、どこでも、どんなことがあっても」ということで阿弥陀という名乗りがなされている。これは、当然このわたしも照らされるなかに入りますね。でも、そこに「わたしは全然照らされている感じがしない」という思いが出てくるのではないでしょうか。同じことを思ったお念仏の先輩がいらっしゃいます。中国の曇鸞大師は「それでも、その光に照らされていないものがいるのはどうしてか?」と「論注」という著書で問いをたてられています。大事なのは、これは曇鸞大師ご本人の実感だということです。曇鸞大師は照らされているけど、あいつは照らされていないということではないのです。曇鸞大師ご本人が照らされていないという気持ちになったということです。なんだか曇鸞大師が身近に感じられませんか。そして曇鸞大師はこの問いに自ら答えておられます。「障りは人間のほうにあるのだ、光に障りがあるのでない」と。これは人間は光がわからない、光に気がつかないということです。喩えとして「どんな激しい雨が降ろうとも、頑石には染み込まない」という喩えを出しておいでになります。ここで頑石という表現が面白いですね。頑に頑張っているのです。頑張っているからせっかくの雨も入ってこない。我が身を指された気持ちがします。「観無量寿経」には「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」とあります。念仏の衆生というのがポイントです。念仏がなければ光明がわからないのです。念仏とは南無阿弥陀仏をいただくということです。南無阿弥陀仏をいただくと自分がわかります。それまでは、自分の思いでもって自分をわかったつもりになっていたのです。それが自分という存在の真実が、南無阿弥陀仏をとおしてわかるというのです。自分を知らないのを愚痴と言います。自分がわからないということは、もう何を与えられても満足できないということです。人生不足ばかりです。自分がわかってはじめて「ありがたい」と言える。我々からすると念仏して初めて無量光、無辺光、無碍光が自分に実現するのです。「念仏したらたすかる」これをハッキリとおっしゃってくださったのは中国の善導大師です。それではいつ念仏するのか、これは親鸞聖人が答えておいでになります。
「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」(歎異抄 第一条)
「念仏もうさんと思いたつこころのおこるとき」がそのときです。そして、光明がいただけたときにそれはどういう形になってくるのか、これも大事です。これは曇鸞大師が「論註」にあらわしておられます。
「その光、事を曜(てら)すに、すなわち表裏に暎徹す。その光、心を曜すに、すなわち終に無明を尽くす。」「その光」とは光明のことです。仏の光です。親鸞聖人はこの仏の光を「心光」とおっしゃいました。心光は何かというと、この心光にたいして「色光」というのがあります。これは我々が日常見ている光です、色とは物質のことです。太陽光も月の光も、電気の光も蝋燭の明かりも色光です。色光は事柄の表側だけを照らす、まさに我々は日頃事柄の色形だけみて生活しているのです。それにたいして心光は事柄自体を照らします。そのことが起こった背景まで含めて照らす、それが心光です。事柄がおこってくる、腹たつとか損しただとか、得したとか悔しいとか、そんな事柄が心に起こってきます。心に起こるには必ず原因があります。心光はその原因まで照らして、事柄が自分の心の迷いから起きてきたことを知らせてくれます。「終に無明を尽くす。」とありますが、無明とは、自分がわからないということです。自分をわからないから事柄にとらわれる。そして心光はそこを照らしてくださる。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるではないですか。幽霊だと思っていたものの正体は枯れたススキの穂だったということですが、ススキだとわからないうちはほんとうに怖いのです。我々を恐ろしいと感じさせるものは実は自分の心です。幽霊でもススキでもありません。だから怖いと見えれば枯れススキでもほんとうに恐ろしい。正信偈で後に「摂取心光常照護」とでてきます、自分の心でなにが起こっているかわかれば、自分の心から護られるということです。お念仏をとおしてわたしの心に仏の光が宿る。仏の光が宿っておれば迷いはじめたときに「迷っておった」と知らせていただける。それが常に照らし護ってくださるということです。我々の心は損が嫌いで得が好き、苦労が嫌で楽が欲しい、自分さえよければ他人はどうでもいい、というものだと思っています。けれども、それよりもっと深いところに、意味のあることなら損してもいいという心がある。やりがいのあることなら苦労してもかまわない、自分だけでなく皆一緒にという心があるのではないですか。親鸞聖人はこの深い心を仏性とおっしゃいました。「仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり」(唯信鈔文意)と聖人は書かれています。如来は遠いところにあるのではない。生きて働く如来は我々の心の、欲望とか煩悩とかそういうものの、より深いところにあって、私を促し、私を揺さぶって、常に働いておられる。常に「自分に帰れ」と私を促しておられる、ということです。これを招喚と言います。招喚とは自分の内から働いてくるはたらきです。外から「来い」ときたら危険です。人間の迷いを深める教えは外から「来い」とはたらきます。外から聞こえるのは「行け」という言葉のはずです。これはお釈迦さまの教法、お経のことです。自分の外にお経があり「行け」と背中を押す。自分の内に召喚がある「自分に帰れ」と呼ぶ。お念仏をとおして「自分に帰る」ことを実現するわけです。我々が、自分の心のもっとも深いところにある真の願いに目覚めるなら、生活の全体はなにもかも生きて来る、明るく広いものになるということです。それが本願の功徳、光明であります。そうして本願によって開かれる生活を三昧と言います。
 浄土の人々は「禅三昧を食とす」 浄土論 天親菩薩
食とは身を保つもの、生命を保つものです。禅三昧というのはひとつの精神生活です。我々がふつう持っているのは日常生活です。日常生活というのは用事に追われて自分を忘れ、用事が済んでテレビの前に座ったら番組に心をうばわれて自分を忘れ、時間がきたら眠たくなって自分がなくなるという生活のことです。その繰り返しのあいだに子育てして家を建てて定年になってと、いろいろなことが済んでゆくわけですが、たくさん用事を済ましたわりに自分はなにも育たない、変化しない。この日常生活というのは人間を育てないのです。日常生活の中で長年苦労したということもあるけれども、日常生活の苦労だけなら長けただけ。歳とっても結局若いときと同じことを考えている。人間を育てるのは精神生活、三昧のほうです。自分に帰り、自分というものを問う生活です。この三昧は、なくてもべつにかまわないというものではありません。たまにお母さんの人生相談とかでありますね。家を保って子育てして、私の人生何だったんだろうという話です。きっと家を保つのも子育てもそれなりにいってるんです、特別不満なことがあるわけでない。ところがそれで済まないものがある。これは大事なことです。このままではいかん、人生を求めようということです。それで仕事をはじめたり、習いごとをはじめたりとなりますが、これはほんとうは三昧を必要としているのです。自分の人生に満足や意味を求めているのですから、手っ取り早いのは聞法の場に行くことです。「人生に何か足りない」というときは仏さんがはたらいているのです。「それで満足できるのか」とはたらいておられる。大抵はそれで旅行行ったりするんですけど、きっとそれでも落ち着かないものがあると思います。そうなったら自分を問うほかにないです。お父さんもそうですね、「オレの人生何だったんだ」は日常生活だけでは不十分だとはたらきかけられているということです。
 それから、人間世界はなかなかキレイごとだけでは渡っていけないということがあります。正しく生活してゆきたいのだけれどもできない。能力的にも立場的にも理想的にふるまえないということがある。これも精神生活なしではやっていけないでしょう。人間は理想をあきらめると生命力がはげしく消耗します。いっぽうで理想を頑張ったらその場所に居られないということもある。たいていはどちらか一方に落ちるのですが、ここに三昧を持つことによって生活を保ってゆくということがある。日本に仏教を輸入された聖徳太子は政治家でありました。太子はひじょうに誠実なかたですが、政治はきれいごとだけでは済まない世界ですから、朝廷にあるときは自分を投げ出さざるおえないものがあったのではないでしょうか。それをようやく取り戻されたのが夢殿です。あの夢殿がなければ太子は生きてゆけなかったのではないでしょうか。そういうことで三昧、精神生活ということは人間にとってなくてはならないものということになります。
 人によってはいいこと言うひとがいますね。生活を深くみておられて、それで味わい深いことをおっしゃる。これは三昧がなければそんな人は出来上がりません。そんなひとのことを魅力的な人だと思うのではないですか。一方で、借りてきた言葉で話す人間には魅力がないです。それはきっと、人間として独立していないのです。知識があっても地位があっても独立していない人間は肩書をたよりにします。知識の量で相手を圧倒しようとします。「へー、なるほどー」とは思いますがそれだけです。人格ということがありますが、格があがるのは深さによってあがるのですね。そういう人間をつくるのが精神生活というものだと思います。三昧がなければ百年生きても自分というものがないのです。見たもの、聞いたこと、考えたことに振り回されて、それで生涯が終わってゆく。親鸞聖人は念仏三昧という三昧を我々に教えてくださいました。念仏三昧とは南無阿弥陀仏と沢山唱えることではありません。お念仏は仏に自分を問われる、自分自身が自分を問うてゆくということです。そのような時間を一月のあいだに一時間でも持つということが大事です。

