今日は予定がないので娘と映画。黄色いのが二つ出てくるギャグCGアニメと宮崎駿の「風立ちぬ」、娘とYoutubeで予告編をみて「どっちにする?」と尋ねると「風立ちぬ」がいいと言う。内容がこども向けでないのは知っていたが本人の選択、ま、いいかと「風立ちぬ」を観にいきました。「風立ちぬ」は封切り当時話題になったから観た人も知っている人も多いと思いますが、零戦の設計者のはなし。内容が戦争を否定していないのでけしからん、零戦、戦争の道具を美化していると言われてネット上でも議論になった作品です。遅ればせながら私も「風立ちぬ」を観てみると、確かにたいして良いとも悪いとも言わず、戦争についてはサラリと流している感じ、控えめに戦争を否定しているのだけど戦争反対、過去の戦争に対する反省と言う姿勢は表に出て来ない。話の主軸はあくまで技術者たちの人間模様です。しかし、そうやって「戦争は悪い」とか「戦争は格好よい」とかのことを横に置いておいたことで表現できたことがあり、宮崎駿さんは最後の作品でそれをやりたかったのだろうと想像します。
まず戦争反対ということですが、私も個人的に戦争反対には賛成。お釈迦様は自分の祖国が滅ぼされることになろうとも一切の武力抵抗をなさらなかったお方なので、さすがにお釈迦様の姿勢について行く自信はありませんが、小説、映画、経験されたひとの話、ゲームを通して戦争を想像した限りは理由にかかわらず戦争はすべきではないことと考えます。しかし、その戦争反対という大義も、それが絶対不可侵、疑うべかざるものになってしまうと人間を縛り、硬直させ、果ては人間を抑圧するイデオロギーになってしまうのです。敗戦国日本において戦争に関連した作品を制作する際には、その戦争に対する反省の姿勢が踏み絵のようにのしかかって、作品を陳腐な反戦作品に貶めようとするバイアスがかかることになっていると思います(全ての反戦作品が陳腐と言っているわけではありません)。だから宮崎駿さんはあえて反戦という表現を映画の脇に置いたのだと思います。
お釈迦様は何事も疑う姿勢を持ちなさいとおっしゃいました。お釈迦様のお説きになった仏法でさえもです。親鸞さんは善悪を離れよとおっしゃいました。何事にも勝る善は念仏することであり、念仏することとは阿弥陀さんのはたらきを信じて身を投じることです。どんなに立派でステキなことでも、それが絶対不可侵のものになってしまうと人間を抑圧するものになる。だからお釈迦様は極端を離れて中道を歩みなさいと教えられました。大切なのは正義でも正解でもなく疑うことのできる流動性なのです。そしてその疑って疑い抜いた果てにしか阿弥陀さんの願いへの信はない。ですから、戦争反対という大切な主張でさえもそれを絶対なものにして振りかざすとろくなことがないのです。だから私は「風立ちぬ」という作品には賛成。きっと宮崎駿さんは反戦でないギリギリのところを意識してつくられたのではないでしょうか。
ところで、私は映画のなかで三度ほど泣きました。一つめはもう忘れちゃいましたが、二つめは結婚式のところ、三つめは最後零戦がたくさん飛んで行くところ。技術者のひとが心身を削って追い求めた零戦は美しい、そしてその零戦によって命を失ったひとが沢山いる。私は詳しくは知りませんが零戦で特攻に出て死んだ若者も沢山いるでしょう。人間がおるのは善や悪や美や醜が入り交じってごちゃごちゃになったところです。戦争は悪い、人殺しの道具はすべからず邪悪であると主張する極端なひとがいる一方で、高性能な戦闘機に憧れ、殺傷の道具にドキドキする自分がいる、その善い人になりたいと思いながらもそう振る舞うことのできない自分の姿を見つめるところから本当に生きるという姿勢が生まれてくるのではないでしょうか。「風立ちぬ」最初のほうから主人公の夢に登場するイタリア人設計者、このひとの語ることが狂っているようであり、純粋なようであり、善悪というものを通り越して宮崎駿さんが描こうとしたことを象徴していると思います。
最後に、「風立ちぬ」は日本がまだ技術的に西洋に劣っていた時代のはなし、無我夢中で努力する技術者の話をとおして、不況と震災を経た日本に「がんばれ、元気だせ」って言っているように感じました。
2013年9月29日日曜日
2013年9月27日金曜日
わるいことは、わるいことじゃない。
