2013年9月29日日曜日

「風立ちぬ」みた。

 今日は予定がないので娘と映画。黄色いのが二つ出てくるギャグCGアニメと宮崎駿の「風立ちぬ」、娘とYoutubeで予告編をみて「どっちにする?」と尋ねると「風立ちぬ」がいいと言う。内容がこども向けでないのは知っていたが本人の選択、ま、いいかと「風立ちぬ」を観にいきました。「風立ちぬ」は封切り当時話題になったから観た人も知っている人も多いと思いますが、零戦の設計者のはなし。内容が戦争を否定していないのでけしからん、零戦、戦争の道具を美化していると言われてネット上でも議論になった作品です。遅ればせながら私も「風立ちぬ」を観てみると、確かにたいして良いとも悪いとも言わず、戦争についてはサラリと流している感じ、控えめに戦争を否定しているのだけど戦争反対、過去の戦争に対する反省と言う姿勢は表に出て来ない。話の主軸はあくまで技術者たちの人間模様です。しかし、そうやって「戦争は悪い」とか「戦争は格好よい」とかのことを横に置いておいたことで表現できたことがあり、宮崎駿さんは最後の作品でそれをやりたかったのだろうと想像します。
まず戦争反対ということですが、私も個人的に戦争反対には賛成。お釈迦様は自分の祖国が滅ぼされることになろうとも一切の武力抵抗をなさらなかったお方なので、さすがにお釈迦様の姿勢について行く自信はありませんが、小説、映画、経験されたひとの話、ゲームを通して戦争を想像した限りは理由にかかわらず戦争はすべきではないことと考えます。しかし、その戦争反対という大義も、それが絶対不可侵、疑うべかざるものになってしまうと人間を縛り、硬直させ、果ては人間を抑圧するイデオロギーになってしまうのです。敗戦国日本において戦争に関連した作品を制作する際には、その戦争に対する反省の姿勢が踏み絵のようにのしかかって、作品を陳腐な反戦作品に貶めようとするバイアスがかかることになっていると思います(全ての反戦作品が陳腐と言っているわけではありません)。だから宮崎駿さんはあえて反戦という表現を映画の脇に置いたのだと思います。
 お釈迦様は何事も疑う姿勢を持ちなさいとおっしゃいました。お釈迦様のお説きになった仏法でさえもです。親鸞さんは善悪を離れよとおっしゃいました。何事にも勝る善は念仏することであり、念仏することとは阿弥陀さんのはたらきを信じて身を投じることです。どんなに立派でステキなことでも、それが絶対不可侵のものになってしまうと人間を抑圧するものになる。だからお釈迦様は極端を離れて中道を歩みなさいと教えられました。大切なのは正義でも正解でもなく疑うことのできる流動性なのです。そしてその疑って疑い抜いた果てにしか阿弥陀さんの願いへの信はない。ですから、戦争反対という大切な主張でさえもそれを絶対なものにして振りかざすとろくなことがないのです。だから私は「風立ちぬ」という作品には賛成。きっと宮崎駿さんは反戦でないギリギリのところを意識してつくられたのではないでしょうか。
 ところで、私は映画のなかで三度ほど泣きました。一つめはもう忘れちゃいましたが、二つめは結婚式のところ、三つめは最後零戦がたくさん飛んで行くところ。技術者のひとが心身を削って追い求めた零戦は美しい、そしてその零戦によって命を失ったひとが沢山いる。私は詳しくは知りませんが零戦で特攻に出て死んだ若者も沢山いるでしょう。人間がおるのは善や悪や美や醜が入り交じってごちゃごちゃになったところです。戦争は悪い、人殺しの道具はすべからず邪悪であると主張する極端なひとがいる一方で、高性能な戦闘機に憧れ、殺傷の道具にドキドキする自分がいる、その善い人になりたいと思いながらもそう振る舞うことのできない自分の姿を見つめるところから本当に生きるという姿勢が生まれてくるのではないでしょうか。「風立ちぬ」最初のほうから主人公の夢に登場するイタリア人設計者、このひとの語ることが狂っているようであり、純粋なようであり、善悪というものを通り越して宮崎駿さんが描こうとしたことを象徴していると思います。
 最後に、「風立ちぬ」は日本がまだ技術的に西洋に劣っていた時代のはなし、無我夢中で努力する技術者の話をとおして、不況と震災を経た日本に「がんばれ、元気だせ」って言っているように感じました。