無対光 炎王光
 無対光は比べるものがないということ。阿弥陀仏の光明に照らされたものは他のどんな菩薩の智慧よりも優れた智慧が与えられると言うことです。「一切諸仏の智慧をあつめたまえる御かたちなり」(唯信鈔文意)と親鸞聖人はおっしゃいます。阿弥陀仏は諸仏の智慧の全部を集めて身につけておいでになるということです。その諸仏も阿弥陀如来によって生まれた仏です。それで仏を仏にする仏ということで炎王光という。ですから、あちらの仏、こちらの仏と迷う必要がない、安心して念仏の道を歩めと言うことだと思います。この二つが対になっています。

清浄光 歓喜光 智慧光
 この三つもセットです。清浄光、歓喜光、智慧光というのは結果です。結果にはもとがあります。「教行信証」の総序の文に「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」とあります。「円融至徳の嘉号」とは南無阿弥陀仏のことで、南無阿弥陀仏によって悪が消えるのではない、悪が転じて徳になるのだと言われるのです。
「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」(高僧和讃)
というのを聞いたことはありませんか。障り(往生の妨げ)全体が転じて徳になる。これがお念仏なのです。清浄光、歓喜光、智慧光になる障りとは煩悩です。煩悩と言ったら百八つと言いますが、代表的なものにまとめたら三つになります。貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の三つ、まとめて三毒といわれるものです。貪欲はむさぼりの心、欲深いということです。欲深くなると人間はいやしく汚くなります。その貪欲を起こしたことを縁として、ろくでもない心を起こしていたとわかったときに、貪欲が清浄に転ずるのです。貪欲がなければ清浄も出てきません。人間は貪欲を起こしてしまうものですけど、その度に知らせていただく。それが清浄光のはたらきです。瞋恚は怒りということです。怒りはどこから生じてくるかというと、自分を知らないというところから生じてきます。どう自分を知らないかというと、自分は正しいと考えている。それから、自分はそれなりに賢いと考えている。そんな自分のこと賢いだなんて思っている人はおりませんよと言われるかもしれません。そういうときは、ちょっと「おまえ、本当に頭わるいな。」と言ってみてください。みんなカンカンになって怒るか、ムッとした顔になりますから。愚かというのは知識がないということを言うのではないです。自分がわからない人間を愚かと言うのです。人間は無根拠に自分は正しいと思っているのです。そこに根拠がないということがわからない。だから人と意見が違えば腹がたちます。喧嘩して自分の意見を通したくなります。外国から入ってビジネスでいわれるものにディベートというのがありますね。ディベートとは、相手を説得する技術です。不毛なことをすると思います。ディベートの結果は相手を屈服させるか、相手を洗脳するかくらいです。人間がそんなことしたらとんでもない業が残ります。短期的には勝利者になっても長期的には起こした業でがんじがらめになって壊れます。仏教で言う因果律とはそういうものです。他人と話をするなら、自分も相手も立場を離れて意見をつきあわせることです。勝たなくともいい。理想的な学会というものはそういうものだと聞いています。そうやって意見を交わすことで生産的な実りを得るのです。話がそれましたが、自分に根拠がないと知れば腹立てる理由もなくなります。怒りということは、怒りという感情にグルグル巻きに縛られることですから、自分を知って怒りが溶かされたところに開放感がやってきます。それで歓喜光という。最後は愚痴、実はこの愚痴が全ての煩悩のもとになります。内容は、ほんとうを知らないということ。そして、自分を知らず、それどころかよく知っていると勘違いしていること。親鸞聖人は自ら愚禿親鸞とおっしゃいます。愚かで髪の毛も中途半端、坊さんとして剃っているでなし、在家として生えそろっているでなしということです。親鸞聖人はこれを名乗りとされた。名乗りとはそれを看板にして生活してゆくということです。愚痴が愚痴だとわかったら智慧です、だから智慧光。我々は自分の愚かさが理解できない。そのために智慧が生まれてこない。この頃は理解できないどころか欲の深さを誇ったりすることもありますね。「人生長生きしたけど欲が無くならなくってね、困ったもんです」と自慢されて、住職は「それは元気でお若い証拠ですぅー」とおべっか言ったことがあります。恥ずかしいことですね。そういう調子いいこと言ってるのをホントのクソ坊主と言うのだと思います。
清浄光、歓喜光、智慧光のポイントは、「転じて」ということです。煩悩を捨てることができないけれども道はあるわけです。その唯一の道がお念仏ということです。

不断光
 これは一つだけの光明です。お念仏とは人生をとおした求道ということでありますが、求道というのはそんな順調なわけでなく、なんべん聞いてもピンとこない、わからないということがあります。そんなとき、人間はくたびれて求道をやめてしまう。そしてやめると折角歩んだことが全部帳消しになる。これを退転と言います。大乗仏教の求道者を菩薩と言います。菩薩は苦難を恐れません。苦難を通して自分がわかるということがありますから、苦難が好きというわけではないでしょうけど、とにかく苦難を恐れない。しかし退転ということを恐れます。せっかくやったことが無になることです。安田理深という先生がおられました。安田先生は求道ということについてこんなことをおっしゃっています。うろ覚えですが、「食えないという問題は死ねば解決する、しかし空しく過ぎたという問題は死んでも解決しない」という言葉だったと思います。親鸞聖人の御和讃に「光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆえなれば 心不断にて往生す」というものがあります。心が不断でなければ往生はできない、そしてそれは聞光力のおかげだと。聞光力というのは仏の言葉を聞いた力です。これは人間の力ではありません。教えを聞けば聞いた教えの力が人間を動かしてくるということです。よく聞くほど継続して聞く人間になるのです。それで不断光といいます。

難思光 無称光 超日月光
 難思光、無称光が対です。難思というのは思いを超えたということです。親鸞聖人は「唯信鈔文意」に「法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり」とおっしゃっています。この「こころもおよばれず」というところが難思、人間の思いを超える光、我々の分別を超えた光ということです。無称とは「ことばもたえたり」言葉を超えるということ。つまり人間の思いも言葉も超えた光だということです。我々はいつでも分別を頼りにして生きています。いいとか悪いとか、キレイとか、分別することなしに我々の生活は成り立たない。それから、我々は人と通じあう時には言葉で通じあうし、我々の世界にあるものはどんなものでも全部言葉になっている。そのために我々は言葉に引っかかるのです。言葉に縛られて、その言葉になっているものがほんとうにあるのだと思ってしまう。我々は部屋をながめてあぁ椅子がある、テーブルがある、飾り棚があると思いますが、猫からみれば全部のるものです。ほんとうは全てのものは言葉を超えたものです。豊かなものです。蝶々はキレイで蛾は汚いと人間は分別しますが、蛾だって美しいものを持っている。それが昆虫学者か芸術家にでもならなければそういう世界が開けてこないのです。我々の世界はなんでも小さく狭めて決めつけた世界です。それで窮屈なのはあたりまえです。ほんとうの世界は思いを超えている、言葉でつかむことができない。それほど豊かで広いものはない。その世界を開くのが難思光、無称光です。人間はなんでも捉えて、わかって、決めたがりますが、本来は捉える必要も、わかる必要も決める必要もないものです。わかったものからわかる必要もないところに帰ればいい。帰れと呼びかけているのが南無阿弥陀仏です。本願召喚の勅命ともいいます。
 最後に超日月光。我々にとっていちばんおおきく強い光は太陽光でしょう。そのつぎは月です。それ以上に強い光を体験することは我々にはまずありません。それを超えた光だと喩えてあるのです。どこでも照らす、そして人間のどんなわずかばかりの迷い心でも照らしてくる。だから教えを聞けば聞くほど自分の心がはっきりしてくる。細かいところまで見えてくる。それだけ強力な光だということで「一切の群生、光照を蒙る」といって十二光を収めてあるのです。

