2015年6月26日金曜日

ひさしぶりに。

 まったく更新が滞っているなぁと、たまに気づいてはいたけど、モォ10ヶ月も放置だったのですね。羽咋幼稚園のブログと、わたくし個人のツィッター、本念寺のブログと、3つはやっぱりナマケモノに荷が重い。はじめて7年目になる「ブログはくい幼稚園日日」は今年度に入ってものすごぉいアクセス数になっていて、はじめたときの想像を超えたのです。なんせ、初年度の投稿が7年かかって得た最高閲覧数(7821)を今年度の4月1ヶ月(9269)がすでに上回ってる。だから、今年は幼稚園ブログにかかって他がなかなかできない。理由はきっとスマホの普及だと思いますが、見られていると思うとおろそかにできない。それで、凍結状態だった本念寺ブログもいいわけをかねて更新しています。
 仏教とはいったい何であろうかという「問い」。先日お聞きした本多弘之先生のお話では「衆生を助けたいという願い」とおっしゃっていました。お経には、お釈迦さまが直接説かれたことを弟子の記憶で経典にしたとされているもの、ずっと後でお釈迦さまが説いたことにして創作したものではないかと言われているもの(真宗の浄土三部経はこれにあたります)があると言われておりますが、どれが本物だなんてことが大事なんじゃなくて、衆生を助けたいという教えが記されているかが大事なんだということでした。お経がつくられたのはもう2000年あまりも昔、大昔のこと、どれが本物かを基準にしても仕方ないわけです。お釈迦さまの直接説かれたことこそが本物だなんて言ってしまうと、釈迦絶対主義になってしまう。釈迦絶対主義だとお釈迦さま自身が説かれた「すべてのものを疑いなさい、仏法でさえも」という姿勢から逸脱してしまう。だから、親鸞さんもおっしゃっておりますが、釈迦諸仏の説かれた仏教を拠り所にするというのが仏教だと思うのです。
もうひとつ、私が思いついたのか、何かの本で見たのか、ハッキリしませんが、仏教は「生き方」だと思います。人間生きていれば迷うことばかり、どんなふうにふるまって、どんなふうに判断したらいいかわからない。数学や英語、国語、理科、社会、学校で習うことは明解な答えを示してくれますが、生き方は教えてくれない。それを聴くことができるのが仏教、いや世界の宗教はそういうものだと思います。
だから、仏教を聴くことがオススメです。娑婆で大事に心がけていたことが仏教からみるとあさっての方向かもしれない。一度だけ生きるのです、お釈迦さまに始まる智慧を聴いてはいかがでしょうか。