2013年9月27日金曜日

わるいことは、わるいことじゃない。

 人間、生きていれば楽しいことも、苦しいこともあります。テレビやインターネットの広告をみるかぎりは楽しいことでちりばめられているような現代社会ですが、困った事にこう楽しいことの勧誘が増えると「楽しくなければ人生でない」という思い込みに縛られるようになります。ほんとうのところは、生きていれば楽しいことより苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、不満なことのほうが多いのだと思います。お釈迦様は「一切皆苦」とおっしゃいましたし、親鸞さんは「生死の苦海」と申されました。もし「人生苦しいんです」ってお釈迦様、親鸞さんに相談することができるのなら「そうだよ!普通は苦しいんだよ!気がついた!?」って言われてしまうのだと思います。そこを「人生楽しくなければ意味がない」なんて思い込んでしまうと、生きることに伴う苦しみは10倍、いや100倍になるかも知れません。
 話がすこし脱線してしまいました。とにかく私たちは、日頃から自分にとってよいことがあるようにと願って、そのために努力して生活しております。そして、自分にとって苦しいことを嫌い遠ざけて、苦しいことが避けられぬときは嘆いているのですが、仏さまの眼からみれば、よい、わるいと嘆くのは人間が無明であり、真実が見えておらんからだということになります。無明とは何も知らないということではありません。何事も知ることのできないということを知らんということです。物事を知ったつもりになって、その偏った視点でしか世界をみることができなくなっている状態を無明というのです。
 私を含めたこの世界は、複雑な縁起の関係性のうえに成り立っております。何が因となり、何が果となるか、それは人間の考えでは計ることのできないものです。先ほど人間は自分にとってよいことを望んでいると書きましたが、順調すぎる人生を歩んで、それで虚しくなって麻薬に溺れたり、自死を選ぶ人間もいるのが事実です。自分にとってとても苦しかったことが、自分が生きる力を得てゆく縁となったということはありませんでしょうか。私を支えるのは楽しいことではなく、むしろ苦しいこと、悲しいこと、辛いことなのではないでしょうか。その苦しいことも受けとめてゆく安心を得るのが仏の智慧であります。
 どれだけ成功した人生を長生きしてみても、自分が今生きておるという存在に向き合うことがなければ、その人生は虚しいものです。自分の存在の事実に向きあわなければ、よそ見をして酔っぱらっておるようなものです。そして、いつまでも酔っぱらっておるというわけにはいかないのです。私は生まれて、そして必ず死に至る存在である。病めば苦しい、老いれば辛い、別離は悲しい、その苦しみの起こってくるもと、自分の心に向き合って、わたしの心が安まり定まるよう尽くすこと、死んでからでなく生きてこの身があるうちに仏となること、これがなければどれだけ煌びやかで華々しい人生を送ったところで虚しいのだと思います。
 虚しくない人生を生きるためには、阿弥陀さんの声を聞いて、自らの存在に安心を得るしかない。われながら説教くさい言い方と思いますが、他に方法が思いあたりません。