 今回はほんとうに長文になりました。実は昨年六月二十日の「正信偈のなかみ」でお話しなかったことが沢山ふくまれています。毎回一時間にするというのが「正信偈のなかみ」の決め事ですから、十二光のところは大幅にまとめる必要があって、無量光、無辺光、無碍光に重きを置いた内容でした。それを今回十二光全てをそれなりに書くことで昨年のお話の補足ができたと思います。結果、よかったです。何度も紹介していることですが、住職の「正信偈のなかみ」には基があります。仲野良俊先生の「正信念仏偈講義 一巻~三巻」です。今回のおさらいは長文ですが、仲野先生のものはもっとボリュームがありますから、長文と言わず読んでいただけるとさいわいです。今日六月九日現在、新型コロナウィルスの緊急事態宣言が解除されて、石川県では感染の拡大が無いようです。六月のうちは様子をみて、できれば七月に「正信偈のなかみ」を再開したいと考えています。もちろん、ソーシャルディスタンス、手洗い消毒などを守った形での再開です。

二〇二〇年六月九日 本念寺 住職

今月まで「正信偈のなかみ」はお休みします。

 新型コロナウィルスの緊急事態宣言が解除になって、石川県では何ごともなくすんでいます。そろそろというお声も聞くのですが、「正信偈のなかみ」は大事をとって今月までお休みします。なので、6月18日の「正信偈のなかみ」はお休みです。
7月から(7月16日木曜日)コロナ予防に気をつけて再開したいと考えております。
「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い 。その三を書きましたので代わりにお読み下さい。

本念寺 住職

2020年6月2日火曜日

気にすること

 我々はいろんなことを気にします、評判とか、見かけとか、体裁とか。しかし、これは人それぞれに違って、ある人がとても気にすることが違う人は平気だったりします。だから、気にしない人は言うのです。「そんなの気にしなければいいじゃん」と。しかし、それで解決にはなりません。だって、気になって仕方ないからです。そもそも気にするのではないのです。気にするんだったら気にしないことも自分でできます。しかし、実態は気になるんです。気になるのですから「気にしなくていい」と言われても解決しないのです。腹をたてるのもそうですね。腹はたつのであって、たてるものではない、あんな自分も他人も嫌な思いをすること、腹をたてないでいられるなら、たてないに越したことはありません。でも、腹はたつのです。これが我々人間という生き物です。
 どうしてそうなるのか、考えとしては気にしたくないのに気になる。腹をたてたくないけれども腹がたつ。それは自分が自分の心に縛られていると言うことです。人間は自分の心なんだから自分で自由にできると勘違いします。しかし、実際は自分の心に縛られ振り回されるのです。そのことがひとつ分かっただけでも楽になりませんか?気にしてはいけないと考えるとなおさら苦しい、だって自分で自由にできないことを自由にしようというのですから無理がでる。気になるものは気になる、腹がたつものは腹がたつ。そうやって受け取るだけで多少は楽になるのでないですか。
ところで、何がどうなってそんな自分の心に縛られるようになったのでしょう。人間は経験したこと、自分で行動したこと、心のなかで思ったことによって未来の自分をつくります。社会的な地位を獲得することが自分の目標であり、自分の人生の価値であるという生きかたをすれば、地位というものにつよく縛られ、振り回される人間になります。容姿端麗な人は羨ましいですけど、容姿を維持するのはなかなか苦労なことですし、何より老いて容姿を失う苦しみはとても大きいでしょう。お金が大事なら、お金で苦労すること決定です。お金で苦労するというのはお金がないということだけではありません。お金があるがために利益目的の人間ばかり近づいて来るかもしれないし、財産分与で家族が壊れる可能性もある。さらにお金を失う不安も背負います。地位をもとめるな、容姿なんてあてにならない、お金を大事にしてはいけないと言っているのではありません。地位というものは人間社会を動かすために必要なかたちです。誰かが大事なところを務めないと社会は動かない。できれば地位のある人を尊敬できる社会に住みたいものです。容姿もひとそれぞれですから、カワイイとか、綺麗とか、かっこいいって、やっぱり心がキュンとなるのでいいじゃないですか。お金のことをけなすと「それじゃおまえはお金がいらないのか」という論理で来られることがありますが、お金は人間生活をするために必要不可欠なものです。お金にはキレイも汚いもない。ただ、お金をみる人間の心にはキレイもあるし汚いもある。それだけです。仏法というものに照らしたら、その、地位とか、容姿とか、お金とか、それがいいとか悪いとかではなくて、そればかりに執着して縛られると生活世界が暗く不安で狭いものになってしまいますよ、ということが出てくるのです。地位も容姿もお金も価値あるものですが、それが生きているということを超えることはありません。どうしてか、それは地位も容姿もお金も人間が思ったこと、造ったことだからです。我々人間の生活には大事にすべきもの、気になるものがたくさんありますが、すべて生きているという存在事実を超えるものはありません。だから、地位を失っても生活はあります。容姿が衰えても全てがなしになるわけじゃない。お金も、ないと苦しいですが、それはご飯を十分に食べれない苦しみでしょう。お金がないだけならばそれは苦しみではない。だから、地位があっても容姿端麗でもお金持ちでも、それに縛られていない人は明るくてひろいと思います。それではどうしたらそんな人間になれるのか、ということではありません。未来の自分は経験したこと、行動したこと、思ったことでつくるのですから、何かと独りよがりになりがちな、迷いがちな自分というものを、分かりながら生活する。これしかないでしょう。「自分がわかった」これを浄土真宗では信心と言います。人間は自分知らずなのです。無根拠に自分が正しいと思い、人生でほんとうに求めるべきものを求めず、人間の欲望に支えられているものを取っ替え引っ替え求めて人生の間中うろうろする。それを流転と言います。流転には終わりがありません。別の言葉で無窮(むきゅう)と言います。終わりなく満足なく安心なくです。それで親鸞聖人は「本願の名号(わたしをたすけるはたらきの名前)は正定の業(かならず満足と安心を得られる道)なり」とおっしゃったのであります。浄土真宗は念仏ですが、念仏とは南無阿弥陀仏、「自分というものを知れ」という仏さまからの呼びかけに耳を向けることです。聞法ということもあります。その字のとおり法を聞くのです。法を聞いて自分が照らしだされる、わかる。気になることがある、そしたら「どうしたらいい」ではないのです。気になることは法に照らすのです、自分ごと法に照らす。それが聞法ということです。そういう生活が人間を自分の思いから自由にします。心が柔軟で、苦労が小さく、虚しいということが無くなる生活です。薫習(くんじゅう)ということがあります。経験したこと、行動したこと、思ったことが薫りとして心のもとに染み付くのです。薫習はいいことだけとは言えません。自分の思いに執着して迷えば、迷いが薫習として染みます。地位ばかりにこだわり、容姿ばかり気にして、お金ばかり大事にせざるおえない人間をつくるのです。だから、毎日の生活が要注意です。どうしようと迷ったら、聞法です。それが念仏者の立場です。明るく気分良く生活したいのであれば聞法です。

2020年5月28日木曜日

南無阿弥陀仏、すわりがわるい。

 住職は南無阿弥陀仏の字面に意味を求めてしまいます。だから白けます。何で南無阿弥陀仏なのか、南無阿弥陀仏でなくてもよいのではないか。南無阿弥陀仏は受け取るものです。
南無阿弥陀仏の字面にこだわるということは、南無阿弥陀仏を呪文だと思っている。南無阿弥陀仏は「まかせよ」と如来から受け取るものです。だから南無阿弥陀仏の字面でなくとも良いかもしれない。けれども南無阿弥陀仏を取り替えたところで、字面にこだわっている限りは一緒です。落ち着くことができない。そもそもお念仏は受け取るものですが、人間は言葉がなかったら受け取れないのです。だから如来(真実が人間の思いを破るはたらき)が言葉になった。人間は言葉で迷い言葉で苦しむから仏さま(わたしをたすけるはたらき)が南無阿弥陀仏という言葉になったのです。だから南無阿弥陀仏でいいと思いたったのでした。

