2019年9月7日土曜日

裏門の法語 1


本念寺の裏門、自動車で境内に出入りする門のところに掲示板があります。真宗のお寺ではたいてい「法語」という「ひとこと仏法」を掲示します。言葉で苦しむ人間だから、「ひとこと」で救われるということがあります。そんな「ひとこと」になればうれしいと、選んだ「ひとこと」の理由についてブログにかくのです。

ひとつめの「法語」は、

「崖っぷち ありがとう!最高だ!」松岡修造さん

 我々は崖っぷちを嫌います。いつも安心して、不安なく生活したいと願っています。けれども何事もないと、「生きているということがわからなくなる」ということがあります。満たされて苦労も何もないけれど、なんだか虚しいということがあります。仏教では短命がダメだとは言いません。苦労したということも大変だけれども、それでもいいと言います。けれども、虚しく過ぎることを恐れます。虚しく過ぎたということは生きた甲斐がなかったということです。病気や食べることができないといった問題は、命が終われば解決するけれども、虚しく過ぎてしまったということは命終わっても解決しないと問題にするのです。そもそも我々が無事に人生を送ることができるかどうかは生まれた場所、時代に左右されます。親鸞聖人の生きられた時代も大変な時代でした。ちょうど同じ時代を生きられた鴨長明が「方丈記」に記していますが、安元の大火、治承の竜巻、養和の飢餓、元暦の地震と大災難がありました。大変な時代に生まれたからたすからない。ではなく、大変な時代のなかにあって、何がほんとうにたすかってゆく道なのかを親鸞聖人は求められたのだと想像します。「崖っぷちだなんてまっぴらごめんだ」と安全、無事に身を置いたところで解決しないものがある。虚しく終わったら生まれなかったのと同じになってしまう。それが我々が生まれた時に受けとった、ひとつの仕事なのではないでしょうか。「人生の目標は何ですか?」と聞かれたら、「仏になること」と答えられた先人がおられますが、それはギャグではなくて、結構シビアな答えだったりするのです。災難、苦労を回避することだけが人生をつくるんじゃない。崖っぷちに立ったことに「ありがとう」と言える。無事がいい、楽がいい、という人間の根性を破ってその瞬間を喜ばせてくれる大事なものが、私たちの人生にはあるのだということを端的に現してくださっている言葉です。

それにしても、さすがスポーツマンですね。臨場感のある言葉です。