2020年6月16日火曜日

「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い。その三

普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

 前回「法蔵菩薩因位時 ~ 重誓名声聞十方」のところでは本願が説かれています。本願というのは仏が仏になるためにたてた願いです。まず、本願という願いがあって光明ということが出てきます。光明とは本願によって開かれるはたらきです。親鸞聖人は、「教行信証」の後序に「心を弘誓の仏地に樹て」とおっしゃっていますが、我々はふつう心を自分の思いにたてています。何が良くて何が悪いのか、それを自分視点とこだわりのうえにたてています。そんなのあたりまえ、では済まないです。自分の思いというのは個人の思いにすぎないのです、他人は他人の思いになる。だから人間どうしぶつかることになります。人間界ではぶつかったときに喧嘩して、勝ったほうが思いを通すということになりますが、それで全て丸く収まることはありません。負けたほうには恨みが残ります。「いまにみておれ」ということが残ります。そんなことですから、我々は争いの終わらない生活をすることになるのです。もうひとつ、人間は無常です。無常というのは無情とちがう、常に変化を続けて定まることがないというものです。社会的には、去年の自分の言動に責任が伴いますが、仏教世界でみれば去年のわたしと今のわたしは別人です。きっと、ものの見方とか、こだわりとか、微妙に変化しているはずです。そんな定まることのないもののうえに心をたてているのですから、右往左往するわけです。結婚するときに「一生大事にするから」と言って結婚したら、後で「大事にするの忘れてるじゃないか」と言われます。いや、そう言われても困るのです。結婚するときは本気でそう思ったんです。でも、現在のわたしはそうではないですから、そこを「大事にする」と無理をすると、またいろいろとストレスが出てきます。はなしが伸びましたが、我々は自分の思いに心をたてていたけれども、これがなかなか難儀なことであったと。過去の人格に囚われ縛られ自ら窮屈で視野の狭い生活に入ってゆくわけですから、苦しくなってあたりまえなのです。一方で、本願は変わらないものです。お釈迦さまが発見してもう二千五百年たったけど、生活の形もすごーく便利に変化しましたけど、本願の重みは全く変わらないものです。その本願に心を樹てたら生活が変わるということです。どう変わるかというと、安定します。心を変わらないものに樹てるのですから、その時々で右往左往するということがない。自分というこだわりからも解放されますから明るくなります。そして物事がよく見えるようになる。それまでは自分視点とこだわりを基に、ほかにも損するとか得するとか縛られて、結果窮屈なものにしか見えなかった世界が広く明るいものに変化する。ということです。
本願に立つならば、我々の一切の生活は光に満ちている。それで光明というのです。その光明を、広い明るいというだけでは漠然として要領を得ませんから、十二の光として具体的に示されているのです。その十二の光明とは、無量光 無辺光 無碍光 無対光 炎王光 清浄光 歓喜光 智慧光 不断光 難思光 無称光 超日月光になります。