人間、生きていれば楽しいことも、苦しいこともあります。テレビやインターネットの広告をみるかぎりは楽しいことでちりばめられているような現代社会ですが、困った事にこう楽しいことの勧誘が増えると「楽しくなければ人生でない」という思い込みに縛られるようになります。ほんとうのところは、生きていれば楽しいことより苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、不満なことのほうが多いのだと思います。お釈迦様は「一切皆苦」とおっしゃいましたし、親鸞さんは「生死の苦海」と申されました。もし「人生苦しいんです」ってお釈迦様、親鸞さんに相談することができるのなら「そうだよ!普通は苦しいんだよ!気がついた!?」って言われてしまうのだと思います。そこを「人生楽しくなければ意味がない」なんて思い込んでしまうと、生きることに伴う苦しみは10倍、いや100倍になるかも知れません。
話がすこし脱線してしまいました。とにかく私たちは、日頃から自分にとってよいことがあるようにと願って、そのために努力して生活しております。そして、自分にとって苦しいことを嫌い遠ざけて、苦しいことが避けられぬときは嘆いているのですが、仏さまの眼からみれば、よい、わるいと嘆くのは人間が無明であり、真実が見えておらんからだということになります。無明とは何も知らないということではありません。何事も知ることのできないということを知らんということです。物事を知ったつもりになって、その偏った視点でしか世界をみることができなくなっている状態を無明というのです。
私を含めたこの世界は、複雑な縁起の関係性のうえに成り立っております。何が因となり、何が果となるか、それは人間の考えでは計ることのできないものです。先ほど人間は自分にとってよいことを望んでいると書きましたが、順調すぎる人生を歩んで、それで虚しくなって麻薬に溺れたり、自死を選ぶ人間もいるのが事実です。自分にとってとても苦しかったことが、自分が生きる力を得てゆく縁となったということはありませんでしょうか。私を支えるのは楽しいことではなく、むしろ苦しいこと、悲しいこと、辛いことなのではないでしょうか。その苦しいことも受けとめてゆく安心を得るのが仏の智慧であります。
どれだけ成功した人生を長生きしてみても、自分が今生きておるという存在に向き合うことがなければ、その人生は虚しいものです。自分の存在の事実に向きあわなければ、よそ見をして酔っぱらっておるようなものです。そして、いつまでも酔っぱらっておるというわけにはいかないのです。私は生まれて、そして必ず死に至る存在である。病めば苦しい、老いれば辛い、別離は悲しい、その苦しみの起こってくるもと、自分の心に向き合って、わたしの心が安まり定まるよう尽くすこと、死んでからでなく生きてこの身があるうちに仏となること、これがなければどれだけ煌びやかで華々しい人生を送ったところで虚しいのだと思います。
虚しくない人生を生きるためには、阿弥陀さんの声を聞いて、自らの存在に安心を得るしかない。われながら説教くさい言い方と思いますが、他に方法が思いあたりません。
あっ!法話とは別名お説教でしたね。
話がすこし脱線してしまいました。とにかく私たちは、日頃から自分にとってよいことがあるようにと願って、そのために努力して生活しております。そして、自分にとって苦しいことを嫌い遠ざけて、苦しいことが避けられぬときは嘆いているのですが、仏さまの眼からみれば、よい、わるいと嘆くのは人間が無明であり、真実が見えておらんからだということになります。無明とは何も知らないということではありません。何事も知ることのできないということを知らんということです。物事を知ったつもりになって、その偏った視点でしか世界をみることができなくなっている状態を無明というのです。
私を含めたこの世界は、複雑な縁起の関係性のうえに成り立っております。何が因となり、何が果となるか、それは人間の考えでは計ることのできないものです。先ほど人間は自分にとってよいことを望んでいると書きましたが、順調すぎる人生を歩んで、それで虚しくなって麻薬に溺れたり、自死を選ぶ人間もいるのが事実です。自分にとってとても苦しかったことが、自分が生きる力を得てゆく縁となったということはありませんでしょうか。私を支えるのは楽しいことではなく、むしろ苦しいこと、悲しいこと、辛いことなのではないでしょうか。その苦しいことも受けとめてゆく安心を得るのが仏の智慧であります。