あっ!法話とは別名お説教でしたね。

2013年8月28日水曜日

仏教の信心

 宗教というと信じるものだと考えていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。実はお釈迦様は仏になる方法をお説きになられましたが「信じなさい」とはおっしゃいませんでした。あれれー、宗教というものは信じるところから始まるものと言いますが、全然宗教らしくないではないですか。それに親鸞さんは信心っておっしゃっている。お釈迦様と親鸞さん、どうなっているの?そこのところについて書いてみたいと思います。
 今時、宗教って言って思い浮かべられるものは、神サマ仏サマって超越者がいて、その超越者にお願いするものということだと思います。神サマ(ここからは神サマだけを例に考えます、仏をいれると話が複雑になりますから)にお願いするためには、最初に信仰がないといけない。神サマは自分を信じたひとをなんとかしてくださる、という形だと思います。宗教の種類によっては神サマに寄進するお金が多いほどご利益があるとか、修行したから、聖典をよんだから、勉強したから救われるという形もあります。これがごく一般的な宗教を信仰するというイメージだと思います。
 お釈迦様はまず信じなさいとはおっしゃいませんでした。「別に仏教徒にならなくてよいから話を聴いて」というふうに他宗教のひとたちにも教えを説いていたそうです。そして、お釈迦様の教えには特別な能力を持った超越者は登場しません。仏とは悟った人間のこと、仏とはひたすら崇めるものではなくて人間がなるものです。ですから正確には「仏さまお願い」というのは仏教ではないのです。日本でも平安時代までの仏教では、信じることよりも戒律をまもり(戒)身心を調え(定)自分の都合をなくす(慧)ことに重きをおいてきました。それを「わたしなどは戒−定−慧の三学を実践できる身ではありません」とカミングアウトされたのが親鸞さんの御師匠法然さん。たくさんのお坊さんは修行して経典を読んで悟ればよいかも知れないが、そのような行のできない、またその能力もない多くの人間はどのようにして仏となれるのか、と問うたのです。そして、法然さんがお釈迦様のたくさんの教えの中からこれだと選ばれたのが阿弥陀仏の本願によって仏となる教えでした。自らによらず阿弥陀仏の本願にたのめ、あずけよという教えです。この阿弥陀仏の本願、みなさんひとり残らず仏となってくださいという願いを信じることが信心であるのです。阿弥陀仏を信じて頼むというのとはちょっと、いやかなりニュアンスが違います。
 たまに阿弥陀仏信仰を、ほんらい無神教であった仏教を一神教の教えにかえしたというふうに説明されるひとがおりますが、阿弥陀仏信仰は一神教ではありません。
阿弥陀仏とは、お釈迦様の発見した縁起、龍樹菩薩の説かれた空、その、すべての事柄は私の考えたとおりにならないという真実にあって、その考えたとおりにならない身のまま仏にするというはたらきのことを言います。私が縁起によって起こっているという自覚を持ち、縁起による実存にハッキリと目覚めることであります。ところが自分の能力、自分で考えた善行というものに執っているとなかなかその眼が開かない。その自分というものを手放すための必殺ワザが他力の信心なのです。「仏を信じたから助かるのでない、信じることは助けの因ではない、仏のお助けを信じるのだ、それで助かっているということを味わうことができるのだ。」ということなのです。
 一般的に考えられる神サマと私の関係では、神サマを信じたからいいことがある、救われるというふうにみられますが、そのように信じたから救われる関係は取り引きの関係です。そして結果的には盲信して神サマに従属する人間を生み出してしまいます。自ら考え、自ら感じ、自らの足で歩むことを止め、神サマの奴隷になってしまうのです。お釈迦様はそのような思考停止すること、奴隷になることを執着だと言って、それが惑い苦しみの生まれてくるもとだと明かしました。ですから、阿弥陀仏信仰も、阿弥陀仏を神サマのような超越者にとらえて信仰し、頼むなら困ったことになってしまいます。阿弥陀仏は人間を奴隷にするものではありません、逆に人間を硬直させ思考停止に陥らせるものから解放する教えです。ですから「まず、信じよ」ではないのです。親鸞さんのおっしゃった他力の信心とは阿弥陀仏の願いに眼がひらいたということです。親鸞さんの教えでは信じることから始まるのではないのです。信じることができるようになることが目的なのです。それを信楽(しんぎょう)とおっしゃっています。正信偈には「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」とあります。「信楽を得ることは難中の難」だということでございます。でもめざすべきはハッキリいたしました。仏教の信心ははじめにあるのではなく、仏になることなのです。

2013年8月27日火曜日

信じてます?

 「私は仏さまも神さまも信じていません」今時はこのようにサッパリとおっしゃる方が多いと思います。これを無信教と言いますが、そのわりに占いごとに一喜一憂し、なにかあるとお祓いをして、家など建てるときには方角を気にしたりします。どうして気にするのかというと不安だからだと思います。仏さまも神さまも信じていませんと言ってみても、曖昧模糊とした不安はなくなりません。信じていないと言いながら潜在的に気にするのですからもっとたちが悪いのかもしれません。
 お釈迦様は「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともに捨てた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう」(スッタニパータ)と、お教えになりました。祈祷、占い、縁起をかつぐこと等は、根本的な問題の解決にならないばかりか、さらに眼が曇って惑うことになるから、正しく道を歩むためにはそれらの事柄を捨てさらなければならない。と、お教えになられたのです。
 親鸞さんは「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」正像末和讃(真宗聖典509項)と和讃にうたわれております。僧侶も世俗のものも、良い時良い日に執われ、天のの神や地の神を崇めつつ、占いや祈りごとに余念がありません。なんとかなしいことだ。とおっしゃっています。もともとは占い祈祷、方角等のことは、これでいいというものがないと不安であるからつくられた文化的な慣習であるとおもいます。しかし、そうした慣習はつぎに人間を縛り惑わせることになります。そうした慣習によって自分を失いふりまわされる人間の姿を親鸞さんはかなしいとおっしゃったのです。
 仏法は惑いと苦しみのもと、執着することを離れる教えです。常に人間を執着から解放して自分の存在を獲得してゆくことを目指す教えです。惑いごとから離れて、縁起によって生じている自分自身の存在を発見することによって安心を得る教えです。盲信はダメです、仏法では常に信じることと疑うことがセットになってあります。お釈迦様は全ての物事を疑いなさいとおっしゃいました。お釈迦様の説く仏法さえも疑えとおっしゃったのです。真宗の教学者金子大栄さんは「疑って疑い抜いたさきに信心がある」とおっしゃっております。仏法では「信じなさい」とはいわないのです。お釈迦様なんて「別に信じなくてもいいから私の話を聴いて下さい」って言ってたそうですから。
 仏法に依って、占いや祈祷ごと、天の神地の神の呪縛から解放された自由な道、それを親鸞さんは無碍の一道、碍(さわ)りの無い道と呼ばれました。親鸞さんのおっしゃった信心は盲信とは違います。盲信を離れて阿弥陀仏におまかせする心です。疑いつつ堅く信じるのですからちょっとアクロバティックなところもあります。疑って疑って疑いぬいてもうどうにもならんようになったところにあるのが信心です。だから執われごとや呪縛から解放されるためにあるのが仏法です。そして、人間が本来抱えている曖昧模糊とした不安、畏れをなくして下さる教えであります。信じようと信じまいと阿弥陀さんの願いは働いておるのだと言います、信じることは私の身に仏を活かすこと、あっこれは前の投稿でも書きましたね。