無量光 無辺光 無碍光
 「無量寿経」では十二光としてあげられているけど「阿弥陀経」であげられているのはこの三つです。阿弥陀経のなかでお釈迦さまが「かの仏を何のゆえぞ阿弥陀と号する」と自分で問い、そして自分で答えられています。「かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし。このゆえに号して阿弥陀とす」。阿弥陀如来が阿弥陀と名乗る所以として無量光、無辺光、無碍光が出てきます。
 無量とはいつでも照らすということ、無辺とはどこでも照らすということ、無碍とはどんなことがあっても照らすということ、言い換えたらどんな人間でも照らすということ。その「いつでも、どこでも、どんなことがあっても」ということで阿弥陀という名乗りがなされている。これは、当然このわたしも照らされるなかに入りますね。でも、そこに「わたしは全然照らされている感じがしない」という思いが出てくるのではないでしょうか。同じことを思ったお念仏の先輩がいらっしゃいます。中国の曇鸞大師は「それでも、その光に照らされていないものがいるのはどうしてか?」と「論注」という著書で問いをたてられています。大事なのは、これは曇鸞大師ご本人の実感だということです。曇鸞大師は照らされているけど、あいつは照らされていないということではないのです。曇鸞大師ご本人が照らされていないという気持ちになったということです。なんだか曇鸞大師が身近に感じられませんか。そして曇鸞大師はこの問いに自ら答えておられます。「障りは人間のほうにあるのだ、光に障りがあるのでない」と。これは人間は光がわからない、光に気がつかないということです。喩えとして「どんな激しい雨が降ろうとも、頑石には染み込まない」という喩えを出しておいでになります。ここで頑石という表現が面白いですね。頑に頑張っているのです。頑張っているからせっかくの雨も入ってこない。我が身を指された気持ちがします。「観無量寿経」には「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」とあります。念仏の衆生というのがポイントです。念仏がなければ光明がわからないのです。念仏とは南無阿弥陀仏をいただくということです。南無阿弥陀仏をいただくと自分がわかります。それまでは、自分の思いでもって自分をわかったつもりになっていたのです。それが自分という存在の真実が、南無阿弥陀仏をとおしてわかるというのです。自分を知らないのを愚痴と言います。自分がわからないということは、もう何を与えられても満足できないということです。人生不足ばかりです。自分がわかってはじめて「ありがたい」と言える。我々からすると念仏して初めて無量光、無辺光、無碍光が自分に実現するのです。「念仏したらたすかる」これをハッキリとおっしゃってくださったのは中国の善導大師です。それではいつ念仏するのか、これは親鸞聖人が答えておいでになります。
「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」(歎異抄 第一条)
「念仏もうさんと思いたつこころのおこるとき」がそのときです。そして、光明がいただけたときにそれはどういう形になってくるのか、これも大事です。これは曇鸞大師が「論註」にあらわしておられます。
「その光、事を曜(てら)すに、すなわち表裏に暎徹す。その光、心を曜すに、すなわち終に無明を尽くす。」「その光」とは光明のことです。仏の光です。親鸞聖人はこの仏の光を「心光」とおっしゃいました。心光は何かというと、この心光にたいして「色光」というのがあります。これは我々が日常見ている光です、色とは物質のことです。太陽光も月の光も、電気の光も蝋燭の明かりも色光です。色光は事柄の表側だけを照らす、まさに我々は日頃事柄の色形だけみて生活しているのです。それにたいして心光は事柄自体を照らします。そのことが起こった背景まで含めて照らす、それが心光です。事柄がおこってくる、腹たつとか損しただとか、得したとか悔しいとか、そんな事柄が心に起こってきます。心に起こるには必ず原因があります。心光はその原因まで照らして、事柄が自分の心の迷いから起きてきたことを知らせてくれます。「終に無明を尽くす。」とありますが、無明とは、自分がわからないということです。自分をわからないから事柄にとらわれる。そして心光はそこを照らしてくださる。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるではないですか。幽霊だと思っていたものの正体は枯れたススキの穂だったということですが、ススキだとわからないうちはほんとうに怖いのです。我々を恐ろしいと感じさせるものは実は自分の心です。幽霊でもススキでもありません。だから怖いと見えれば枯れススキでもほんとうに恐ろしい。正信偈で後に「摂取心光常照護」とでてきます、自分の心でなにが起こっているかわかれば、自分の心から護られるということです。お念仏をとおしてわたしの心に仏の光が宿る。仏の光が宿っておれば迷いはじめたときに「迷っておった」と知らせていただける。それが常に照らし護ってくださるということです。我々の心は損が嫌いで得が好き、苦労が嫌で楽が欲しい、自分さえよければ他人はどうでもいい、というものだと思っています。けれども、それよりもっと深いところに、意味のあることなら損してもいいという心がある。