どれだけ成功した人生を長生きしてみても、自分が今生きておるという存在に向き合うことがなければ、その人生は虚しいものです。自分の存在の事実に向きあわなければ、よそ見をして酔っぱらっておるようなものです。そして、いつまでも酔っぱらっておるというわけにはいかないのです。私は生まれて、そして必ず死に至る存在である。病めば苦しい、老いれば辛い、別離は悲しい、その苦しみの起こってくるもと、自分の心に向き合って、わたしの心が安まり定まるよう尽くすこと、死んでからでなく生きてこの身があるうちに仏となること、これがなければどれだけ煌びやかで華々しい人生を送ったところで虚しいのだと思います。
虚しくない人生を生きるためには、阿弥陀さんの声を聞いて、自らの存在に安心を得るしかない。われながら説教くさい言い方と思いますが、他に方法が思いあたりません。
あっ!法話とは別名お説教でしたね。
2013年9月5日木曜日
2013年8月28日水曜日
仏教の信心
宗教というと信じるものだと考えていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。実はお釈迦様は仏になる方法をお説きになられましたが「信じなさい」とはおっしゃいませんでした。あれれー、宗教というものは信じるところから始まるものと言いますが、全然宗教らしくないではないですか。それに親鸞さんは信心っておっしゃっている。お釈迦様と親鸞さん、どうなっているの?そこのところについて書いてみたいと思います。
今時、宗教って言って思い浮かべられるものは、神サマ仏サマって超越者がいて、その超越者にお願いするものということだと思います。神サマ(ここからは神サマだけを例に考えます、仏をいれると話が複雑になりますから)にお願いするためには、最初に信仰がないといけない。神サマは自分を信じたひとをなんとかしてくださる、という形だと思います。宗教の種類によっては神サマに寄進するお金が多いほどご利益があるとか、修行したから、聖典をよんだから、勉強したから救われるという形もあります。これがごく一般的な宗教を信仰するというイメージだと思います。
お釈迦様はまず信じなさいとはおっしゃいませんでした。「別に仏教徒にならなくてよいから話を聴いて」というふうに他宗教のひとたちにも教えを説いていたそうです。そして、お釈迦様の教えには特別な能力を持った超越者は登場しません。仏とは悟った人間のこと、仏とはひたすら崇めるものではなくて人間がなるものです。ですから正確には「仏さまお願い」というのは仏教ではないのです。日本でも平安時代までの仏教では、信じることよりも戒律をまもり(戒)身心を調え(定)自分の都合をなくす(慧)ことに重きをおいてきました。それを「わたしなどは戒−定−慧の三学を実践できる身ではありません」とカミングアウトされたのが親鸞さんの御師匠法然さん。たくさんのお坊さんは修行して経典を読んで悟ればよいかも知れないが、そのような行のできない、またその能力もない多くの人間はどのようにして仏となれるのか、と問うたのです。そして、法然さんがお釈迦様のたくさんの教えの中からこれだと選ばれたのが阿弥陀仏の本願によって仏となる教えでした。自らによらず阿弥陀仏の本願にたのめ、あずけよという教えです。この阿弥陀仏の本願、みなさんひとり残らず仏となってくださいという願いを信じることが信心であるのです。阿弥陀仏を信じて頼むというのとはちょっと、いやかなりニュアンスが違います。
たまに阿弥陀仏信仰を、ほんらい無神教であった仏教を一神教の教えにかえしたというふうに説明されるひとがおりますが、阿弥陀仏信仰は一神教ではありません。
阿弥陀仏とは、お釈迦様の発見した縁起、龍樹菩薩の説かれた空、その、すべての事柄は私の考えたとおりにならないという真実にあって、その考えたとおりにならない身のまま仏にするというはたらきのことを言います。私が縁起によって起こっているという自覚を持ち、縁起による実存にハッキリと目覚めることであります。ところが自分の能力、自分で考えた善行というものに執っているとなかなかその眼が開かない。その自分というものを手放すための必殺ワザが他力の信心なのです。「仏を信じたから助かるのでない、信じることは助けの因ではない、仏のお助けを信じるのだ、それで助かっているということを味わうことができるのだ。」ということなのです。
