2014年1月1日水曜日

新年、修正会の法話

だいぶとお休みしていました。

2014年修正会の法話をのせます。

死について

 ちようど2週間ほど前にオーストラリアへ旅行してきました。オーストリアじゃなくて、オーストラリアのほうです。南半球にある大陸、カンガルーやコアラのいるところです。私は学生時代に2年半ほどオーストラリアにおりました。キッカケは京都の美大生だった時に出会った、このひとに学ぼうと考えた先生がオーストラリアの大学の先生だったからです。以後、その先生とは日本に帰った後でも年に1度はお会いするというお付き合いをいただきました。
 人付き合いをするときに「いらっしゃい」というのは比較的簡単ですが、実際に長い距離を移動して訪れるというのは大変なことです。その先生と家族のかたには京都で度々お会いし、この羽咋にまで来ていただいたこともあります。私も「必ず家族を連れてオーストラリアに行きますね」と先生家族からの招待に返事していたのですが、もたもたしている間にその先生が亡くなってしまいました。2年前のことです。これが一番の縁となりまして、先生のお墓参りに行こうと、22年ぶりにオーストラリアに行き、先生の家族にお会いしてきました。
 オーストラリアに行くまでは、義理を果たすというか、これまで先生家族から受けてきたお付き合いに応えるという気持ちが主だったのですが、学生時代によく招待いただいた先生の家を訪れ、先生の仕事場に立って、今は先生の奥さんと一匹の犬が住んでいる20年前と変わらぬところで「私は先生が亡くなったことを確認に来たのだ」ということに思い当たりました。2年前に先生の奥さんから先生がガンで亡くなったと電話で教えてもらいました。海の向こうのことですから、私は先生の葬式にも参加せず、先生の奥さんとのやりとりだけを通して先生の死に接してきました。ところが、これまでもお互い遠く離れたところに住んでいて、たまにお会いするというお付き合いでしたから、私にとって先生の死が体験を伴った認識として受け止められていなかったのだと思います。先生の死後2年たって、先生のいない仕事場に立って、私は、本当は先生が死んだことを確認しに来たのだなと気がついたわけです。これは私にとって親しい人と死別する初めての体験になりました。現在わたしはお坊さんとしてお葬式に立ちあう身でありますが、自分自身が身近に引き受けるひとの死は先生の死が初めてでした。
 仏教は全ての事柄は因縁によって成り立っていると教えています。因とは物事の直接の原因、縁とは物事が成るための条件のことです。人間が死ぬことの因は生まれること。人間は生まれたからやがて死ぬのです。ですから、ひとが死ぬことはごく自然なことです。これまで死ななかった人間はひとりだっていない、そういう意味でほんとうにあたりまえのことです。それを命があるということだけを良いことだと、重きを置くと、誰にでも訪れる死をとても忌むべき悪いことにしてしまうようです。死というものを単純に嫌ってそれで良いものなのでしょうか?確かに私自身、昨年狭心症で入院したときは、このままほおっておくと心筋梗塞で死ぬかもなぁと怖い思いをしました。それでも、死と向き合うことなしには、本当の意味で生きることは不可能なのだと仏法では教えているのです。先ほど死ぬことの原因は生まれることだと申しました。では、生きるということを支えているのは何かというと死ぬことなのです。やがて死がおとずれるからこそ、それまで生きているのです。いつまでも死なないのであれば生きているということも生じないのです。

 ここで死について、iPhoneとiPadを世に送り出したアップル社のスティーブジョブスさんがアメリカ、スタンフォード大学で行ったスピーチから抜粋したいと思います。卒業式を迎えた大学生にむけて語られたスピーチのなかで死との向き合いかたについてとても的確に語っておられると思います。


 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。


 この後ジョブズさんはすい臓ガンになり、一度は死の宣告を受けます。そして、その後奇跡的に手術で治ることがわかり、命がたすかります。


中略

 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。


ここまでがスティーブジョブズさんのスピーチからの引用になります。
 現代社会では生きているということだけに重きを置いて、われわれ自身の死を日常から遠ざけているように思えます。死だけではありません、年をとって老いること、病気になって苦しむこと、どれも人間にとって必然であることにたいして、それを遠ざけることばかりにかかりきりになっているようです。死を徹底的に排除して、タブーにしてしまったので「人間は死んでもいいんだ!」などと言うのはかなり勇気のいる言葉になりました。でも、そんな死に触れない近づかないでいると、自分自身の存在の意味からも遠ざかってしまいます。
 仏教では死は悪いことでも良いことでもないとしています。その死に悪い、怖い、穢れているなどと意味を貼付けているのは我々の心のはたらきです。しかしその死を恐れる心のはたらきを私たちは自ら乗り越えることができない。私たちの心の奥の奥、自分でも意識できない深いところにある心は自分を頼みにすることでは解決できないのです。死を乗り越えることは死ぬのが平気になることではありません。先のスティーブジョブズさんのお話にあったように毎日自分の死と向き合い、そしてよく生きることからしか死に臨む姿勢は生まれません。私たちはよく生きるために死との向き合い方を変えなければならない時期に来ていると思います。自ら乗り越えられない自分の心はどうしたらよいか、それは阿弥陀さんにおまかせしなさいと親鸞さんが教えておられます。

 本日はご足労いただきどうもありがとうございました。新年、おめでとうございます。