お念仏はうけとるもの。

 南無阿弥陀仏とは、「かならずたすける、まかせよ」という如来の呼びかけです。この南無阿弥陀仏を受けてどのように思うかというと、「そんな南無阿弥陀仏くらいでたすかるわけがない」ということではないでしょうか。住職はそんなふうに思っています。これを「南無阿弥陀仏はありがたい」などと無理して受け取ると、信仰から純粋さが無くなります。無理しない、誤魔化さない、嘘つかない、この三つが教えを受け取る要点です。信じられないなら信じないという立場に立つ。南無阿弥陀仏の「かならずたすける」とは、「どんな人間であっても例外なく」ということです。それを無碍光(どんな障害でも遮ることができない作用)という喩えで表しています。だから、「こんな自分でもすくえるのか!」と、開き直ったらよい。南無阿弥陀仏を喜んで受けとれない自分を恥じる、なんてことがありますが、恥じるなんてことはまだ自分に夢をみている。期待している。自分を誤魔化している。自分の心を深く深く覗き込んでみたら「そんな南無阿弥陀仏くらいでたすかるわけがない」と書いてあったんです。住職の場合そうです。そこが私の場所です。嘘ついたところに立ったら歩めませんから、どんなに救いようがないところでもそこが場所です。人間は修行とか、学問とか、功徳をつむとか、立派なことをしないとたすからないと考えているのです。南無阿弥陀仏は、その「立派なことをしないと」という考えを捨てよという呼びかけです。「必ずたすけると言ってるんだから、立派という考えにしがみつくのをやめなさい」というわけです。それがやめられない。如来に百万回「そのままでいい!」と言われても、「このままじゃダメだ!」とかえしている状態です。人間は自分の思いに身を立てています。世間の評判に身を立てています。無宗教だという人も、かならず思いに身を立てています。身を立てるところが間違っているから、上手く運んでいるときは威勢がよいですけど、ひとつ躓くと迷います。立派にみえていた人物が、目も当てられないようなさまになった。そんなことはなかったですか。宗教は仏様や神様の奴隷になることじゃありません。宗(それなしでは生きられないもの)についての教えです。ほんとうに立つべき場所を求める道です。仏さまを大事にするなんて言いますが、ほんとうに仏さまを大事にするのは、お仏壇を掃除したり、御供物をしたりすることではありません。そのさきに、仏のはたらきに応えるという仕事がある。仏とは、「この、わたしをたすけるはたらき」です。「たすかれ!」が仏の存在意義ですから、この自分がたすかることが仏さまを大事にすることです。そのたすかる道を歩くことが仏を仏にするのです。道を歩くのに大事なことは、無理しない、誤魔化さない、嘘つかない。「どんな人間でもたすける」と言って下さっているのだから、堂々と南無阿弥陀仏を疑ったらいいと、この頃思うのです。疑うほどに自分が見えると思います。自分が見える、自分が明らかになるということが、立つべき場所に帰る道筋で、自分の思いから自由になる可能性だと考えます。

 自分の思いから自由になれないということは、十分に足がつく浅瀬で、頼りない木片にしがみついてバタバタ泳いでいるようなものです。木片から手を離せば解決します。ところが木片を手放すことができない。よこから如来が呼びます「木片をはなせ」と。


2020年5月20日水曜日

「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い。その二

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
 ここからを「依経分」といって、お経を基に本願が説かれています。本願、まずこの言葉がよくわかりませんね。ここでは、浄土仏教で「本願(ほんがん)」と呼ばれる「はたらき・作用・道理」があると覚えておいて下さい。「法蔵菩薩因位時」からはじまるこの一段は、「無量寿経」に出ている本願について、親鸞聖人が要約したところです。内容は次のようなものです。
 ある時、一人の国王があって、仏の説法を聞いて心に感ずるところがあり、求道心をおこして、国を捐て王位をすてて一介の求道者となり、自ら名告って法蔵と申しました。そして、世自在王仏という名の仏をたずね、自らの深い志を述べて、重ねて次のようなことを申されたのであります。
 「私は道を求めたいと思います。どういう世界が私のたすかる世界であり、どうすればそれを得ることができるか、願わくばそれについての教えをいただきたいと存じます」。その時に世自在王仏は、法蔵菩薩に対して、こう言われたのであります。「それはあなた自身の問題で、あなたが自分で見つけなければならないことです」。法蔵菩薩は重ねて。「いやしかし、これは私の力以上の問題であります。どうかさまざまな仏の世界、いろいろの人がたすかった道を、私のためにお説きください。それによって私は私の道を開いてゆきたいと存じます」。
 そこで世自在王仏は、その願いに応じて、あらゆる仏の国土、あるいは人間の世界の幸・不幸のさまざまな状態をまざまざと、目に見えるように説かれたのでありますが、これによって法蔵菩薩は、本願を起こされたと述べられています。
「正信偈講話」 仲野良俊 より。
 無量寿経は物語のかたちをしています。物語というと今の人はとっつきにくいかもしれません。そもそもわたし(住職)がそうです。わたしは物語より理屈のほうが立派だって身に染み付いている人間です。だから、物語のかたちで読むと身が入らなくて困ります。けれども、仏教では理屈は浅く軽いものだとします。理屈とは「人間の理屈」です。仏法は人間の理屈を破るものです。だから理屈を超える表現をとります。そもそも理屈で伝わらないことを伝えるために物語、詩、芸術があるんじゃないでしょうか。住職は絵を描きましたけど、「この作品の意味は何なのさ」って、「意味を超えるために絵にするんじゃないのさ、そもそも、ひとことで言えることを絵に描く必要なんて、ないんじゃないのさ」と、心に思っておりました。現代社会を動かしているのは合理性だと思います。けれども、自然も人間の心も合理的には運ばない。人間はときに「これは理屈にあわない!」と言って怒ったりしますが、そもそも世界は理屈で動いていないのです。
 仏教は因果律で世界をみます。因果律とは、何事も原因があって起こるということです。原因がなければ、結果もない。ここで法蔵菩薩が原因となっています(法蔵菩薩因位時)。ならば結果も必ずある、結果は阿弥陀仏です。世自在王仏という名前の仏さまが登場します。自在とは自由ということ、どんな世界にあっても自由自在であるという名前です。仏教では自由を大事にします。それでは何を自由と言うのでしょうか、「欲望の赴くまま好き勝手する」というのが我々が想像する自由ではないでしょうか。仏教でいう自由とは最も現実的な自由です。そして、替わるもののない究極の自由です。「好き勝手する」のが自由?といいましたが、好き勝手すると大変なことが起きますね。先ず、みんなに嫌われます。独裁者になれば好き勝手しても怒られないかもしれませんが、たとえ独裁者でも嫌われる、恨まれることから逃れることはできません。そもそも好き勝手は自由なんでしょうか、好き勝手は欲望の赴くままに動いているのですから、キッパリ言うと自由ではありません。欲望の赴くまま好き勝手して生きている人間ほど、欲望に強く縛られている。欲望は過剰になりますから、決して満足して終わることがありません。死ぬまで欲望の奴隷になって虚しく終わるんです。仏教で言うところの自由とは「縛られない」ということです。人間は多くのものに縛られています。立場に縛られ、対面に縛られ、思いに縛られ、テレビをつけるとステキなスマホが映っていた、もうダメです、見た途端縛られています。住職なんか年がら年中新製品に縛られていますから、これは実感をもって言うことができます。豪華でステキな旅行に行きたいと思ったところから、日常生活が灰色になります。ちゃんと原因があるのです。いろいろなものに縛られることで、現実の生活がつまらなく色あせたものになります。自分で台無しにしているのです。ほんとうに満足する生活をしたいのなら、縛られないということが大事です。そうは言っても、新製品は目にする、ご近所が旅行したと耳にはいる、こればかりはとまらない。だから常に解放されるのです。「おまえ自分の思いに縛られておるぞ、勘違いしておるぞ」と知らせていただく、これがお念仏の生活です。この人生の、どんな状況に置かれても、自由自在であるという名前の仏が法蔵菩薩のお師匠さんです。

覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
 法蔵菩薩はあらゆる仏の国を見ました。人間の世界の良いも悪いもあらゆる状態を見ました。どの世界が、どんな状態がほんとうに満足できる生活なのか覩見(見渡)したのです。
 ここで「観無量寿経」というお経のはなしをします。「観無量寿経」には、「王舎城の悲劇」という物語をとおしてお念仏が説かれています。マガダ国の王子(阿闍世)が国王(頻婆娑羅)を幽閉して、まったく酷い殺しかたをするという事件が起こる。これに至るにはいろいろと原因もあるのだけれども、息子のしたことをお妃の韋提希は嘆き悲しんで、お釈迦様にたすけを求めるというはなしです。それでお釈迦様は韋提希に仏の国をみせるのです。どの仏の国に行きたいですかと。
 ひとつめは、「七宝合成の国(金・銀・瑠璃・玻瓈・硨磲・赤珠・瑪瑙)」です。慈悲、愛情でいっぱいの国です。韋提希は自分の心を深く見て、わたしにはそんな深い愛情の心はないから、とどのつまりは自分さえ良ければいいと思っている心の人間であるから、そんな愛情に満ちた国はかえって居心地が悪いと辞退します。お釈迦様がみせられたふたつめの国は「蓮華の国」です。悟り、智慧の国です。これに韋提希は、わたしは愚痴の人間であるから、悟りと智慧の国ならおられんと辞退します。みっつめは「自在天宮の国」、なんでもそろった国ですが、韋提希はお妃様ですから、もうなんでもそろった生活をしたのです。興味ありませんと辞退されます。よっつめが「玻瓈鏡の国」。清浄で純粋な国、濁りのない国です。これも韋提希はそんな純粋なところでは、かえって自分の心の濁りが意識されてたまらないと辞退します。さいごに韋提希はどんな国を希望したのか、「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといえども、我いま極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと願う」韋提希のセリフです、韋提希は阿弥陀仏の国に生まれたいと言うのです。それで阿弥陀仏の国はどんな国か、阿弥陀仏の国はどんな人間でもいることができる国です。どんなに智慧から遠くても、愛情がなくとも、心が濁っていてもいることができる国です。そういう国を見つけようとして法蔵菩薩は「諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見」されたのです。そして、そこに「無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発」なさったということです。

建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
 人間はいろいろな生活を望むけれども、望んだとおりになっても果たして満足できるかはわかりません。有名になってみたけど不自由な生活だった。お金が儲かったらロクでもない人間が寄ってきた。しがらみを無くしたら楽というより孤独だった。など。人生を費やして求めるのですから、間違っていたら目もあてられない。だから、この上ない、これ以上に満足できないという生活を求める願いをたてられたということが重要です。正しい人間になったら救われるなんて陳腐な話じゃないのです。人間という存在を深く深ーく掘り下げて、どんな業があっても、どんな縁に遭おうとも救われる道を求めたのです。そのためにとんでもなく長い時間が費やされた。これが五劫思惟。一劫は時間の単位、二十キロ四方の岩山を三年ごとに天女が羽衣でひと撫でする、それで岩山が擦り減って無くなるのにかかる時間です。うーん、気が遠くなります。これは、それだけ法蔵菩薩の発願した生活が重いということです。その大事な生活を知らせたい。人間は名前のないものを知ることは出来ませんから、たすけるはたらき、仏さまは名前になったのです。その名を世界中、宇宙中に知らせたいといわれている。
 嘆仏偈という短いお経があります。お盆のとき墓前であげるお経です。実は無量寿経という本願の教えを説いたお経の一部で、法蔵菩薩がどんな人間をも救う、仏の中の仏になりたいと誓いを立てる内容になっています。嘆仏偈に「願我作仏 斉聖法王(がんがーさーぶ、さいしょーほーおー)」とあります。「仏の中の仏になりたい。」ということです。「一切恐懼 為作大安(いっさいくーくー、いーさぁーだいあん)」とあります。「願いを実践して一切の恐懼に本当のやすらかさを与えたい。」ということです。恐懼(くく)とは生きることに恐れを抱き、不安にさいなまれているものです。生きると言うことは不安があるということではないですか、普段は何も感じていなくとも、いざお葬式が出ると友引だからといって不安になります。こんなことしたら不吉なんじゃないか、こっちの方角じゃないといけないんじゃないか、と不安になって、怖くなって思いに振り回されている。そんなものにほんとうの安心を与えたいと法蔵菩薩は誓っておられる。じつは日の良し悪しなど考えないのが大安です。日とか方角とか言っているときはすでに不安なんです。友引を決めたのは人間です。ところが人間のいのちは人間が決めたものより深いもので動いている。数字の四(死)とか九(苦)もそうですね。人生はそんな言葉遊びよりもずーっと深いもので動いている。だから、「大安に目覚めろ」ということです。
「令我作仏 国土第一(りょーがーさーぶー、こくどーだいいち)」。「みなが本当に満足できるために本当の世界がほしい。」といいます。仏法の問題は、自分も助かって人も助けてゆくという自利利他。これが仏道です。しかし、穢土(人間の思いで成り立った世間世界)はその自利と利他が矛盾する世界です。穢土とは人間の思いで穢(けが)れているということ。この人間世界を娑婆とも言いますが、娑婆はインド語の「サハー」、漢訳したら「忍土」。誰も彼も不自由で、忍ばなければならないところです。ほんとうに自利利他が成り立つ世界が浄土です。娑婆というのは我執のある世界、自分よかれでは利他など成り立つはずがない。仮に利他をやってもそれは犠牲のうえにしか成り立たないでしょう、自分を犠牲にしたら利他をしてもダメなんです。共にたすかってゆかねばならない。だから我執の壊れた世界でなければ自利利他は成り立たない。
 もうひとつ、「重誓偈」という短いお経があります。四十九日のお勤めでお骨前で勤めるお経です。こちらも実は「無量寿経」の一部です。法蔵菩薩は四十八の誓いをたてられた。それに加えてさらに三つ誓いを加えられた。その三つの誓いのところが「重誓偈」です。
「我建超世願(がーごーんちょーせーがーんー) 必至無上道(ひっしーむーじょーどー)」
「斯願不満足(しーがんふーまんぞーく) 誓不成正覚(せいふーじょーしょーがーくー)」
これが自利の部分です。「我超世の願を建つ、必ず無上道に至らん」となっています。自分自身の完成のために仏になる。無上道に至るのは自分です、このわたし。どこの誰かじゃない、このわたしが無上道に至るんです。これ大事。その道が親鸞聖人においてはお念仏の道です。「念仏成仏これ真宗」と、浄土和讃 大経意にあります。自分が完成していないから迷っているのです。誰でも自分を完成させようと生きている。そのことが自覚されていないだけなんです。
「我於無量劫(がおーむーりょーこー) 不為大施主(ふーいーだいせーしゅー)」
「普済諸貧苦(ふーさいしょーびんぐー) 誓不成正覚(せいふーじょーしょーがーくー)」
利他のところです。「我、無量劫において、大施主となりて普くもろもろの貧苦を済わずは、誓う、正覚を成らじ」とある。自分ひとりたすかっても、それはほんとうにたすかったことにはならない。だから、わたしでないものをたすける。「貧苦」とあります。物がある、金があるけれども心は貧しいということです。うーん、ドキリとします。
「我至成仏道(がーしーじょーぶっどー) 名声超十方(みょーしょーちょーじっぽー)」
「究竟靡所聞(くーきょーみーしょーもーん) 誓不成正覚(せいふーじょーしょーがーくー)」
これは大悲心の行というところ。「我、仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ」とあります。この名声超十方が「重誓名声聞十方」になります。「どんな妨げがあっても、どんな人間であっても」ということです。親鸞聖人はこの第三誓、「大悲心の行」を非常に大事だと正信偈にだされました。人間は名で迷います。言葉で迷います。損をしたと暗くなるけれども、損か得かそんなことはほんとうはわからない。損か得かというのは言葉、解釈にすぎません。それでも人間は言葉に迷います。だからその言葉に迷う人間を目覚めさせるのは言葉以外にないということです。それですくうはたらきが南無阿弥陀仏という言葉になられたんです。人間の経験は名言薰習(くんじゅう)と言って言葉で残ります。人間は言葉を道具にして過去の経験を思い出します。人間は言葉で迷います、言葉で苦みます。その人間を開く唯一の言葉が南無阿弥陀仏です。言葉に引っかかっている人間の心を破るような言葉です。だから南無阿弥陀仏は人間の言葉ではありません、如来の言葉です。南無阿弥陀仏を通して人間は仏に遇う。それ以外に具体的な道はありません。「念仏成仏これ真宗」の意味がここにあります。我々をたすけるものを仏といいます。その仏が名として表されている。助ける対象が人間だから名になった。その名をどんな状況にある人間にも聞こえさせなければならないということです。言葉に遭わなければたすかるきっかけがありません。暗く思い詰めた生活の裏側に明るく自由な生活が存在します。しかし言葉に遭わなければ暗い思い詰めた生活を継続するしかありません。だから名を聞かせたいと法蔵菩薩が誓われた。
 これで「重誓名声聞十方」までたどり着きました。今回は長文になりました。読んでくださったかた、ご苦労様です。この「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い。は新型コロナウィルス感染予防がひとだんらくするまでするつもりです。