2013年8月19日月曜日

海の中

海のなかから撮ったもの。泡が星のようで宇宙みたい。

お念仏。

 高齢のかたにご法話するので、準備。
 仏法とはお釈迦様の説かれた教え、この世界にあって惑い苦しむひとを助ける教えであります。
 仏法で助かるというのは、惑い苦しみの原因がほどけるということです。今日は面白くないことがあった、ああ身体の調子が悪い、あのひとのことキライや、仕事に行きたくない、ああめんどくさい。私は日々愚痴と文句を言いながら暮らしております。そんな口に出さなくとも、心のなかでは一日のうちに何度も、ひっきりになしにああだこうだと愚痴もうしているのが私です、大丈夫です、それが普通なんです。ところで、そんな私が助かるには、愚痴言うもとをなんとかせねばなりません。お釈迦様が発見なされたのは、物事には原因と結果があるという、この世の中の決まりです。愚痴言う原因をなんとかすれば愚痴も言わんでよくなる。それでは愚痴言うもととはなんでしょうか、それは私の心です、心がいつも愚痴を言っているのです。その心になんとか黙ってもらう手はないものかと、お釈迦様はひじょうにたくさんの教えを説かれました。浄土真宗の宗祖、親鸞さんが選ばれたのは、そのたくさんの教えの中から阿弥陀さんの願いによって助かるという教え、南無阿弥陀部とお念仏をとなえる教えです。教学者の暁烏敏さんがおっしゃるには、阿弥陀さんに助けられるには、信じる心がないと助からないのかというと、そういうことでもない。信じる心はお助けの条件ではないのです。信じるからお助けがあるのではない、お助けを信じるのです。無条件のお助けをそのまま受け取って何事も阿弥陀さんにまかせるのが信じる心というものです。この信じる心の目が開けてはじめて阿弥陀さんのお慈悲を味わうことができるのです。ですから、私たちが仏を疑うならば、それは仏を殺すこと。仏を信じるのは仏を活かすこと。私の身に仏さまのお慈悲が働くよう仏さまを信じたほうがよいではないか。少し意訳しましたが、このようにおっしゃっております。念仏の教えは他力の教えと申しますが、そうやって愚痴言う私の心を阿弥陀さんにおまかせすることで無明の眼がひらき、助かるのだということです。
 実は、このように申しておいて、その阿弥陀さんの願いというやつが今ひとつよくわからんと日々思っているのが、今お話しているこの私です。残念なことに私にはこの阿弥陀さんの願いというものがまだよくわかりません。ですが、この頃確信を持って思うようになったことは、理屈が難しいのではない、繰り返し教えの言葉に触れることが大切なのだということです。親鸞さんも、念仏もうしてありがたい心がわきあがってこないのも、私の煩悩の深さゆえだとおっしゃっています。そして、その深い煩悩具足の身であるからこそ阿弥陀さんに助けられるのだとはっきりとおっしゃっております。御和讃にもくりかえし、念仏が一番だ、良い悪いと言うならば、念仏に勝る善はない、念仏もうせばお浄土のいちばんのところに生まれることができると書かれています。親鸞さんがおっしゃることですからたのもしいことだと思います。
 なれぬ法話をお聴きいただき、どうもありがとうございました。

