2013年9月29日日曜日

「風立ちぬ」みた。

 今日は予定がないので娘と映画。黄色いのが二つ出てくるギャグCGアニメと宮崎駿の「風立ちぬ」、娘とYoutubeで予告編をみて「どっちにする?」と尋ねると「風立ちぬ」がいいと言う。内容がこども向けでないのは知っていたが本人の選択、ま、いいかと「風立ちぬ」を観にいきました。「風立ちぬ」は封切り当時話題になったから観た人も知っている人も多いと思いますが、零戦の設計者のはなし。内容が戦争を否定していないのでけしからん、零戦、戦争の道具を美化していると言われてネット上でも議論になった作品です。遅ればせながら私も「風立ちぬ」を観てみると、確かにたいして良いとも悪いとも言わず、戦争についてはサラリと流している感じ、控えめに戦争を否定しているのだけど戦争反対、過去の戦争に対する反省と言う姿勢は表に出て来ない。話の主軸はあくまで技術者たちの人間模様です。しかし、そうやって「戦争は悪い」とか「戦争は格好よい」とかのことを横に置いておいたことで表現できたことがあり、宮崎駿さんは最後の作品でそれをやりたかったのだろうと想像します。
まず戦争反対ということですが、私も個人的に戦争反対には賛成。お釈迦様は自分の祖国が滅ぼされることになろうとも一切の武力抵抗をなさらなかったお方なので、さすがにお釈迦様の姿勢について行く自信はありませんが、小説、映画、経験されたひとの話、ゲームを通して戦争を想像した限りは理由にかかわらず戦争はすべきではないことと考えます。しかし、その戦争反対という大義も、それが絶対不可侵、疑うべかざるものになってしまうと人間を縛り、硬直させ、果ては人間を抑圧するイデオロギーになってしまうのです。敗戦国日本において戦争に関連した作品を制作する際には、その戦争に対する反省の姿勢が踏み絵のようにのしかかって、作品を陳腐な反戦作品に貶めようとするバイアスがかかることになっていると思います(全ての反戦作品が陳腐と言っているわけではありません)。だから宮崎駿さんはあえて反戦という表現を映画の脇に置いたのだと思います。
 お釈迦様は何事も疑う姿勢を持ちなさいとおっしゃいました。お釈迦様のお説きになった仏法でさえもです。親鸞さんは善悪を離れよとおっしゃいました。何事にも勝る善は念仏することであり、念仏することとは阿弥陀さんのはたらきを信じて身を投じることです。どんなに立派でステキなことでも、それが絶対不可侵のものになってしまうと人間を抑圧するものになる。だからお釈迦様は極端を離れて中道を歩みなさいと教えられました。大切なのは正義でも正解でもなく疑うことのできる流動性なのです。そしてその疑って疑い抜いた果てにしか阿弥陀さんの願いへの信はない。ですから、戦争反対という大切な主張でさえもそれを絶対なものにして振りかざすとろくなことがないのです。だから私は「風立ちぬ」という作品には賛成。きっと宮崎駿さんは反戦でないギリギリのところを意識してつくられたのではないでしょうか。
 ところで、私は映画のなかで三度ほど泣きました。一つめはもう忘れちゃいましたが、二つめは結婚式のところ、三つめは最後零戦がたくさん飛んで行くところ。技術者のひとが心身を削って追い求めた零戦は美しい、そしてその零戦によって命を失ったひとが沢山いる。私は詳しくは知りませんが零戦で特攻に出て死んだ若者も沢山いるでしょう。人間がおるのは善や悪や美や醜が入り交じってごちゃごちゃになったところです。戦争は悪い、人殺しの道具はすべからず邪悪であると主張する極端なひとがいる一方で、高性能な戦闘機に憧れ、殺傷の道具にドキドキする自分がいる、その善い人になりたいと思いながらもそう振る舞うことのできない自分の姿を見つめるところから本当に生きるという姿勢が生まれてくるのではないでしょうか。「風立ちぬ」最初のほうから主人公の夢に登場するイタリア人設計者、このひとの語ることが狂っているようであり、純粋なようであり、善悪というものを通り越して宮崎駿さんが描こうとしたことを象徴していると思います。
 最後に、「風立ちぬ」は日本がまだ技術的に西洋に劣っていた時代のはなし、無我夢中で努力する技術者の話をとおして、不況と震災を経た日本に「がんばれ、元気だせ」って言っているように感じました。