二〇二〇年五月十五日 本念寺 住職

「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い。その一

 昨年三月に「三年間で必ず終えます」と始めた正信偈講座は、なんとか予定を遅れることなく十二回を終え、この三月からは七高僧のところへ入っているはずでした。そこへ、新型コロナウィルスの流行が起きました。数ヶ月で終息するかと思ったのが全然、三月どころか四月、五月の正信偈講座の開催も困難になりました。おやすみつづきはさみしいので、このさい「お・さ・ら・い」を書くことにしました。コロナ騒動がおわるまで、正信偈のおさらいを読んで、正信偈講座の再開をお待ちください。
二〇二〇年四月九日 本念寺 住職

帰命無量寿如来
 無量というのは変わらないということです。反対の言葉は「有量」、変わり続けてとどまることがないものです。わたしたちは、有量ですね。生まれて大きくなって年老いて、怒ったり泣いたり笑ったり、生まれてきてよかったと言ったり、なんで生まれたんだと呪ったり、生きている間中目まぐるしく変化します。これを無常と言います。諸行無常の無常です。「この世界にあるものは何もかも変化して常なるものがない」ということです。いま、ここに「変化しないものはない」と言いましたが、その「変化しないものはない」という法則だけは変化しません。昔も今も未来も変わらない、この法則が無量なわけです。
 寿、「いのち」ということです。通常「命」と書きますが、仏教では「寿」がいのちです。「寿」といったら「めでたい」という使いかたをしますね。そうです、いのちはあるだけでめでたいのです。「?」ってなりますね。今はその「?」を大事にして先にいきます。わたしたちは生まれてからいのち終わるまでずっと無常です。ところが、その無常におられないのです。落ち着くことができない。どうですか?年をとるのは嫌ではないですか?大事なひととの別れなんて、受け入れがたいのではないですか。だから長寿をもてはやします。長生不死なんて言います。だけど不死なんて言うほど辛くなりませんか、だって事実は限られたいのちですから。限られたいのちのものがどうやって「限られた」ということを越えるか、それが人間の問題になります。無量寿というのは無量の、不変の法則に支えられて在るいのちです。そのいのちの在り方(実相)に触れることで、わたしたちには無常の身のまま不変に支えられるということが起こるのです。
 もうひとつ、有量ということには「計る」という意味もあります。我々の世界はなんでもかんでも人間が計らった世界です。我々が受け止めたものには、すべて快だとか不快だとか、損だとか得だとか計った見方がある。長い短いっていうのも計らって生じる。世界はそのままではない、人間の計らった見方に転じて受けとめられている。だから、わたしたちは世界の「そのまま」には決して触れることができない。けれども、生きているということは計らう以前にあるでしょう。計らわなくても生きているということは無くならない。無量とは、その計らいを超えた「そのまま」ということもあるのです。
 如とは人間の計らいを超越したそのままの世界。何でも損得、快不快で見る人間にはわからない。その計らいを超えたところから計らう人間にはたらきかけて来る。だから「来」とつく。真理から人間を救おうとはたらきかけてくるもの、それが如来、仏であります。さいごに帰命、立ち返るということ。だから帰命無量寿如来は「わたしたちの思いを超越した真実からのはたらきに立ち返ります」と言うことができます。これがお念仏のなかみです。
 じつは帰命無量寿如来には基があります。七高僧のひとり、インドの天親菩薩が無量寿経にある本願というはたらきをいただいて「帰命尽十方無碍光如来」と表現された。尽十方は前も後ろも右も左も、ななめも、上も下も全方向ということ。無碍光というのは、遮られることのない光として本願のはたらきを表した。いつでも、どこでも、どんな人間にもはたらくということです。その本願の表現を親鸞聖人は無量寿という言葉に戻された。「帰命尽十方無碍光如来」は「南無阿弥陀仏」の別名なんです。お仏壇は真ん中が阿弥陀如来の画像、または仏像ですね。右手に「帰命尽十方無碍光如来」とある。左手は「南無不可思議光如来」です。実は三つとも本願のはたらきをあらわしています。名乗りは違うけれども仏としては同一です。

南無不可思議光
 お仏壇の左手にある「南無不可思議光如来」が「南無不可思議光」になりました。こちらも七高僧のひとり、中国の曇鸞大師が「南無阿弥陀仏」をいただいて「南無不可思議光如来」と表現された。正信偈は偈(うた) ですから、七文字に揃えないと調子があわない。だから如来をとって南無不可思議光になっている。不可思議は不思議です。不思議というと「わからない」と受けとってしまいますが、この不思議は「思議(しぎ、おもいはかる)する必要がない」という意味です。すべては「思い計る」必要のないものであったということです。人間は、ほんとうは心配したり不安になったりする必要のない世界に生まれてきた。それを計らいでもって不安で貧しい暗い世界に変えて受けとっているのです。たまに「人生に行き詰まった」と言います。しかし人生は決して行き詰まったりしません。行き詰まるのは人間の人生にたいする考えではないですか。人間は計らいに囚われて心配し、不安になり、絶望します。その自分をとらえる計らいに根拠がないと知れば、計らいは相対化されます。計らいは計らいにすぎないとわかれば軽くなるのです。人間生きているうちは計らいを止めることができませんけれども、常に計らいを計らいであると知らせてもらうということがある。計らいを超越した真実がわたしにはたらいてくる。これをお念仏といいます。心配したり不安になったりする必要のない世界にその都度かえしてもらうのです。人生に絶望してもたすかりませんが、自分の思いに絶望すると明るくなるのです。
 南無はナモーというインドの言葉。「おまかせする」という意味ですが、真宗では「まかせよ!」という如来からの呼びかけです。ですから「南無不可思議光(如来)」は「すべては思い計る必要のないたしかな世界なんだ!という事実にまかせよ!」と受け取ることができます。繰り返しになりますが、不安を生むのは計らいです。人間賢いということがありますが、賢いということはそれだけ計らいがきつい。仏法からいうと賢いだけ苦しみも大きい。人間は賢くなることによって悟りをひらくと誤解しています。賢さが破れて悟りをひらくのです。どれだけ賢くても破れない賢さは愚かさです。かと言って阿呆ならいいというわけではありません。人間誰でも苦しむということは、誰でも賢いのです。そして苦しむからほとけを求める。求めることが賢さをやぶる縁になる。
 「どんな人間になって生きたらいい」というのは人生の問題です。それにたいして安田理深という先生はこうおっしゃっています。
「南無阿弥陀仏の歴史の中に(自分の胸の中にではなく)いかなる不純粋の世界にも立っていける自分の立脚地を初めて見出すのである。それを一心と言い、安心と言う。」

