2020年5月28日木曜日

お念仏はうけとるもの。

 南無阿弥陀仏とは、「かならずたすける、まかせよ」という如来の呼びかけです。この南無阿弥陀仏を受けてどのように思うかというと、「そんな南無阿弥陀仏くらいでたすかるわけがない」ということではないでしょうか。住職はそんなふうに思っています。これを「南無阿弥陀仏はありがたい」などと無理して受け取ると、信仰から純粋さが無くなります。無理しない、誤魔化さない、嘘つかない、この三つが教えを受け取る要点です。信じられないなら信じないという立場に立つ。南無阿弥陀仏の「かならずたすける」とは、「どんな人間であっても例外なく」ということです。それを無碍光(どんな障害でも遮ることができない作用)という喩えで表しています。だから、「こんな自分でもすくえるのか!」と、開き直ったらよい。南無阿弥陀仏を喜んで受けとれない自分を恥じる、なんてことがありますが、恥じるなんてことはまだ自分に夢をみている。期待している。自分を誤魔化している。自分の心を深く深く覗き込んでみたら「そんな南無阿弥陀仏くらいでたすかるわけがない」と書いてあったんです。住職の場合そうです。そこが私の場所です。嘘ついたところに立ったら歩めませんから、どんなに救いようがないところでもそこが場所です。人間は修行とか、学問とか、功徳をつむとか、立派なことをしないとたすからないと考えているのです。南無阿弥陀仏は、その「立派なことをしないと」という考えを捨てよという呼びかけです。「必ずたすけると言ってるんだから、立派という考えにしがみつくのをやめなさい」というわけです。それがやめられない。如来に百万回「そのままでいい!」と言われても、「このままじゃダメだ!」とかえしている状態です。人間は自分の思いに身を立てています。世間の評判に身を立てています。無宗教だという人も、かならず思いに身を立てています。身を立てるところが間違っているから、上手く運んでいるときは威勢がよいですけど、ひとつ躓くと迷います。立派にみえていた人物が、目も当てられないようなさまになった。そんなことはなかったですか。宗教は仏様や神様の奴隷になることじゃありません。宗(それなしでは生きられないもの)についての教えです。ほんとうに立つべき場所を求める道です。仏さまを大事にするなんて言いますが、ほんとうに仏さまを大事にするのは、お仏壇を掃除したり、御供物をしたりすることではありません。そのさきに、仏のはたらきに応えるという仕事がある。仏とは、「この、わたしをたすけるはたらき」です。「たすかれ!」が仏の存在意義ですから、この自分がたすかることが仏さまを大事にすることです。そのたすかる道を歩くことが仏を仏にするのです。道を歩くのに大事なことは、無理しない、誤魔化さない、嘘つかない。「どんな人間でもたすける」と言って下さっているのだから、堂々と南無阿弥陀仏を疑ったらいいと、この頃思うのです。疑うほどに自分が見えると思います。自分が見える、自分が明らかになるということが、立つべき場所に帰る道筋で、自分の思いから自由になる可能性だと考えます。

 自分の思いから自由になれないということは、十分に足がつく浅瀬で、頼りない木片にしがみついてバタバタ泳いでいるようなものです。木片から手を離せば解決します。ところが木片を手放すことができない。よこから如来が呼びます「木片をはなせ」と。