2013年8月13日火曜日

仏法を聴いてよいことはあるの? 追加

 前回、仏法は人間共通の苦しみ「老病死」にたいしてあるみたいな書き方になっていました。だいぶと乱暴ですね、すみません、反省。
 仏法は人間が生きていればかならず遭遇する苦しいこと、惑うことにたいしてひらかれた教えです。善く生きるとはどんなことか、悪とはなにをもって悪とするのか、なぜ人間はストレスを受けるのか、他人にとってもたいしたことない問題にどうして私は死ぬほど苦しむのか、理想的な社会を築くなら無視できないこと、等々。
 こうしてポンポンお題が思いつくわりに いざ書くとなると大変なのですが、機会をみつけて書いてゆきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

仏法を聴いてよいことはあるの?

 人間はいろいろ望みながら、不平を重ねて、苦しいなぁと思ったり、たまに楽しいと感じることもありますが、ストレスを感じたり人生に畏れを抱いたりして生きております。望んだようになりたいと願うから 会社で出世するための本が売れ、人間関係を上手にする講演会にひとが集まり、病気が苦しいから健康についてのテレビ番組に人気が集中します。みんな熱心に健康について、蓄財について、美容について情報収集されておりますが、はて、お釈迦様の教え、親鸞さんの教え、仏法についてはどうなのでしょうか?
 どうも仏法には会社で昇進する方法は書いていないようです、健康についても医学のほうが具体的で明快です。仏法では投資のコツについてなんて教えていないですよね。それじゃあ、仏法を聴いても仕方が無い、そう思うのではないでしょうか。なるほどです。いや、広い意味ではお釈迦様の智慧は投資にも健康にも役立つだろうと、私は思いますがそこのところは話がとりとめなくなるのでやめておきます。
 それでは、仏法など聴かなくても人生大丈夫で生きてゆけるのでしょうか?いや、なんか忘れているような気がしますね。それは、いくら健康にきをつけていても病気にならないことなんてできるのでしょうか、アンチエイジングに多大な努力を重ねても老いの時計を止めることはできません、そして関わりたくないと考えていてもやがてやってくるのは死ぬことなのです。
 王子様として生まれ、不自由なく暮らし、勉強もスポーツもできてイケメンだったお釈迦様が遭遇したのも この生きていれば、時には病んで苦しみ、必ず老いて死に至るという人間の現実でありました。たいていはそのような必ずある苦しいことから眼をそらして、美味しいものを食べたり、楽しいことをしたり、きれいなものを眺めたりして心を紛らわしながら生きてゆくのですが、お釈迦様は逃れることのできない苦しみに正面から向き合って生きられたのです。お釈迦様は病気にならない身体をつくるのではなく、不老長寿の方法を実現するのでもなく、不死の存在になろうとしたわけでもありません。病気になること、老いること、死ぬこと、その他自分の思うようにならないことで起きてくる苦しい心が どうしてあらわれてくるのかと探求なされたのです。ですから、仏法が実現するのは病気になっても大丈夫、老いてへっちゃら、死ぬことも受け入れることのできる心です。だって、人間の心は厄介なものですから、健康かつ不老不死の身体を手に入れたからといって苦しまないとはかぎらないのです。ひょっとすると、永遠に生きなければならないということは、超がつくほど苦しいことかもしれないのです。そういった視点で、苦しみを起こす自らの心を深く観察してお釈迦様は悟りをひらかれました。
 そんな、人間であれば誰でも抱えることになる共通の苦しみについて、お釈迦様が説かれた教えですから、仏法を聴くということは何にも増してよいことだと申したいです。

