2014年1月28日火曜日

しらない人にお金を貸しますか?

 関西に住んでいる友人が、夜中に見知らぬ人からお金を貸してくれと頼まれたと、インターネットで書いておりました。真夜中にコンビニへ出かけたらホームレス風のおじさんに家へ帰る金がないから電車賃を貸して欲しいと頼まれたそうです。病院へ来たのだが帰れないと。説明に納得しがたいところもあったそうですが、友人はお金を貸してあげたそうです。ただ、そのことでいろいろ考えることになった。本当に家に帰るお金がないのかどうかもっとキチンと話を聞くべきだったと、いろいろ心を迷わせることになったと書いていました。
 それで、いろいろ迷い、考えをめぐらせながらも結局お金を貸した友人をえらいと思います。貸すということはその人を信じる方に賭けるということです。騙されたのならそれはとても不快なことですから、私ならば、さんざん話を聞いておいて貸さなかったかも知れません。外国では人にお金を恵むと、その人が自立するきっかけをなくするから恵んではいけないと考えるところもあります。でも、それは相手を信用することができない人間の言い訳だと思います。要は自分が人助けをするのか、騙されてお金をせびられたお人好しになるかの二者択一で迷っているのです。これは本質的に電車賃を貸す貸さないという行為とは全くつながりのないものです。電車賃は貸せるか貸せないか、それだけです。ところがその電車賃を貸すという行為に自分がどういう立場の人間になるかという思索が入ってくるわけです。おじさんが嘘をついていたら、自分はおじさんにいいように利用されてお金を渡したお人好しになってしまう。これはかなり腹の立つことです。それではおじさんを信用しないで電車賃を貸さないでいるとどうなるか。きっと後で、もしおじさんの言ったことが本当だったら、自分は困っているひとに冷たい仕打ちをした人間になってしまうと、後悔してやはり不快な気持ちになります。結局電車賃を貸そうが貸さまいが、おじさんが嘘をついていたのか、本当のことを言ったのか、それを考えるたびに心が苦しくなるのです。
 おそらく最初に話を聞いた時にお金を貸す貸さないの答えは出ているのだと思います。それを話を聞きながら考え始めるからわからなくなるのです。すべてを仮定のことに置いて考えるからもちろん結論は出ません。それなのに考えてしまう私がいるわけです。そして貸す貸さないではなく、自分が騙される、騙されないの間で悩み、自分の心を苦しくしているわけです。本当のところはわかりません。100パーセントそれが真実であると確認する方法などないのです。おじさんは本当に帰宅の交通費が必要でお金を借りるけど、あとで心が変わってコンビニでお酒を買って飲んでしまうかもしれないのです。
 人間は完全な善を行うことができない存在だと親鸞さんは教えておられます。それなのに自分を善人としたいという煩悩はなかなかはなれることができません。なにか判断するときにすぐに頭の中に登場するのは自分にとって損か得かということでしょう。しかし、これはひとのため、社会のためと考えれば乗り越えることもできます(実際にはなかなか難しいけど)、ところが、自分は悪い人間でありたくないという煩悩は本当に乗り越えがたいのです。「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし」と親鸞さんは歎異抄のなかで言っておられます。私たちはなにをしでかすのかわからない存在です。そんな人間がこれは善だ、これは悪だと決めつけて心を惑わせているのです。だから親鸞さんは善悪を離れなさいと言います。親鸞さんの言う他力とはそういうことです。自分は善である行いをしているという思いが自力であります。しかし、わたしらの実存はそんなところにないのだと親鸞さんはおっしゃいます。そしてそこにこそ阿弥陀仏のはたらきが生きてくるのだということです。
 ところで、もしもという言い方は良くないですが、親鸞さんに上のおじさんに電車賃を貸すか貸さないかと尋ねることができたら、きっと、「貸したければ貸せ、善人になろうと思うな」と答えられるかと思います(想像)。