2014年8月22日金曜日

顔見知りのまちで暮らす

 お坊さん、園長どちらもそれなりに顔の広い職業であります。羽咋の駅前にゆけば停まっているタクシーの運転手さんたち、ほとんど顔見知りのひとです。お坊さんは役割上タクシーを利用することが多い仕事なのです。スーパーに買い物に行っても一人か二人はお寺、幼稚園を介した知人に会います。値段の高いものを買うと贅沢していると思われるかな、お惣菜なんかたくさん買うと格好わるいかな、なんてことを考えてしまいます。だから知ったひとのいない遠くのスーパーまで買いに出かけるというひともいます。私も自分が痔かも知れないと悩んだときは、わざわざ金沢市の薬局でお薬を求めたことがあります。やっぱり顔見知りの多いことは窮屈なことなのでしょうか?

 かって、移動手段が限られていた時代においては田舎に住もうと街に住もうとお互いが顔見知りであるというコミュニティを形成して生活してきました。お互いが顔見知りであるということは、常に複雑な人間関係がはたらいているということです。顔見知りのなかで暮らすと「変なひとだと思われやしないか」「立派なひとと思われたい」「陰口を言われるようなことにはなりたくない」という心が生じます。だから窮屈だと感じます。ひとが大なり小なり顔見知りのコミュニティがある故郷を離れて、誰も自分のことをしらないであろう場所に移動したがるのは、そうした窮屈さから解放されると心が楽に生活できると思っているからです。

 自分のことを誰も知らない街を一人で歩いていると、自分が暴れます。不機嫌な顔をしてもいいし、不親切なひとになることもできる。周囲の人間にたいする想像力がはたらかなくなって、傍若無人にふるまうようになります。仏教では、自分というのは記憶や経験、周囲の環境も含めた様々な縁によって生じているものだと教えています。自分の都合を適度に抑制してくれるものがなければ、とことん自分の都合が増長して迷惑な人間になる可能性が高いのです。自分のことを誰も知らない場所で暮らすと、人間は自分勝手な困ったひとになる傾向があるのです。お互い自分の都合を抑制しないから、暮らしは世知がないものになります。互いに不快の因となって怒ることの多い日常になります。

顔見知りのコミュニティで暮らすのは窮屈だ、知らないひとのなかで暮らせば世知がない、はたして、私たちはどこに住んだらよいのでしょうか。

 人に立派なひとだと思われたい、キチンとしたひとだ、ステキなひとだと印象づけたい、これはただの煩悩であります。そもそもそこまで自分のことを気にされていないのに、あれこれ自分のなかで他人に与える印象を考えて煩悶しているのが人間なんです。人の噂も七十五日ということわざがあります。たとえ噂にのぼっても七十五日しか(も!?)保たないよということです。七十五日ほおっておけば消えてなくなるものに大きく心を煩わせて暮らしているのが我々です。これは立派だとかステキだとか思われたいという煩悩のほうをなんとかしたほうがよいわけです。あのひとは変わっているなぁ、あのひとも人間だなぁという見られかたを受け入れてゆく。そうすれば顔見知りのコミュニティで暮らす心労が軽減でき、なおかつ顔見知りのコミュニティであるからこその安心のなかに暮らせるのです。顔見知りの安心、これは特に子どもやお年寄りにとっては大事なことなのではないでしょうか。

 親鸞さんは「愚禿鈔(ぐとくしょう)」で「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」と2回も書いておられます。「愚禿と名のる私の心は、その内側には愚かさを持ちながら、外見には賢く振る舞って生きていこうとしている。」という意味であります。自らを偽らず、自らに向きあって煩悩具足の自分を生きよという教えだと思います。煩悩具足の自分として生きるからこそ阿弥陀さんのお助けが活きてくるのであります。