やりがいのあることなら苦労してもかまわない、自分だけでなく皆一緒にという心があるのではないですか。親鸞聖人はこの深い心を仏性とおっしゃいました。「仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり」(唯信鈔文意)と聖人は書かれています。如来は遠いところにあるのではない。生きて働く如来は我々の心の、欲望とか煩悩とかそういうものの、より深いところにあって、私を促し、私を揺さぶって、常に働いておられる。常に「自分に帰れ」と私を促しておられる、ということです。これを招喚と言います。招喚とは自分の内から働いてくるはたらきです。外から「来い」ときたら危険です。人間の迷いを深める教えは外から「来い」とはたらきます。外から聞こえるのは「行け」という言葉のはずです。これはお釈迦さまの教法、お経のことです。自分の外にお経があり「行け」と背中を押す。自分の内に召喚がある「自分に帰れ」と呼ぶ。お念仏をとおして「自分に帰る」ことを実現するわけです。我々が、自分の心のもっとも深いところにある真の願いに目覚めるなら、生活の全体はなにもかも生きて来る、明るく広いものになるということです。それが本願の功徳、光明であります。そうして本願によって開かれる生活を三昧と言います。
 浄土の人々は「禅三昧を食とす」 浄土論 天親菩薩
食とは身を保つもの、生命を保つものです。禅三昧というのはひとつの精神生活です。我々がふつう持っているのは日常生活です。日常生活というのは用事に追われて自分を忘れ、用事が済んでテレビの前に座ったら番組に心をうばわれて自分を忘れ、時間がきたら眠たくなって自分がなくなるという生活のことです。その繰り返しのあいだに子育てして家を建てて定年になってと、いろいろなことが済んでゆくわけですが、たくさん用事を済ましたわりに自分はなにも育たない、変化しない。この日常生活というのは人間を育てないのです。日常生活の中で長年苦労したということもあるけれども、日常生活の苦労だけなら長けただけ。歳とっても結局若いときと同じことを考えている。人間を育てるのは精神生活、三昧のほうです。自分に帰り、自分というものを問う生活です。この三昧は、なくてもべつにかまわないというものではありません。たまにお母さんの人生相談とかでありますね。家を保って子育てして、私の人生何だったんだろうという話です。きっと家を保つのも子育てもそれなりにいってるんです、特別不満なことがあるわけでない。ところがそれで済まないものがある。これは大事なことです。このままではいかん、人生を求めようということです。それで仕事をはじめたり、習いごとをはじめたりとなりますが、これはほんとうは三昧を必要としているのです。自分の人生に満足や意味を求めているのですから、手っ取り早いのは聞法の場に行くことです。「人生に何か足りない」というときは仏さんがはたらいているのです。「それで満足できるのか」とはたらいておられる。大抵はそれで旅行行ったりするんですけど、きっとそれでも落ち着かないものがあると思います。そうなったら自分を問うほかにないです。お父さんもそうですね、「オレの人生何だったんだ」は日常生活だけでは不十分だとはたらきかけられているということです。
 それから、人間世界はなかなかキレイごとだけでは渡っていけないということがあります。正しく生活してゆきたいのだけれどもできない。能力的にも立場的にも理想的にふるまえないということがある。これも精神生活なしではやっていけないでしょう。人間は理想をあきらめると生命力がはげしく消耗します。いっぽうで理想を頑張ったらその場所に居られないということもある。たいていはどちらか一方に落ちるのですが、ここに三昧を持つことによって生活を保ってゆくということがある。日本に仏教を輸入された聖徳太子は政治家でありました。太子はひじょうに誠実なかたですが、政治はきれいごとだけでは済まない世界ですから、朝廷にあるときは自分を投げ出さざるおえないものがあったのではないでしょうか。それをようやく取り戻されたのが夢殿です。あの夢殿がなければ太子は生きてゆけなかったのではないでしょうか。そういうことで三昧、精神生活ということは人間にとってなくてはならないものということになります。
 人によってはいいこと言うひとがいますね。生活を深くみておられて、それで味わい深いことをおっしゃる。これは三昧がなければそんな人は出来上がりません。そんなひとのことを魅力的な人だと思うのではないですか。一方で、借りてきた言葉で話す人間には魅力がないです。それはきっと、人間として独立していないのです。知識があっても地位があっても独立していない人間は肩書をたよりにします。知識の量で相手を圧倒しようとします。「へー、なるほどー」とは思いますがそれだけです。人格ということがありますが、格があがるのは深さによってあがるのですね。そういう人間をつくるのが精神生活というものだと思います。三昧がなければ百年生きても自分というものがないのです。見たもの、聞いたこと、考えたことに振り回されて、それで生涯が終わってゆく。親鸞聖人は念仏三昧という三昧を我々に教えてくださいました。念仏三昧とは南無阿弥陀仏と沢山唱えることではありません。お念仏は仏に自分を問われる、自分自身が自分を問うてゆくということです。そのような時間を一月のあいだに一時間でも持つということが大事です。

