2019年9月2日月曜日

「教えとは信じるものである、疑ってはいけない。」は深刻な間違い。

 宗教といえば信じることからはじまるというのが普通ですよね、きっと。でも、そんなこと言ったって信じられないですよね。「念仏すればそのままで助かる」とは浄土真宗の教えですが、「南無阿弥陀仏」と念仏してみたところで全くたすかった気持ちにならない、なんにも変わらない。だから「ほんとうなの?」って心が起こる。さて、この「ほんとうなの?」もしくは、「信じられない」という疑心はどうしたらよいのでしょうか。
 まず最初にお釈迦さまは「仏法は信じなくてもいいですよ」とおっしゃいました。「別に信じなくても、そのとおりにしたらはたらきはあります」というのが仏教の基本姿勢です。だから仏教は教(まず、教えがあって)、行(方法、修行があって)、証(証を得る、悟る)と言います。これに信を入れると、教(教えがあって)、信(その教えを信じて)、行(教えの通り修行して)、証(証を得る、悟る)となるかと思います。この、「教行証」、「教信行証」って言葉、見たことありませんか。でも、少し順番が違う。親鸞聖人の著作は「教行信証」。「行」と「信」が入れ替わっている。「教行信証」とは、教(教えがあって)、行(仏法に触れて)、信(仏法への疑いが晴れて)、証(証を獲る、そのままでたすかる)ということです。そうです、疑いはそんなに簡単に晴れない。信じるなんてそんな簡単なものじゃないということが「教行信証」の並びのなかに言われているわけです。また、お釈迦さまが「信じなくてもいい」と言われたように、仏教は信じることを目的としません。浄土真宗は「信心」という言葉を使いますが、「信じなさい」とは一言も言わないのです。「信心」とは仏法への疑いが晴れた心のことを言うのです。



 さて、「疑心」というところにはなしを戻しましょう。「信じる」ことと「疑う」ことは車の両輪のようなもので、ほんとうに信じるには疑うことが不可欠です。信じると言っても、人間は口あたりの良いことに弱くて、物事を深く追求する根性も頼りないですから、すぐに適当なところに落ち着いてしまいます。自分にとって楽で都合のよいものを信じる、いや信じたい。ところが、そうやって落ち着くけれども、それはほんとうに信じるに足りるものではありませんから、結局誤魔化さないといけない。無理を見ないようにしないと保たない。信じたと言っても、ほんとうに落ち着くということができないわけです。その誤魔化した心を破って、より深い真理へと導いて下さるのが疑いの心ではないでしょうか。ほんとうに信じるとは、もはやこれ以上疑うことができない真理だということが明らかになってこそ起こるのです。わたしはこの疑いの心は仏の心だと思います。「そんなんじゃたよりにならんぞ、目を覚ませ」という心の深いところからのはたらきがあって、それを仏性という。人間からしたら面倒なことはしたくないわけです。適当に居心地のよいところを見つけて安住したいわけです。でも、そうさせてくれない。もっと進めという。ゆさぶられて安住できない。そうなれば自分を誤魔化し続けるか、疑いをもってより深く仏法を聞いて行くしかない。そうして仏法(真理)に対する信が深められてゆくということです。
 そもそも信じるなんて、自分の力ではできませんね。「住職を信じてください」と言われたとします。それで「はい、信じます」と言ったところで、疑いの思いはどんどん出てきますよね。「この坊さん自分の都合のよいように私を利用しているんじゃないか」とか、「立派な外面しているけれども中身は意地汚い人間なんじゃないか」とか、まさにその疑いはあたっているんですけどね。「信じます」という心と「疑い」の心が起きてきたら、これは間違いなく疑いの心を大事にした方がいいと思います。だって疑いの心は仏のはたらきですから。でも、疑って終わりにするのは儲け話の勧誘ぐらいしておいたほうがいい。疑ったものがほんとうに疑って終わりでいいのか、それを確かめてゆく仕事があるわけです。自分の家族を信じるか、親友を信じるか、信じるということはつねに確かめるという仕事を伴います。だって、「信じた!」とひとこと言って済むものではありませんから。人間を信じるのは困難ですね。相手は人間ですから。最後は「自分が騙されてもいい」「裏切られてもかまわない」というところに立たなければ、人間を信じることはできないと思います。すなわち損得勘定がある限り人間を信じることができない。何故なら人間は不確実な存在だからです。無常な存在です、めまぐるしく変化してどうなるかわからない。変化が終わるのは命が終わるときです。だから、人間が人間を信じるということは自分可愛さの心、我執を破らなければ成り立ちません。人間を信じるとは、まさに「賭ける」と言ってもいい。
 仏法が信じられない、疑いの心が起きてくる。このとき疑う対象は誰かと言うと、坊さんはもちろんですが、坊さんが真摯に仏法をはなしているのであれば、蓮如上人であり、親鸞聖人であり、七高僧の方々であり。お釈迦さまを疑うということになります。いや、最後はお釈迦さまだからって疑ってはいけないわけじゃないんです。疑いの心は仏性ですから、仏さんが「疑え」とはたらきかけておられるんです。坊さんの話が信用できんと離れてすむものかどうか、親鸞聖人が仰ったことなら、お釈迦さまの教えなら、疑って求めていく価値はあるのではないでしょうか。もちろん、「この坊さん大丈夫か!?」という問題は残るのですけど。