2013年9月27日金曜日

わるいことは、わるいことじゃない。

 人間、生きていれば楽しいことも、苦しいこともあります。テレビやインターネットの広告をみるかぎりは楽しいことでちりばめられているような現代社会ですが、困った事にこう楽しいことの勧誘が増えると「楽しくなければ人生でない」という思い込みに縛られるようになります。ほんとうのところは、生きていれば楽しいことより苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、不満なことのほうが多いのだと思います。お釈迦様は「一切皆苦」とおっしゃいましたし、親鸞さんは「生死の苦海」と申されました。もし「人生苦しいんです」ってお釈迦様、親鸞さんに相談することができるのなら「そうだよ!普通は苦しいんだよ!気がついた!?」って言われてしまうのだと思います。そこを「人生楽しくなければ意味がない」なんて思い込んでしまうと、生きることに伴う苦しみは10倍、いや100倍になるかも知れません。
 話がすこし脱線してしまいました。とにかく私たちは、日頃から自分にとってよいことがあるようにと願って、そのために努力して生活しております。そして、自分にとって苦しいことを嫌い遠ざけて、苦しいことが避けられぬときは嘆いているのですが、仏さまの眼からみれば、よい、わるいと嘆くのは人間が無明であり、真実が見えておらんからだということになります。無明とは何も知らないということではありません。何事も知ることのできないということを知らんということです。物事を知ったつもりになって、その偏った視点でしか世界をみることができなくなっている状態を無明というのです。
 私を含めたこの世界は、複雑な縁起の関係性のうえに成り立っております。何が因となり、何が果となるか、それは人間の考えでは計ることのできないものです。先ほど人間は自分にとってよいことを望んでいると書きましたが、順調すぎる人生を歩んで、それで虚しくなって麻薬に溺れたり、自死を選ぶ人間もいるのが事実です。自分にとってとても苦しかったことが、自分が生きる力を得てゆく縁となったということはありませんでしょうか。私を支えるのは楽しいことではなく、むしろ苦しいこと、悲しいこと、辛いことなのではないでしょうか。その苦しいことも受けとめてゆく安心を得るのが仏の智慧であります。
 どれだけ成功した人生を長生きしてみても、自分が今生きておるという存在に向き合うことがなければ、その人生は虚しいものです。自分の存在の事実に向きあわなければ、よそ見をして酔っぱらっておるようなものです。そして、いつまでも酔っぱらっておるというわけにはいかないのです。私は生まれて、そして必ず死に至る存在である。病めば苦しい、老いれば辛い、別離は悲しい、その苦しみの起こってくるもと、自分の心に向き合って、わたしの心が安まり定まるよう尽くすこと、死んでからでなく生きてこの身があるうちに仏となること、これがなければどれだけ煌びやかで華々しい人生を送ったところで虚しいのだと思います。
 虚しくない人生を生きるためには、阿弥陀さんの声を聞いて、自らの存在に安心を得るしかない。われながら説教くさい言い方と思いますが、他に方法が思いあたりません。

あっ!法話とは別名お説教でしたね。