2013年8月8日木曜日

お念仏をとなえても、、、

 真宗の宗祖 親鸞さんの教えの中心は念仏、「念仏して阿弥陀如来の本願に救われよ」ということであります。私は寺に育ちましたから、小さな頃から念仏、阿弥陀さん、本願という言葉にふれてきましたが、坊さんの教師の資格をとり、住職になり、四十半ばのおっさんになった現在でも念仏して救われるということが腑に落ちず、よくわからないことの一番として残っております。お釈迦様の縁起の法、龍樹さんの空、天親さんの唯識等「なぁるほどっ!」と自分なりに仏教の考えの深さに感嘆してきたことはあるのですが、「南無阿弥陀仏」ととなえてみたところでウソ臭く感じるばかりなのであります。などと長年思っておりましたら、親鸞さんも言っておられた。
 歎異抄の九条に、
「浄土往生の道は念仏のほかないと信じて、念仏もうしているけれども歓喜の情もうとく、浄土を思慕する心も薄い。これはどうしたことであろうか。それが唯円の思い惑っていることであった。
 その不審に対して親鸞は、自分も同様であるあると答え、そしてよくよく案じ見れば、それでこそ本願念仏の有難さが感ぜられると語るのである。よろこぶべきことをよろこばせないのは煩悩の所為であり、浄土のこいしくないのは苦悩の世界に執着があるからである。そこに悲願のかけられた人間の現実があるのである。しかればその現実を機縁としていよいよ大悲大願を仰ぎ、往生も決定と思うべきである。
 念仏はわれらを恍惚の境にに導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。」(歎異抄 岩波書店 金子大栄校注から)
 そうか、親鸞さんも唯円さんもそう感じておられたのですね、という安心とともに「だから往生も決定」ということばに大どんでん返しをされた感があります。が、最後の「念仏はわれらを恍惚の境にに導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。」というところ、とても大切と思いまるまる写しました。

2013年8月1日木曜日

フランシス・ベーコン

7月に美大の友人と豊田市までみに行きました。9月1日までやっております。
哲学者のフランシス・ベーコンではありません、画家のフランシス・ベーコンです。
でも、哲学者のフランシス・ベーコンの子孫だそうです。とにかく衝撃的な絵画作品です。フランシス・ベーコンの作品をこんなにまとまってみれる機会はめったにないのでおしらせ。

写真を投稿

文字ばかりは目がたのしくないので。

こどもにかえる。

 こどもの頃の友人と一緒にいると童心に帰ることができると言います。こどもの頃に築いた友人関係はステキなものだという言い方もできますが、仏法では人間の人格は自分をとりまくものとの縁で立ち上がると言います。すなわち、子どもの頃の人間関係に出会うから自分自身のキャラがこどもの頃になるともいえるのです。だって、小学校の頃の友人グループと、全く別の高校生の頃の友人グループに同時に出会ってしまったら自分のキャラクターの立ち位置に困ってしまうでしょ。私はそれでキャラの置き場所に躊躇したことが幾度もあります。私というものは縁起、すなわち自分と自分をとりまく状況から立ち上がってきているのです。

小さな安心

 人間は生きてゆくうちにいろいろ経験して知恵がついてゆくものです。知恵は人間どうし社会を形作ってゆくために必要なものですし、大人になるとはそういうことだと言ってしまっても過言ではないでしょう。経験したり勉強したりして「知る」ことはよいことですが、「知る」ことに常にくっついてくる困ったことが「思い込み」です。ある事柄についてすでに私は知っていると思い込んでしまう事、これをお釈迦様は「無明」とおっしゃいました。
「思い込み」は日常の様々なところに登場します。例えば「成人男子はかくあるべきだ」とか、「有名な景色は美しいに決まっている」とか、「ゴキブリは汚い」とか、いろいろ。
それで、「思い込み」にそぐわない事柄に遭遇するとなにかと不快な思いがわき上がってきます。なんで不快になるのでしょうか。
 人間は「思い込む」ことで安心を得ています。パリッとしたスーツを着て、身のこなしも言葉遣いも丁寧な人間にあうと「このひとは立派なひとだ」と思ってしまう。逆に言葉遣いも悪く、身なりも薄汚れたひとは「ああダメなひとだ」と思ってしまう。身なりや言葉遣いでひとの善い悪いまで決定することなどできないのにそう思い込んでしまう。※
キレイなものはキレイ、立派なものは立派、善いことは善いこと、こう思い切って思考停止することで社会生活上の安心を得ているわけです。ところが、この「思い込み」によって得られる安心は小さな安心なのです、とても小さく脆い安心、増して言えば深い探求に裏付けられた安心ではありませんから、私の「思い込み」にそぐわない現実の事象に遭うたびに狼狽し、翻弄され迷い苦しむことになるわけです。それでも、私は安心がなくては生きてゆけないから「思い込み」にしがみつき、「思い込み」を揺さぶるものを嫌悪し悪感情をいだきます。ときに攻撃することもあります。ゴキブリをみると放っておけないのもきっとそうなのでしょう、部屋にキレイな蝶蝶が迷い込んで来たらソッとしておくでしょう。
人間私は正しいという考え、善悪に執着して世界の実相から目を背けて生活しております。ほんとうは、私に善悪があるわけでないのです、正しいことも何なのかわかりません。この私が「思い込み」を抱えてジタバタともがいて生きているという事実があるだけです。
「思い込み」が小さな安心だと申しましたが、「思い込み」を離れることができないのも私という存在の事実であります。そのことを踏まえて親鸞さんが教えられたことは阿弥陀さんをたのめという念仏の教えです。この念仏の教えは大きな安心であろうと思います。阿弥陀さんをたのむということは、お釈迦様の智慧をもとにして 縁起に生きる自覚を持つということです。自分の生きている現実に沿って生きるのですからどんな現実に遭遇しても大丈夫なのです。仏法は幸福を求める教えではありません、安心を得る教えであります。