無対光 炎王光
 無対光は比べるものがないということ。阿弥陀仏の光明に照らされたものは他のどんな菩薩の智慧よりも優れた智慧が与えられると言うことです。「一切諸仏の智慧をあつめたまえる御かたちなり」(唯信鈔文意)と親鸞聖人はおっしゃいます。阿弥陀仏は諸仏の智慧の全部を集めて身につけておいでになるということです。その諸仏も阿弥陀如来によって生まれた仏です。それで仏を仏にする仏ということで炎王光という。ですから、あちらの仏、こちらの仏と迷う必要がない、安心して念仏の道を歩めと言うことだと思います。この二つが対になっています。

清浄光 歓喜光 智慧光
 この三つもセットです。清浄光、歓喜光、智慧光というのは結果です。結果にはもとがあります。「教行信証」の総序の文に「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」とあります。「円融至徳の嘉号」とは南無阿弥陀仏のことで、南無阿弥陀仏によって悪が消えるのではない、悪が転じて徳になるのだと言われるのです。
「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」(高僧和讃)
というのを聞いたことはありませんか。障り(往生の妨げ)全体が転じて徳になる。これがお念仏なのです。清浄光、歓喜光、智慧光になる障りとは煩悩です。煩悩と言ったら百八つと言いますが、代表的なものにまとめたら三つになります。貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の三つ、まとめて三毒といわれるものです。貪欲はむさぼりの心、欲深いということです。欲深くなると人間はいやしく汚くなります。その貪欲を起こしたことを縁として、ろくでもない心を起こしていたとわかったときに、貪欲が清浄に転ずるのです。貪欲がなければ清浄も出てきません。人間は貪欲を起こしてしまうものですけど、その度に知らせていただく。それが清浄光のはたらきです。瞋恚は怒りということです。怒りはどこから生じてくるかというと、自分を知らないというところから生じてきます。どう自分を知らないかというと、自分は正しいと考えている。それから、自分はそれなりに賢いと考えている。そんな自分のこと賢いだなんて思っている人はおりませんよと言われるかもしれません。そういうときは、ちょっと「おまえ、本当に頭わるいな。」と言ってみてください。みんなカンカンになって怒るか、ムッとした顔になりますから。愚かというのは知識がないということを言うのではないです。自分がわからない人間を愚かと言うのです。人間は無根拠に自分は正しいと思っているのです。そこに根拠がないということがわからない。だから人と意見が違えば腹がたちます。喧嘩して自分の意見を通したくなります。外国から入ってビジネスでいわれるものにディベートというのがありますね。ディベートとは、相手を説得する技術です。不毛なことをすると思います。ディベートの結果は相手を屈服させるか、相手を洗脳するかくらいです。人間がそんなことしたらとんでもない業が残ります。短期的には勝利者になっても長期的には起こした業でがんじがらめになって壊れます。仏教で言う因果律とはそういうものです。他人と話をするなら、自分も相手も立場を離れて意見をつきあわせることです。勝たなくともいい。理想的な学会というものはそういうものだと聞いています。そうやって意見を交わすことで生産的な実りを得るのです。話がそれましたが、自分に根拠がないと知れば腹立てる理由もなくなります。怒りということは、怒りという感情にグルグル巻きに縛られることですから、自分を知って怒りが溶かされたところに開放感がやってきます。それで歓喜光という。最後は愚痴、実はこの愚痴が全ての煩悩のもとになります。内容は、ほんとうを知らないということ。そして、自分を知らず、それどころかよく知っていると勘違いしていること。親鸞聖人は自ら愚禿親鸞とおっしゃいます。愚かで髪の毛も中途半端、坊さんとして剃っているでなし、在家として生えそろっているでなしということです。親鸞聖人はこれを名乗りとされた。名乗りとはそれを看板にして生活してゆくということです。愚痴が愚痴だとわかったら智慧です、だから智慧光。我々は自分の愚かさが理解できない。そのために智慧が生まれてこない。この頃は理解できないどころか欲の深さを誇ったりすることもありますね。「人生長生きしたけど欲が無くならなくってね、困ったもんです」と自慢されて、住職は「それは元気でお若い証拠ですぅー」とおべっか言ったことがあります。恥ずかしいことですね。そういう調子いいこと言ってるのをホントのクソ坊主と言うのだと思います。
清浄光、歓喜光、智慧光のポイントは、「転じて」ということです。煩悩を捨てることができないけれども道はあるわけです。その唯一の道がお念仏ということです。