5月の「正信偈のなかみ」もお休みです。

新型コロナウィルス感染予防のため明日5月21日の「正信偈のなかみ」もお休みします。

本念寺 住職 飯貝 孝介

2020年5月17日日曜日

生活で詰まずいたら。

 落ちたら落ちたところから始める、それ以外にどんな方法があるだろうか。神頼み、仏頼み?そんなことをすればますます迷いは深くなる。だから、ただ落ちたところからはじめることが現実的な方法。しかし、心がそれを許さない。人間には心があるから「はい、そういですか」というわけにはいかない。その心の許さないものの正体を見ることが必要だ。誰が許さないのか、それは自分の立場か、こだわりか。念仏する、聞法すると真宗ではいうけれども、心にあって自分を許さないもの、その正体を見る方法だ。方法は継続することで道になる。必ず脱出できる道に入ることで人間は生きられるようになるのでないか。

新型コロナでたいへんな思いをしているひとがいると思います。頭をひねって書きました。

2020年4月8日水曜日

人間が、これが自由だと思っていることから自由になるのが往生。

 ひとはみな「幸福になりたい」って言います。でも、どんな状態が幸福というものか、あまり考えないのではないでしょうか。ここに幸福になる条件という調査があります。イギリスで専門職から単純労働まで5段階に職種をわけて生活満足度を調査しました。劇的な違いがあったわけではありませんが、1種の専門職と5種の単純労働を比べると10段階評価で0.5ポイント専門職の生活満足度が高かった。これは収入以外の生活満足度を調べたもので、専門職のほうが単純労働よりも収入が高いわけではない条件での調査です。この調査の結果として、人間は生活を自分で管理できる機会が与えられて初めて、自分は幸せであると感じることができるということが発見されています。幸福であると感じるための要素として自由ということがあるわけです。
 自由、自らに由るということです。自分が因となって動くということです。「自由にして何がわるい!」なんて言うことがありますが、自由気ままなんて言い方になると迷惑な印象も出てきます。だから、明治の福沢諭吉は、「自由と我儘(わがまま)との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」とおっしゃっています。ひとの迷惑になるならそれは自由ではなく、我儘だと。
 仏教の教えでも自由ということを大切にします。仏教では自由と言わず自在といいます。自分に在るひと、自分を失っていないひと。悟りをひらくことを解脱といいますが、これは解放され脱出して自在にかえるということです。ここでポイントなのは、いったい何から解脱するのか、何から自在にかえるのかということです。先に「他人の妨げ」という点で自由と我儘を分けましたが、仏教では「他人の妨げ」になる以前のところに問題があるといいます。ここに「もし、他人の妨げにならないとしたら、好き勝手したら幸福か」という問いがあります。たとえば物が豊かにある無人島での生活です。ブラックな例えだと、人類が絶滅してわたしひとり残った。もう地上のものは全部自分のもの!という状態です。はたしてそれが幸福といえるものか、それは各人想像力をはたらかせて確かめるとして、仏教にかえると好き勝手しても幸福にならないといいます。そもそも好き勝手するのを自由であるとみません。好き勝手しているのを「自分を失った」とみます。だから好き勝手しても究極的には満足しません。ここも想像力をはたらかせると面白いのですが、好き勝手の先にあるのは虚しさです。人間のすることは何事もエスカレートしますよね。財産ができたからと満足しない。財産ができたら「もっと!」ってなる。これは貯金通帳の数字を眺めたら確認できる心の動きです。ひとに優しくされたら、やっぱりもっと優しくされたいって思うのではないですか。有名になったら、出世したら、、、。そして自分の都合のよいことになっても、満足することはありません。それは、好き勝手は自分を失った状態だから、どこまでいっても満足しないのです。何によって自分を失ったかといえば「自分の思い」によってです。浄土真宗では「はからい」とも言います。人間は自分自身に夢をみます。「私はこんな人間のはずだ」とか、「もっと立派であるべきだ」とか。それを「理想」とか「夢」とか「目標」と言いますが、ひとつ大事なものを忘れてはいないですか。それは、今現在のそのままのわたしです。どんなに都合が悪くったって、どんなに問題を抱えていたって、呼吸して心臓が動いてご飯を食べて、そして考えているわたしは「いま、ここ、そのままのわたし」です。実はわたしの生きるところは「いま、ここ」しかないのです。ところが自分の思いがそれを否定するのではないですか。自分の思いに根拠はありません。根拠があるのは「いま、ここ、そのままのわたし」ではないですか。だから、自分の思いを離れて「いま、ここ、そのままのわたし」を生活することにかえる。それが自在にかえるということです。「いま、ここ、そのままのわたし」を軸としてわたしの生活が展開してゆくということです。偉くなるのは因果律によります。偉くなる種をまけば偉くなる。もちろん、偉くなる種をまき続けるのは容易なことじゃありません。けれど種をまけば(原因をつくれば)結果になります。
 自分の思いは時々わたしを傷つけます。思いに合わないからと存在を否定します。そうやってわたしを縛ります。好き勝手しているひとが幸福でないのは、自分の欲望にそれだけ強く縛られているからです。ひとを怒ってばかりのひとも不幸です。ぜんぜん楽しい人生ではないですね。幸福になるためには自由が必要、そのとおりです。そして見落としてはいけないのは、自分の思いからも自由になるということです。2500年もまえにお釈迦様が説かれた生きる道は、自分の思いから自由になる道でした。自分の思いに縛られると世間は狭くなります。縛られるだけ狭くて窮屈な暗い生活になります。ほんとうは人間はもっとひろい世界に生活できるのです。そのひろい世界がひらけたのを往生といいます。ひろいから苦労していい。ひろいからときがきたら死んでいい。来るべきものにおののき、振りまわされることのない生活になる。それ、明るくはないですか。だから仏さまは光にたとえられるのですね。人生を明るくするはたらきについた名前が「仏」なんです。

2020年4月7日火曜日

2020年3月18日水曜日

明日3月19日の「正信偈のなかみ」はお休み。

明日3月19日の「正信偈のなかみ」は、新型コロナウィルス感染予防のため、お休みします。4月16日は状況をみておこなうかきめます。みなさん、お大事になさってください。

