2014年1月1日水曜日

ひとにどうおもわれる。

 わたし考えですが、初対面のひとに与える印象はちょっと悪いくらいがよいということがあります。そんなこと言っても自分の悪い印象を与えるなんて損なことだし、第一相手に失礼だ、と思われるかもしれません。しかし、最初に最高の印象を与えてしまうと正直後がしんどいです。聖人君主としてひとに接すると聖人君主として接することがやめられなくなります。これは立派な煩悩です。常によい人でありつづけなければいけない、ちょっとでも自堕落なところをみせると大幅なイメージダウンになってしまう。でも、いつも自堕落でいないことなんてできませんよね。それに比べて悪い印象を与えたところからスタートすると、なんでもない親切をしただけでイメージアップになるわけです。ほんとたいしたことない親切でも「このひとは、結構いいひとじゃないか」と。あらかじめ悪い印象も与えているので常にイメージアップをはかる必要はありません。イメージダウンしてももとのところにもどるだけです。わたしはこっちの方が美味しいと思うのですがねぇ、どうでしょう。もし、中学生の私が今くらいに仏教をかじっていたら、気に入った女子の前でぜひこのテクニックを使いたいと思いますね。でも、悲しいことに中学時代の男子にはど真ん中のストレートしか投げることができませんから、気に入った女子を前にしてつま先立ちした良い人を演じることになります。精一杯背伸びした自分で相手に接して、あとはもうボロが出てイメージダウンを繰り返すばかりになります。そして失恋ですね。もうほんと哀れで悲しいことです。
 ちょっと話をはじめに戻しましょう。初対面のひとに悪い印象を与えることは自分にとって損なことだと申しました。もしくは相手にとって失礼なことだとも申しました。はたしてこれはそのとおりなのでしょうか?確かに悪い人だなと思われるとそのときは損かもしれません。しかし、マイナスイメージからスタートすることでよりのびのびした人間関係を築くことができる因でもあります。最高のイメージからスタートすると、後は崩れるばかりであります。良い人を演じようと自分も硬直した動きかたしかできなくなります。これは例えばの話ですから、最初に与えた悪いイメージが後々人間関係に影を落とす可能性もありますし、良い人を演じ続けることで相手に良いことをしてあげる縁になるかもしれません。本当は「良い悪い」はわからないことなのです。私たちの心はいつも「良い悪い」って思ってしまいますが、複雑で予測不可能な縁起のうえに生きている我々人間にははかり知ることのできないものです。もしくは「良い悪い」ということは人間の心が思ったことであって、実際にあるわけでもないのです。このなんでもかんでも「良い悪い」って判断してしまう心の働きが実は心の一番やっかいな部分で、その一番やっかいなところを仏さんに引き受けてもらうのが「ナムアミダブツ」ってことなのです。自分が知らないということを知っているのが最高の知性だとおっしゃった学者さんがいたと思います。自分で思った良し悪しは確かなものじゃないんだということを知るのが仏教の智慧であります。だから自分の心の働きから解放されるために阿弥陀さんの願いを信じるのです。
 もう一つ、悪いイメージを与えることは相手に失礼だと申しました。これはもっと大人な考えですね。これくらいの礼儀はあってしかるべきだと思いますが、何をもって失礼とするのでしょうか。自分を覆い隠して良い人として振る舞うことが相手にとって失礼なことではないことなのか?親鸞さんは「外に善人のふるまい、仏道に励んでいるふうに見せるな、なぜならば、内懐虚仮(ないえこけ)(内は煩悩を抱く虚仮)だからである」(唯信鈔文意)とおっしゃいました。あんまり悪い自分を出すとドン引きされるかも知れませんが、善人としてふるまってはいけないと釘をさされております。

 そもそも自分のふるまいにたいしてひとにどう思われるか、こんな予測不可能で不確かなことはありません。ひとの評判に振り回される、これはひとつの地獄です。そんな地獄からはなんとかして抜け出したい、だからひとにどう思われるかで心を煩わせるよりも、もっとしっかりと自分のふるまいの基礎になってくれるものが必要になります。キリスト教ではそれは神様になります。ですから、ひとにどのように誤解されようとも神様と個人の関係がしっかりしていることが大事になります。それでキリスト教のひとは外聞を日本人ほど気にしません。一方で日本では宗教的な縛りがひじょうにゆるいので、ひとにどのように思われるかということが自己評価として大きくなってしまう。阿弥陀さんは言うことを聴かないからといって怒ったり天罰を下すような存在ではありませんが、親鸞さんの教えを聴くのであるなら、ひとよりも阿弥陀さんとの関係を大切にしたいものであるなぁと、きっとこのほうがいいなぁと思って今回を終わるのです。