※ 実際には丁寧な言葉遣いというのは自分を守るためにあるものです。言葉の丁寧さで相手に敬意を示すという姿勢もありますが、丁寧な言葉遣いをして人間関係に適度な距離を置くことで自分を守るのです。ですから、誰に対してもタメ口でしかやりとりできないひとは「こいつは態度が悪いヤツだ」という「思い込み」を相手に与えて、マイナスの評価から人間関係をスタートしなければならない、それだけです。そのひとが本当にダメなひとかなんてわからない。タメ口しかきかないけどよく仕事をしてくれるひとは実際います。言葉遣いは丁寧だけどなにもしないひとももちろんいます。だから身なり言葉遣いとそのひとの善し悪しというものは本来関連性がない。「悪い印象」という「思い込み」があるだけなのです。

2013年7月27日土曜日

仏教の幸せ


 仏法、お釈迦様の教えを通して求めるものは幸福ではありません。
「えーっ!幸福こそ大事なのに、仏教駄目じゃないかっ!」と、きっとお思いですね、もうちょっと先まで読んでくださいますか、仏法では幸福はもとめるものではないのです。
 たいていは幸福と言いますと、現在の自分にないことを想定して、それを夢と言ってもいいかもしれませんが、求め追いかけるものだと思います。例えば地位のほしいひとは出世した自分を想定して、スポーツや芸術、特技で成功したい人は成功した状態の自分を想定して、結婚する、家をたてる、こどもを育てあげる、それぞれ目標を想定して、それを幸福だと考えて追い求めるわけです。そうやって目標に向かって努力することはとてもよいことだと思いますが、この追いかける幸福というものは、実現してしまうと満足するのも一瞬、あっというまに輝きが失せて、あたりまえのものになってしまって、そうそうに次の目標を見つけて再び努力を始めなければ居心地が悪くなってしまいます。目標を達成したときにあらわれる「虚しさ」に追いかけられている状態と言ってもよいかも知れません。仏教ではこのような幸福の求めかたを執着と言います。執着にはおわりがありません、つねに求めている状態で一生懸命になりますから、決して満足せず、ひたすらにエスカレートしてゆくばかりなのです。まるで底の抜けた風呂桶に水を足すようなものです。
 じっさいは、幸福は追い求めるものではなくて感じるものだそうです。安富歩さんという方が「生きる技法」という本で書いておられます。
 では、仏教の教えを通して私たちは何を求めるのでしょうか、禅僧で作家の玄侑宗久さんは幸福ではなくて「楽」だとおっしゃっています。だから極楽浄土って言うんですって。暁烏敏さんは「安心、大安心」っておっしゃっております。これも保険の宣伝文句に使われるような安心ではなくて、まさに文字通り心が安まり安定することだと思います。
 仏教が向き合っているものは、全ての人間が救われる方法です。人間の生まれの違いをものとせず、能力、才能の違いも関係なく、歩んだ人生の事実にも左右されない まさしくどのような人間でも救済に至るための方法について探求されたのがお釈迦様です。人間が生きてゆくうえで、堪え難いような苦境に遭遇するならば、その遭遇を拒否することなく受け取って、しっかり生きてゆく勇気を与えてくれる教えです。苦難に遭わないための教えではありません、人生が幸せなことばかりで満たされる方法でもありません。だけど、どんな苦境にあっても生きてゆく勇気を得ることに増した救済などあるでしょうか。
 浄土真宗の宗祖、親鸞さんの生きた時代を想像すると、ちょうど鴨長明が「方丈記」を書いた時代に親鸞さんはこどもだったのです。「方丈記」には、ひどい飢饉があって、河原がひとの死骸で埋まり、母親の息の絶えたこともわからず乳房を赤子が吸いながら寝ているという記述が出てきます。もう、どのようにしても今日明日に死ぬしかない人間の存在を親鸞さんはよく知っていたと思います。そのような時代にあって、一切の衆生が救われることを目指した「南無阿弥陀仏」の教えは、とてつもなく深いものだと思います。
親鸞さんの和讃を読めば、繰り返し自力は駄目だ、他力こそ本当だと教えております。
 自分の幸福というものを強く握りしめて生きるのではなく、阿弥陀仏にあずけて生きることの強さは、何事も人間中心の善悪で固められてしまった現代社会であるからこそ、大きな意味を持つのだと思います。
最後に真宗らしい言葉を紹介して終りたいと思います。
「夢をみない、絶望しない。ここに凡夫の自覚がある」安田理深