一般的に考えられる神サマと私の関係では、神サマを信じたからいいことがある、救われるというふうにみられますが、そのように信じたから救われる関係は取り引きの関係です。そして結果的には盲信して神サマに従属する人間を生み出してしまいます。自ら考え、自ら感じ、自らの足で歩むことを止め、神サマの奴隷になってしまうのです。お釈迦様はそのような思考停止すること、奴隷になることを執着だと言って、それが惑い苦しみの生まれてくるもとだと明かしました。ですから、阿弥陀仏信仰も、阿弥陀仏を神サマのような超越者にとらえて信仰し、頼むなら困ったことになってしまいます。阿弥陀仏は人間を奴隷にするものではありません、逆に人間を硬直させ思考停止に陥らせるものから解放する教えです。ですから「まず、信じよ」ではないのです。親鸞さんのおっしゃった他力の信心とは阿弥陀仏の願いに眼がひらいたということです。親鸞さんの教えでは信じることから始まるのではないのです。信じることができるようになることが目的なのです。それを信楽(しんぎょう)とおっしゃっています。正信偈には「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」とあります。「信楽を得ることは難中の難」だということでございます。でもめざすべきはハッキリいたしました。仏教の信心ははじめにあるのではなく、仏になることなのです。
今時、宗教って言って思い浮かべられるものは、神サマ仏サマって超越者がいて、その超越者にお願いするものということだと思います。神サマ(ここからは神サマだけを例に考えます、仏をいれると話が複雑になりますから)にお願いするためには、最初に信仰がないといけない。神サマは自分を信じたひとをなんとかしてくださる、という形だと思います。宗教の種類によっては神サマに寄進するお金が多いほどご利益があるとか、修行したから、聖典をよんだから、勉強したから救われるという形もあります。これがごく一般的な宗教を信仰するというイメージだと思います。
お釈迦様はまず信じなさいとはおっしゃいませんでした。「別に仏教徒にならなくてよいから話を聴いて」というふうに他宗教のひとたちにも教えを説いていたそうです。そして、お釈迦様の教えには特別な能力を持った超越者は登場しません。仏とは悟った人間のこと、仏とはひたすら崇めるものではなくて人間がなるものです。ですから正確には「仏さまお願い」というのは仏教ではないのです。日本でも平安時代までの仏教では、信じることよりも戒律をまもり(戒)身心を調え(定)自分の都合をなくす(慧)ことに重きをおいてきました。それを「わたしなどは戒−定−慧の三学を実践できる身ではありません」とカミングアウトされたのが親鸞さんの御師匠法然さん。たくさんのお坊さんは修行して経典を読んで悟ればよいかも知れないが、そのような行のできない、またその能力もない多くの人間はどのようにして仏となれるのか、と問うたのです。そして、法然さんがお釈迦様のたくさんの教えの中からこれだと選ばれたのが阿弥陀仏の本願によって仏となる教えでした。自らによらず阿弥陀仏の本願にたのめ、あずけよという教えです。この阿弥陀仏の本願、みなさんひとり残らず仏となってくださいという願いを信じることが信心であるのです。阿弥陀仏を信じて頼むというのとはちょっと、いやかなりニュアンスが違います。
たまに阿弥陀仏信仰を、ほんらい無神教であった仏教を一神教の教えにかえしたというふうに説明されるひとがおりますが、阿弥陀仏信仰は一神教ではありません。
阿弥陀仏とは、お釈迦様の発見した縁起、龍樹菩薩の説かれた空、その、すべての事柄は私の考えたとおりにならないという真実にあって、その考えたとおりにならない身のまま仏にするというはたらきのことを言います。私が縁起によって起こっているという自覚を持ち、縁起による実存にハッキリと目覚めることであります。ところが自分の能力、自分で考えた善行というものに執っているとなかなかその眼が開かない。その自分というものを手放すための必殺ワザが他力の信心なのです。「仏を信じたから助かるのでない、信じることは助けの因ではない、仏のお助けを信じるのだ、それで助かっているということを味わうことができるのだ。」ということなのです。