不断光
 これは一つだけの光明です。お念仏とは人生をとおした求道ということでありますが、求道というのはそんな順調なわけでなく、なんべん聞いてもピンとこない、わからないということがあります。そんなとき、人間はくたびれて求道をやめてしまう。そしてやめると折角歩んだことが全部帳消しになる。これを退転と言います。大乗仏教の求道者を菩薩と言います。菩薩は苦難を恐れません。苦難を通して自分がわかるということがありますから、苦難が好きというわけではないでしょうけど、とにかく苦難を恐れない。しかし退転ということを恐れます。せっかくやったことが無になることです。安田理深という先生がおられました。安田先生は求道ということについてこんなことをおっしゃっています。うろ覚えですが、「食えないという問題は死ねば解決する、しかし空しく過ぎたという問題は死んでも解決しない」という言葉だったと思います。親鸞聖人の御和讃に「光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆえなれば 心不断にて往生す」というものがあります。心が不断でなければ往生はできない、そしてそれは聞光力のおかげだと。聞光力というのは仏の言葉を聞いた力です。これは人間の力ではありません。教えを聞けば聞いた教えの力が人間を動かしてくるということです。よく聞くほど継続して聞く人間になるのです。それで不断光といいます。

難思光 無称光 超日月光
 難思光、無称光が対です。難思というのは思いを超えたということです。親鸞聖人は「唯信鈔文意」に「法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり」とおっしゃっています。この「こころもおよばれず」というところが難思、人間の思いを超える光、我々の分別を超えた光ということです。無称とは「ことばもたえたり」言葉を超えるということ。つまり人間の思いも言葉も超えた光だということです。我々はいつでも分別を頼りにして生きています。いいとか悪いとか、キレイとか、分別することなしに我々の生活は成り立たない。それから、我々は人と通じあう時には言葉で通じあうし、我々の世界にあるものはどんなものでも全部言葉になっている。そのために我々は言葉に引っかかるのです。言葉に縛られて、その言葉になっているものがほんとうにあるのだと思ってしまう。我々は部屋をながめてあぁ椅子がある、テーブルがある、飾り棚があると思いますが、猫からみれば全部のるものです。ほんとうは全てのものは言葉を超えたものです。豊かなものです。蝶々はキレイで蛾は汚いと人間は分別しますが、蛾だって美しいものを持っている。それが昆虫学者か芸術家にでもならなければそういう世界が開けてこないのです。我々の世界はなんでも小さく狭めて決めつけた世界です。それで窮屈なのはあたりまえです。ほんとうの世界は思いを超えている、言葉でつかむことができない。それほど豊かで広いものはない。その世界を開くのが難思光、無称光です。人間はなんでも捉えて、わかって、決めたがりますが、本来は捉える必要も、わかる必要も決める必要もないものです。わかったものからわかる必要もないところに帰ればいい。帰れと呼びかけているのが南無阿弥陀仏です。本願召喚の勅命ともいいます。
 最後に超日月光。我々にとっていちばんおおきく強い光は太陽光でしょう。そのつぎは月です。それ以上に強い光を体験することは我々にはまずありません。それを超えた光だと喩えてあるのです。どこでも照らす、そして人間のどんなわずかばかりの迷い心でも照らしてくる。だから教えを聞けば聞くほど自分の心がはっきりしてくる。細かいところまで見えてくる。それだけ強力な光だということで「一切の群生、光照を蒙る」といって十二光を収めてあるのです。