本念寺 住職

2020年3月10日火曜日

お念仏はどうして南無阿弥陀仏なのか。

 南無阿弥陀仏はインドの言葉を漢字に音写した言葉です。だから、ナムアミダブツでもいい。中国で漢字に音写したから南無阿弥陀仏。元の言葉はナモーアミタ。「無量光、無量寿の仏に帰依します。」と、なります。すごく意訳したら「阿弥陀さんにおまかせ!」とも言えます。これで意味もわかったけれど、やっぱりしっくりこない。「それでも、どうして南無阿弥陀仏という文言でなければならないのか?」という疑問がずっと住職にはありました。
 それを南無阿弥陀仏でかまわないのだと気がついたのは、ある年のほんこまいりのときです。門徒さんのお宅で、おばあちゃんが応対下さったのですが、そのおばあちゃん、なにかというと「よいしょ」と言うのです。立って「よいしょ」、座って「よいしょ」、お茶をいれるのも「よいしょ」。ほんとうに数が多い。その「よいしょ」を眺めていて住職は、『そういえば、わたしも「よいしょ」って言うなぁ』と思ったのです。そして、「よいしょ」という言葉は必要だけど、「よいしょ」に意味を求める必要はない。と気づかされたのです。
 意味がわかったから南無阿弥陀仏するというのであれば、それは人間の思慮のうちです。南無阿弥陀仏に意味がなかったらしないわけです。我々の言う意味といえば損得ではないでしょうか。病気が治るから念仏する、お金儲けができるから念仏する、災害に遭わないように念仏する。誰も、苦労するために念仏する人はいないわけです。これは人間の都合のために仏さんを使おうということです。そして、人間の都合では、人間は究極的にはたすかりません。そうなっているのです。思いどおりになっても、しばらくしたらあるのは不満ではないですか。思いどおりになることがずっと続いたなら、やってくるのは空しさではないですか。順調すぎれば「つまらない」わけです。この人間の都合というものは、人間の苦を無限に生み出してくる源です。そして、その人間の都合を破るのが仏さんのはたらきです。お念仏してたすかるなんて言いますが、言い換えたら「お念仏して解放される」です。だから「覚(さと)った」と言う。わかったんです、自分が何に苦しめられていたかあきらかになったのです。
 南無阿弥陀仏に話をもどします。南無阿弥陀仏をそのまま「無量光、無量寿の仏に帰依します。」と受け取ってもピンとこない。だからいろんな表現が出てくる。住職はよく、『南無阿弥陀仏は「あなたはどんな人間にもなれる」という仏さんからの呼びかけ』とお話しします。平野修さんという先生の本でみつけた言葉です。「どんな人間にもなれる?」そう、わたしたちは、高齢者にも病気のひとにも人生を大失敗した人間にもなれます。成功者になるのも失敗者になるのも原因と縁があっての結果ですが、成功者になるのは都合にかなうので難しくないようです。でも、失敗者になることは難しい。心がたいへんになる。でも、ほんとうはなれるんです。その証拠に、人生を失敗したからといって心臓が止まったりしません。大失敗した後も人生はあるのです。それを無理です、なれません、って思っているのが我々じゃないでしょか。その、わたしを苦しめる思いを破るはたらきを仏というのです。人間が思ってつくった世界は、条件だらけの狭い暗い世界です。何事も自分の都合で計り、自分さえも裁きます。それを、わたしたちが生きているのは、ほんとうはもっと広い明るいところだった。都合や条件に縛られる必要のないはたらきのうえに、わたしたちの生活はあったと覚る。人間の思慮を超える、それがお念仏のご利益です。そこに意味がないのではない、人間の言う意味を超える。生きているという事実に備わった意味というものがある。その意味に出遭う。ということです。
 さらに、南無阿弥陀仏を言い換えるなら、「如来の声をきけ」「如来のはたらきに応えよ」ではないでしょうか。南無阿弥陀仏はわたしから仏さまに「おまかせします」と言うのではないのです。他のひとの心はわかりませんが、住職の心は、仏法を読んではいてもいい加減な心です。つねに都合のよいことに流され、くるくる変化するので、「阿弥陀さんにおまかせ」なんて言ってもさきはわからない、頼りない心です。そんな心じゃたすからん、というのが人間世界の物差しですが、真理のはたらきは違います。そんな心でもたすかるはたらきです。わたしの心はあてになりませんから、あてになるものがはたらく。南無阿弥陀仏は「如来の声をきけ」「如来のはたらきに応えよ」という仏さんからの呼びかけ、勅命だったのです。親鸞聖人はこのことを如来廻向とおっしゃいました。「わしのはたらきをわすれるな」という仏さまからの呼びかけを受け止める行為がお念仏だったわけです。南無阿弥陀仏という名のはたらきがあると聞いたらそれでいい、究極はこれだけです。南無阿弥陀仏は意味じゃありません。「聞く」という行為です。それでありますから、南無阿弥陀仏の意味を求める必要がなかったわけです。

本念寺裏門の法語につくったできたて。

2020年3月9日月曜日

今月3月19日の「正信偈のなかみ」はお休みします。

新型コロナウィルス感染防止のため、今月3月19日に予定していました「正信偈のなかみ」をお休みします。ちょうど「依経分」がおわったところだったのがたすかりました。新型コロナが収まったら再開します。4月再開になるのか5月再開になるのか、またお知らせします。


これまでの予定です。

2020年2月20日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書



本日もお集まりいただき、ありがとうございました。無事12回めの講座を終えることができました。本日のはじめでもお話ししましたが、もう12回です!あっという間でした。この調子だとあと2年弱、正信偈のなかみをはじめからおわりまで達成するのは、そんなに気の遠くなるようなことではないということを考えました。淡々とやればよいのです。毎月1回、少ないかなぁと開始当初は思いましたが、重ねればけっこうなことができます。
ところで、新型コロナ肺炎があります。ひょっとすると次回は、3月19日なんですが、お休みすることになるか、そのときの北陸地方の状況で考えますけど、無理はしません。ちょっと心に留めておいてください。お願いします。次回からは依釈分。七高僧を通してお念仏の教えにふれてゆきます。

2020年2月19日水曜日

あす2月20日の「正信偈のなかみ」予定通り

明日、2月20日の「正信偈のなかみ」を予定どおり19時から本念寺大座敷でおこないます。12回目です!正信偈の前半「依経分」の締めくくりになります。「依経分」は親鸞聖人がお経(主に無量寿経)をもとにお念仏の教えというものについて説かれた部分です。お念仏の教えについて、一回めのしめくくりです。

2020年1月22日水曜日

裏門の法語 2

「食べないと死ぬ、食べてても死ぬ」
本念寺裏門の法語、ふたつめは仲野良俊という先生のことばです。

 わたしは何で働かないとならんのか。それは働かないと食べてゆくことができないから。つまりは生きてゆけないから。けれども、そうやって食べていってもやがては死にます。耳ざわりのいい言葉ではありませんが、無視することもできない言葉です。そこにわたしが求めるべきもののヒントがあるのではないですか。財産をつくっても死にます。名声を得ても死にます。子孫を残しても死にます。人間がどんなにこだわっても、わたしが死ぬときには全て手放すものです。だから虚しいなんていうこともありますが、虚しいなんてのは人の思いで生きているからです。ぎゃくに死ぬからこそ生きているときが充実するということがあるのではないですか。終わるからこそ大事にできるということがあるのではないですか。ほんとうに自分をたすけるものを求めなければ、寿命だけ生きて不満のまま死にます。だからほんとうを求めるということが大事です。その一歩目は無視できない問題から始まります。問題があるということが、すくいの縁になります。

2020年1月16日木曜日

「正信偈のなかみ」本日の板書


本日も「正信偈のなかみ」へご参加ありがとうございます。おかげで、住職は無人の場で講座を持つという寂しいことにならんでおります。いろいろドギツイ言葉表現もしてるなぁと思いますが、聞いてくださる方々の反応が明るくて助けられます。
 今日のはなしでもしたのですが、ごくたまに「住職、ありがたいはなしを頼む」というのがあります。あいがたい話は気持ちいいかもしれませんが、人をたすけません。人をたすけない話ならばそれは仏法ではなく外道です。なぜなら、道元禅師もおっしゃっているように仏法とは「自分を習う」ことだからです。人間はほんとうにいろんなことを知っています。役に立つのか金になるのかわかりませんが、遠い宇宙の果てのことだって知っている。自分の体の構造も知っている。けれども自分の心のことは知らない。なんで腹がたつのか、なんで悔しいのか、なんで生きてゆけないと思ってしまうのか、それを知ろうとは思わないようです。腹がたつのをあたりまえと思っている。悔しいのも、生きてゆけない思いもあたりまえと思って疑わない。 そして社会を壊す、環境を壊す。自然を壊す。環境破壊と言われるようになりましたが、それは人間が満足を外に求めた結果ではないでしょうか。だから、私自身耳の痛いことばかりですが、私をならうことが道を開くのだと思います。

次回は依経分の最後です。お念仏の教えについての段が一区切りつきます。十二回目ですね。

2020年1月15日水曜日

あす16日の「正信偈のなかみ」予定通り。

明日、1月16日の「正信偈のなかみ」は予定どおり19時から本念寺大座敷で行います。信心の利益の最後です!

住職

2020年1月1日水曜日

新年あけましておめでとうございます。


 
昨年来はお世話になりました。本年もよろしくお願いします。

写真は除夜の鐘でお配りした本念寺特製「煩悩饅頭」です。煩悩は我々を煩わし悩ませるもの。108つの鐘でおくって、、、と申しますが、お念仏の教えでは「あっても障りにならない」と言います。むしろ、煩悩をおこした時が仏さまに遭うとき。貴重なときです。だから、本念寺の煩悩饅頭は美味しく召し上がっていただきたい。ただ、煩悩は人間を使います。煩悩の別名を「正使」といいますが、これは「駆使衆生」。いのちあって、心あるものを使い走らせるものです。煩悩に使われると、煩悩に使われて人生が終わります。だから、龍樹菩薩は仏さまになったひとを「自在人」と呼んで大事になさいました。煩悩に使われることを脱したひとです。自分に帰っていきるひとです。お念仏があれば、煩悩はあっても差し支えない。むしろ、煩悩を起こすから覚めるきっかけになる。けれど、煩悩がわからなければ煩悩に使われる。使われて人生が終わってしまう。そこにお念仏があるということで分かれます。お念仏は自分が仏さまに照らされるということです。

追記 煩悩饅頭の本体は、はくい門内製菓さんのみそまんじゅう。