一般的に考えられる神サマと私の関係では、神サマを信じたからいいことがある、救われるというふうにみられますが、そのように信じたから救われる関係は取り引きの関係です。そして結果的には盲信して神サマに従属する人間を生み出してしまいます。自ら考え、自ら感じ、自らの足で歩むことを止め、神サマの奴隷になってしまうのです。お釈迦様はそのような思考停止すること、奴隷になることを執着だと言って、それが惑い苦しみの生まれてくるもとだと明かしました。ですから、阿弥陀仏信仰も、阿弥陀仏を神サマのような超越者にとらえて信仰し、頼むなら困ったことになってしまいます。阿弥陀仏は人間を奴隷にするものではありません、逆に人間を硬直させ思考停止に陥らせるものから解放する教えです。ですから「まず、信じよ」ではないのです。親鸞さんのおっしゃった他力の信心とは阿弥陀仏の願いに眼がひらいたということです。親鸞さんの教えでは信じることから始まるのではないのです。信じることができるようになることが目的なのです。それを信楽(しんぎょう)とおっしゃっています。正信偈には「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」とあります。「信楽を得ることは難中の難」だということでございます。でもめざすべきはハッキリいたしました。仏教の信心ははじめにあるのではなく、仏になることなのです。
2013年8月27日火曜日
信じてます?
「私は仏さまも神さまも信じていません」今時はこのようにサッパリとおっしゃる方が多いと思います。これを無信教と言いますが、そのわりに占いごとに一喜一憂し、なにかあるとお祓いをして、家など建てるときには方角を気にしたりします。どうして気にするのかというと不安だからだと思います。仏さまも神さまも信じていませんと言ってみても、曖昧模糊とした不安はなくなりません。信じていないと言いながら潜在的に気にするのですからもっとたちが悪いのかもしれません。
お釈迦様は「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともに捨てた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう」(スッタニパータ)と、お教えになりました。祈祷、占い、縁起をかつぐこと等は、根本的な問題の解決にならないばかりか、さらに眼が曇って惑うことになるから、正しく道を歩むためにはそれらの事柄を捨てさらなければならない。と、お教えになられたのです。
親鸞さんは「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」正像末和讃(真宗聖典509項)と和讃にうたわれております。僧侶も世俗のものも、良い時良い日に執われ、天のの神や地の神を崇めつつ、占いや祈りごとに余念がありません。なんとかなしいことだ。とおっしゃっています。もともとは占い祈祷、方角等のことは、これでいいというものがないと不安であるからつくられた文化的な慣習であるとおもいます。しかし、そうした慣習はつぎに人間を縛り惑わせることになります。そうした慣習によって自分を失いふりまわされる人間の姿を親鸞さんはかなしいとおっしゃったのです。
仏法は惑いと苦しみのもと、執着することを離れる教えです。常に人間を執着から解放して自分の存在を獲得してゆくことを目指す教えです。惑いごとから離れて、縁起によって生じている自分自身の存在を発見することによって安心を得る教えです。盲信はダメです、仏法では常に信じることと疑うことがセットになってあります。お釈迦様は全ての物事を疑いなさいとおっしゃいました。お釈迦様の説く仏法さえも疑えとおっしゃったのです。真宗の教学者金子大栄さんは「疑って疑い抜いたさきに信心がある」とおっしゃっております。仏法では「信じなさい」とはいわないのです。お釈迦様なんて「別に信じなくてもいいから私の話を聴いて下さい」って言ってたそうですから。
仏法に依って、占いや祈祷ごと、天の神地の神の呪縛から解放された自由な道、それを親鸞さんは無碍の一道、碍(さわ)りの無い道と呼ばれました。親鸞さんのおっしゃった信心は盲信とは違います。盲信を離れて阿弥陀仏におまかせする心です。疑いつつ堅く信じるのですからちょっとアクロバティックなところもあります。疑って疑って疑いぬいてもうどうにもならんようになったところにあるのが信心です。だから執われごとや呪縛から解放されるためにあるのが仏法です。そして、人間が本来抱えている曖昧模糊とした不安、畏れをなくして下さる教えであります。信じようと信じまいと阿弥陀さんの願いは働いておるのだと言います、信じることは私の身に仏を活かすこと、あっこれは前の投稿でも書きましたね。