 今回はほんとうに長文になりました。実は昨年六月二十日の「正信偈のなかみ」でお話しなかったことが沢山ふくまれています。毎回一時間にするというのが「正信偈のなかみ」の決め事ですから、十二光のところは大幅にまとめる必要があって、無量光、無辺光、無碍光に重きを置いた内容でした。それを今回十二光全てをそれなりに書くことで昨年のお話の補足ができたと思います。結果、よかったです。何度も紹介していることですが、住職の「正信偈のなかみ」には基があります。仲野良俊先生の「正信念仏偈講義 一巻~三巻」です。今回のおさらいは長文ですが、仲野先生のものはもっとボリュームがありますから、長文と言わず読んでいただけるとさいわいです。今日六月九日現在、新型コロナウィルスの緊急事態宣言が解除されて、石川県では感染の拡大が無いようです。六月のうちは様子をみて、できれば七月に「正信偈のなかみ」を再開したいと考えています。もちろん、ソーシャルディスタンス、手洗い消毒などを守った形での再開です。

二〇二〇年六月九日 本念寺 住職

今月まで「正信偈のなかみ」はお休みします。

 新型コロナウィルスの緊急事態宣言が解除になって、石川県では何ごともなくすんでいます。そろそろというお声も聞くのですが、「正信偈のなかみ」は大事をとって今月までお休みします。なので、6月18日の「正信偈のなかみ」はお休みです。
7月から(7月16日木曜日)コロナ予防に気をつけて再開したいと考えております。
「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い 。その三を書きましたので代わりにお読み下さい。

