2020年5月20日水曜日

「正信偈のなかみ」お・さ・ら・い。その一

 昨年三月に「三年間で必ず終えます」と始めた正信偈講座は、なんとか予定を遅れることなく十二回を終え、この三月からは七高僧のところへ入っているはずでした。そこへ、新型コロナウィルスの流行が起きました。数ヶ月で終息するかと思ったのが全然、三月どころか四月、五月の正信偈講座の開催も困難になりました。おやすみつづきはさみしいので、このさい「お・さ・ら・い」を書くことにしました。コロナ騒動がおわるまで、正信偈のおさらいを読んで、正信偈講座の再開をお待ちください。
二〇二〇年四月九日 本念寺 住職

帰命無量寿如来
 無量というのは変わらないということです。反対の言葉は「有量」、変わり続けてとどまることがないものです。わたしたちは、有量ですね。生まれて大きくなって年老いて、怒ったり泣いたり笑ったり、生まれてきてよかったと言ったり、なんで生まれたんだと呪ったり、生きている間中目まぐるしく変化します。これを無常と言います。諸行無常の無常です。「この世界にあるものは何もかも変化して常なるものがない」ということです。いま、ここに「変化しないものはない」と言いましたが、その「変化しないものはない」という法則だけは変化しません。昔も今も未来も変わらない、この法則が無量なわけです。
 寿、「いのち」ということです。通常「命」と書きますが、仏教では「寿」がいのちです。「寿」といったら「めでたい」という使いかたをしますね。そうです、いのちはあるだけでめでたいのです。「?」ってなりますね。今はその「?」を大事にして先にいきます。わたしたちは生まれてからいのち終わるまでずっと無常です。ところが、その無常におられないのです。落ち着くことができない。どうですか?年をとるのは嫌ではないですか?大事なひととの別れなんて、受け入れがたいのではないですか。だから長寿をもてはやします。長生不死なんて言います。だけど不死なんて言うほど辛くなりませんか、だって事実は限られたいのちですから。限られたいのちのものがどうやって「限られた」ということを越えるか、それが人間の問題になります。無量寿というのは無量の、不変の法則に支えられて在るいのちです。そのいのちの在り方(実相)に触れることで、わたしたちには無常の身のまま不変に支えられるということが起こるのです。
 もうひとつ、有量ということには「計る」という意味もあります。我々の世界はなんでもかんでも人間が計らった世界です。我々が受け止めたものには、すべて快だとか不快だとか、損だとか得だとか計った見方がある。長い短いっていうのも計らって生じる。世界はそのままではない、人間の計らった見方に転じて受けとめられている。だから、わたしたちは世界の「そのまま」には決して触れることができない。けれども、生きているということは計らう以前にあるでしょう。計らわなくても生きているということは無くならない。無量とは、その計らいを超えた「そのまま」ということもあるのです。
 如とは人間の計らいを超越したそのままの世界。何でも損得、快不快で見る人間にはわからない。その計らいを超えたところから計らう人間にはたらきかけて来る。だから「来」とつく。真理から人間を救おうとはたらきかけてくるもの、それが如来、仏であります。さいごに帰命、立ち返るということ。だから帰命無量寿如来は「わたしたちの思いを超越した真実からのはたらきに立ち返ります」と言うことができます。これがお念仏のなかみです。
 じつは帰命無量寿如来には基があります。七高僧のひとり、インドの天親菩薩が無量寿経にある本願というはたらきをいただいて「帰命尽十方無碍光如来」と表現された。尽十方は前も後ろも右も左も、ななめも、上も下も全方向ということ。無碍光というのは、遮られることのない光として本願のはたらきを表した。いつでも、どこでも、どんな人間にもはたらくということです。その本願の表現を親鸞聖人は無量寿という言葉に戻された。「帰命尽十方無碍光如来」は「南無阿弥陀仏」の別名なんです。お仏壇は真ん中が阿弥陀如来の画像、または仏像ですね。右手に「帰命尽十方無碍光如来」とある。左手は「南無不可思議光如来」です。実は三つとも本願のはたらきをあらわしています。名乗りは違うけれども仏としては同一です。

南無不可思議光
 お仏壇の左手にある「南無不可思議光如来」が「南無不可思議光」になりました。こちらも七高僧のひとり、中国の曇鸞大師が「南無阿弥陀仏」をいただいて「南無不可思議光如来」と表現された。正信偈は偈(うた) ですから、七文字に揃えないと調子があわない。だから如来をとって南無不可思議光になっている。不可思議は不思議です。不思議というと「わからない」と受けとってしまいますが、この不思議は「思議(しぎ、おもいはかる)する必要がない」という意味です。すべては「思い計る」必要のないものであったということです。人間は、ほんとうは心配したり不安になったりする必要のない世界に生まれてきた。それを計らいでもって不安で貧しい暗い世界に変えて受けとっているのです。たまに「人生に行き詰まった」と言います。しかし人生は決して行き詰まったりしません。行き詰まるのは人間の人生にたいする考えではないですか。人間は計らいに囚われて心配し、不安になり、絶望します。その自分をとらえる計らいに根拠がないと知れば、計らいは相対化されます。計らいは計らいにすぎないとわかれば軽くなるのです。人間生きているうちは計らいを止めることができませんけれども、常に計らいを計らいであると知らせてもらうということがある。計らいを超越した真実がわたしにはたらいてくる。これをお念仏といいます。心配したり不安になったりする必要のない世界にその都度かえしてもらうのです。人生に絶望してもたすかりませんが、自分の思いに絶望すると明るくなるのです。
 南無はナモーというインドの言葉。「おまかせする」という意味ですが、真宗では「まかせよ!」という如来からの呼びかけです。ですから「南無不可思議光(如来)」は「すべては思い計る必要のないたしかな世界なんだ!という事実にまかせよ!」と受け取ることができます。繰り返しになりますが、不安を生むのは計らいです。人間賢いということがありますが、賢いということはそれだけ計らいがきつい。仏法からいうと賢いだけ苦しみも大きい。人間は賢くなることによって悟りをひらくと誤解しています。賢さが破れて悟りをひらくのです。どれだけ賢くても破れない賢さは愚かさです。かと言って阿呆ならいいというわけではありません。人間誰でも苦しむということは、誰でも賢いのです。そして苦しむからほとけを求める。求めることが賢さをやぶる縁になる。
 「どんな人間になって生きたらいい」というのは人生の問題です。それにたいして安田理深という先生はこうおっしゃっています。
「南無阿弥陀仏の歴史の中に(自分の胸の中にではなく)いかなる不純粋の世界にも立っていける自分の立脚地を初めて見出すのである。それを一心と言い、安心と言う。」