お釈迦様は「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともに捨てた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう」(スッタニパータ)と、お教えになりました。祈祷、占い、縁起をかつぐこと等は、根本的な問題の解決にならないばかりか、さらに眼が曇って惑うことになるから、正しく道を歩むためにはそれらの事柄を捨てさらなければならない。と、お教えになられたのです。
親鸞さんは「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」正像末和讃(真宗聖典509項)と和讃にうたわれております。僧侶も世俗のものも、良い時良い日に執われ、天のの神や地の神を崇めつつ、占いや祈りごとに余念がありません。なんとかなしいことだ。とおっしゃっています。もともとは占い祈祷、方角等のことは、これでいいというものがないと不安であるからつくられた文化的な慣習であるとおもいます。しかし、そうした慣習はつぎに人間を縛り惑わせることになります。そうした慣習によって自分を失いふりまわされる人間の姿を親鸞さんはかなしいとおっしゃったのです。
仏法は惑いと苦しみのもと、執着することを離れる教えです。常に人間を執着から解放して自分の存在を獲得してゆくことを目指す教えです。惑いごとから離れて、縁起によって生じている自分自身の存在を発見することによって安心を得る教えです。盲信はダメです、仏法では常に信じることと疑うことがセットになってあります。お釈迦様は全ての物事を疑いなさいとおっしゃいました。お釈迦様の説く仏法さえも疑えとおっしゃったのです。真宗の教学者金子大栄さんは「疑って疑い抜いたさきに信心がある」とおっしゃっております。仏法では「信じなさい」とはいわないのです。お釈迦様なんて「別に信じなくてもいいから私の話を聴いて下さい」って言ってたそうですから。
仏法に依って、占いや祈祷ごと、天の神地の神の呪縛から解放された自由な道、それを親鸞さんは無碍の一道、碍(さわ)りの無い道と呼ばれました。親鸞さんのおっしゃった信心は盲信とは違います。盲信を離れて阿弥陀仏におまかせする心です。疑いつつ堅く信じるのですからちょっとアクロバティックなところもあります。疑って疑って疑いぬいてもうどうにもならんようになったところにあるのが信心です。だから執われごとや呪縛から解放されるためにあるのが仏法です。そして、人間が本来抱えている曖昧模糊とした不安、畏れをなくして下さる教えであります。信じようと信じまいと阿弥陀さんの願いは働いておるのだと言います、信じることは私の身に仏を活かすこと、あっこれは前の投稿でも書きましたね。
2013年8月19日月曜日
お念仏。
高齢のかたにご法話するので、準備。
仏法とはお釈迦様の説かれた教え、この世界にあって惑い苦しむひとを助ける教えであります。
仏法で助かるというのは、惑い苦しみの原因がほどけるということです。今日は面白くないことがあった、ああ身体の調子が悪い、あのひとのことキライや、仕事に行きたくない、ああめんどくさい。私は日々愚痴と文句を言いながら暮らしております。そんな口に出さなくとも、心のなかでは一日のうちに何度も、ひっきりになしにああだこうだと愚痴もうしているのが私です、大丈夫です、それが普通なんです。ところで、そんな私が助かるには、愚痴言うもとをなんとかせねばなりません。お釈迦様が発見なされたのは、物事には原因と結果があるという、この世の中の決まりです。愚痴言う原因をなんとかすれば愚痴も言わんでよくなる。それでは愚痴言うもととはなんでしょうか、それは私の心です、心がいつも愚痴を言っているのです。その心になんとか黙ってもらう手はないものかと、お釈迦様はひじょうにたくさんの教えを説かれました。浄土真宗の宗祖、親鸞さんが選ばれたのは、そのたくさんの教えの中から阿弥陀さんの願いによって助かるという教え、南無阿弥陀部とお念仏をとなえる教えです。