2013年7月20日土曜日

南無阿弥陀仏ということ

 人生で苦しいことがあればなぜ苦しいのか考える。だけど考えるには元気が必要だから、考える元気のないひとは苦しいことから目をそむけることでなんとかしている。だけど目をそむけていても苦しいことはなくならない。いつかそれでにっちもさっちもいかなくなるから、どうしようもなく追いつめられてしまうまえにやはり苦しいことと向き合って考える必要がある。大変だ、そんな元気もない。そんなときに親鸞さんがひとついいことを教えてくれている、「南無阿弥陀仏」と唱えなさいということだ。「南無阿弥陀仏」と唱えたところでちっとも苦しみが解決した気にはならないけど、親鸞さんはそれがいちばんだ、それしかないと教えておられる。本当に他には術がないのだからと。

2013年6月20日木曜日

6月2日住職継承式のはなし

現代生活とお坊さん

 本念寺、御門徒の皆さん、役につかれ世話をなさっている方々、継承式にご足労いただき ありがとうございます。
本日は、本念寺住職就任のご挨拶として、住職としてお坊さんという職務をどう考えているか、そしてこのわれわれの生きている現代社会とお寺の関係について どうあろうと思っているか、お話したいと思います。

 親鸞聖人が生きられた時代から750年あまり、科学と高度な社会システムに支えられた現代社会をわたしたちは生きております。
 この現代の生活は楽しいことの勧誘であふれています。働いて、あとは楽しいことをして余暇を過ごせばそれで大丈夫だというふうに私自身感じておったのですが、しかし、私たち人間の人生はそれほど簡単ではありません。生活のうちにいろいろな望まぬことが起こり、それに対処し、いかにしてふるまうか決定しなければなりません。ときに問題が手に余ると迷い苦しむことになります。順調に余暇を楽しむ事ができたとして、全然大丈夫ではないのです。
 お坊さん、お坊さんは仏教の教えによって悟っていて、それで人を苦しみから救済する能力があり、それでいて人格者であるという 間違ったイメージが ときに映画や小説をとおして流布されておりますが、私自身お坊さんという職種におかれて思うのは、お坊さんとは仏教の教えを人生の灯りとして生きてゆくことを選んだひとのことをいうのだと思います。ですから、お坊さんが悟っているわけでも、人を救ったりすることが できるわけでもありませんが、生きてゆく上で たとえどんなことに遭遇しても 最後まで生き抜くことのできる支えになる教え、仏法についてお話しすることはできなければなりませんと考えております。
 私たちの生きる世界は 科学がどんどん進歩して、快適になる一方で、今後増して判断に迷うことが沢山あらわれるであろう時代にさしかかってきました。再生治療の技術が発展すれば、これまで助からなかった沢山の命が助かるようになる。それはそれでありがたいことですが、癌も致命傷になるような大怪我も、再生治療で助かるようになってしまうと 今度は誰も死ねなくなってしまうかもしれません。死ねないことが 死にたいほどの苦しみになることは、ありうるでしょう。そんなどこまでも延命可能になった時代には、生きることと死ぬことについて 支えてくれる確かな教えが必要になるでしょう。人間の遺伝子の解析が進んで赤ちゃんがおなかの中にいるうちから、望むならたくさんのことがわかるようになってきました。その赤ちゃんは障害を持って生まれてくるかどうか、運動が得意かどうか、将来どんな病気にかかりやすいか、およその寿命はどのくらいか。そんなことがわかってしまって、それはよいことなのでしょうか。
 私たちが生きている今の時代は、飢えることがなく、日常的に危険にさらされることがなく、歴史上ではまれな 恵まれた時代であると思います。しかし、それでなお、迷い苦しむことが無くならないのであれば それは、物質的な満足では解決することができない問題が我々の目の前に横たわっておるということです。
 今を生きる人間に聴いていただけるようなお坊さんになることを目指すつもりでおりますので、インターネット等も使って、門徒さんの広い世代の方々に聴いていただく機会を持ちたいと考えておりますので、これからよろしくお願いいたします。