本念寺 住職

2020年6月2日火曜日

気にすること

 我々はいろんなことを気にします、評判とか、見かけとか、体裁とか。しかし、これは人それぞれに違って、ある人がとても気にすることが違う人は平気だったりします。だから、気にしない人は言うのです。「そんなの気にしなければいいじゃん」と。しかし、それで解決にはなりません。だって、気になって仕方ないからです。そもそも気にするのではないのです。気にするんだったら気にしないことも自分でできます。しかし、実態は気になるんです。気になるのですから「気にしなくていい」と言われても解決しないのです。腹をたてるのもそうですね。腹はたつのであって、たてるものではない、あんな自分も他人も嫌な思いをすること、腹をたてないでいられるなら、たてないに越したことはありません。でも、腹はたつのです。これが我々人間という生き物です。
 どうしてそうなるのか、考えとしては気にしたくないのに気になる。腹をたてたくないけれども腹がたつ。それは自分が自分の心に縛られていると言うことです。人間は自分の心なんだから自分で自由にできると勘違いします。しかし、実際は自分の心に縛られ振り回されるのです。そのことがひとつ分かっただけでも楽になりませんか?気にしてはいけないと考えるとなおさら苦しい、だって自分で自由にできないことを自由にしようというのですから無理がでる。気になるものは気になる、腹がたつものは腹がたつ。そうやって受け取るだけで多少は楽になるのでないですか。
ところで、何がどうなってそんな自分の心に縛られるようになったのでしょう。人間は経験したこと、自分で行動したこと、心のなかで思ったことによって未来の自分をつくります。社会的な地位を獲得することが自分の目標であり、自分の人生の価値であるという生きかたをすれば、地位というものにつよく縛られ、振り回される人間になります。容姿端麗な人は羨ましいですけど、容姿を維持するのはなかなか苦労なことですし、何より老いて容姿を失う苦しみはとても大きいでしょう。お金が大事なら、お金で苦労すること決定です。お金で苦労するというのはお金がないということだけではありません。お金があるがために利益目的の人間ばかり近づいて来るかもしれないし、財産分与で家族が壊れる可能性もある。さらにお金を失う不安も背負います。地位をもとめるな、容姿なんてあてにならない、お金を大事にしてはいけないと言っているのではありません。地位というものは人間社会を動かすために必要なかたちです。誰かが大事なところを務めないと社会は動かない。できれば地位のある人を尊敬できる社会に住みたいものです。容姿もひとそれぞれですから、カワイイとか、綺麗とか、かっこいいって、やっぱり心がキュンとなるのでいいじゃないですか。お金のことをけなすと「それじゃおまえはお金がいらないのか」という論理で来られることがありますが、お金は人間生活をするために必要不可欠なものです。お金にはキレイも汚いもない。ただ、お金をみる人間の心にはキレイもあるし汚いもある。それだけです。仏法というものに照らしたら、その、地位とか、容姿とか、お金とか、それがいいとか悪いとかではなくて、そればかりに執着して縛られると生活世界が暗く不安で狭いものになってしまいますよ、ということが出てくるのです。地位も容姿もお金も価値あるものですが、それが生きているということを超えることはありません。どうしてか、それは地位も容姿もお金も人間が思ったこと、造ったことだからです。我々人間の生活には大事にすべきもの、気になるものがたくさんありますが、すべて生きているという存在事実を超えるものはありません。だから、地位を失っても生活はあります。容姿が衰えても全てがなしになるわけじゃない。お金も、ないと苦しいですが、それはご飯を十分に食べれない苦しみでしょう。お金がないだけならばそれは苦しみではない。だから、地位があっても容姿端麗でもお金持ちでも、それに縛られていない人は明るくてひろいと思います。それではどうしたらそんな人間になれるのか、ということではありません。未来の自分は経験したこと、行動したこと、思ったことでつくるのですから、何かと独りよがりになりがちな、迷いがちな自分というものを、分かりながら生活する。これしかないでしょう。「自分がわかった」これを浄土真宗では信心と言います。人間は自分知らずなのです。無根拠に自分が正しいと思い、人生でほんとうに求めるべきものを求めず、人間の欲望に支えられているものを取っ替え引っ替え求めて人生の間中うろうろする。それを流転と言います。流転には終わりがありません。別の言葉で無窮(むきゅう)と言います。終わりなく満足なく安心なくです。それで親鸞聖人は「本願の名号(わたしをたすけるはたらきの名前)は正定の業(かならず満足と安心を得られる道)なり」とおっしゃったのであります。浄土真宗は念仏ですが、念仏とは南無阿弥陀仏、「自分というものを知れ」という仏さまからの呼びかけに耳を向けることです。聞法ということもあります。その字のとおり法を聞くのです。法を聞いて自分が照らしだされる、わかる。気になることがある、そしたら「どうしたらいい」ではないのです。気になることは法に照らすのです、自分ごと法に照らす。それが聞法ということです。そういう生活が人間を自分の思いから自由にします。心が柔軟で、苦労が小さく、虚しいということが無くなる生活です。薫習(くんじゅう)ということがあります。経験したこと、行動したこと、思ったことが薫りとして心のもとに染み付くのです。薫習はいいことだけとは言えません。自分の思いに執着して迷えば、迷いが薫習として染みます。地位ばかりにこだわり、容姿ばかり気にして、お金ばかり大事にせざるおえない人間をつくるのです。だから、毎日の生活が要注意です。どうしようと迷ったら、聞法です。それが念仏者の立場です。明るく気分良く生活したいのであれば聞法です。