教学者の暁烏敏さんがおっしゃるには、阿弥陀さんに助けられるには、信じる心がないと助からないのかというと、そういうことでもない。信じる心はお助けの条件ではないのです。信じるからお助けがあるのではない、お助けを信じるのです。無条件のお助けをそのまま受け取って何事も阿弥陀さんにまかせるのが信じる心というものです。この信じる心の目が開けてはじめて阿弥陀さんのお慈悲を味わうことができるのです。ですから、私たちが仏を疑うならば、それは仏を殺すこと。仏を信じるのは仏を活かすこと。私の身に仏さまのお慈悲が働くよう仏さまを信じたほうがよいではないか。少し意訳しましたが、このようにおっしゃっております。念仏の教えは他力の教えと申しますが、そうやって愚痴言う私の心を阿弥陀さんにおまかせすることで無明の眼がひらき、助かるのだということです。
実は、このように申しておいて、その阿弥陀さんの願いというやつが今ひとつよくわからんと日々思っているのが、今お話しているこの私です。残念なことに私にはこの阿弥陀さんの願いというものがまだよくわかりません。ですが、この頃確信を持って思うようになったことは、理屈が難しいのではない、繰り返し教えの言葉に触れることが大切なのだということです。親鸞さんも、念仏もうしてありがたい心がわきあがってこないのも、私の煩悩の深さゆえだとおっしゃっています。そして、その深い煩悩具足の身であるからこそ阿弥陀さんに助けられるのだとはっきりとおっしゃっております。御和讃にもくりかえし、念仏が一番だ、良い悪いと言うならば、念仏に勝る善はない、念仏もうせばお浄土のいちばんのところに生まれることができると書かれています。親鸞さんがおっしゃることですからたのもしいことだと思います。
なれぬ法話をお聴きいただき、どうもありがとうございました。
仏法とはお釈迦様の説かれた教え、この世界にあって惑い苦しむひとを助ける教えであります。
仏法で助かるというのは、惑い苦しみの原因がほどけるということです。今日は面白くないことがあった、ああ身体の調子が悪い、あのひとのことキライや、仕事に行きたくない、ああめんどくさい。私は日々愚痴と文句を言いながら暮らしております。そんな口に出さなくとも、心のなかでは一日のうちに何度も、ひっきりになしにああだこうだと愚痴もうしているのが私です、大丈夫です、それが普通なんです。ところで、そんな私が助かるには、愚痴言うもとをなんとかせねばなりません。お釈迦様が発見なされたのは、物事には原因と結果があるという、この世の中の決まりです。愚痴言う原因をなんとかすれば愚痴も言わんでよくなる。それでは愚痴言うもととはなんでしょうか、それは私の心です、心がいつも愚痴を言っているのです。その心になんとか黙ってもらう手はないものかと、お釈迦様はひじょうにたくさんの教えを説かれました。浄土真宗の宗祖、親鸞さんが選ばれたのは、そのたくさんの教えの中から阿弥陀さんの願いによって助かるという教え、南無阿弥陀部とお念仏をとなえる教えです。教学者の暁烏敏さんがおっしゃるには、阿弥陀さんに助けられるには、信じる心がないと助からないのかというと、そういうことでもない。信じる心はお助けの条件ではないのです。信じるからお助けがあるのではない、お助けを信じるのです。無条件のお助けをそのまま受け取って何事も阿弥陀さんにまかせるのが信じる心というものです。この信じる心の目が開けてはじめて阿弥陀さんのお慈悲を味わうことができるのです。ですから、私たちが仏を疑うならば、それは仏を殺すこと。仏を信じるのは仏を活かすこと。私の身に仏さまのお慈悲が働くよう仏さまを信じたほうがよいではないか。少し意訳しましたが、このようにおっしゃっております。念仏の教えは他力の教えと申しますが、そうやって愚痴言う私の心を阿弥陀さんにおまかせすることで無明の眼がひらき、助かるのだということです。
実は、このように申しておいて、その阿弥陀さんの願いというやつが今ひとつよくわからんと日々思っているのが、今お話しているこの私です。残念なことに私にはこの阿弥陀さんの願いというものがまだよくわかりません。ですが、この頃確信を持って思うようになったことは、理屈が難しいのではない、繰り返し教えの言葉に触れることが大切なのだということです。親鸞さんも、念仏もうしてありがたい心がわきあがってこないのも、私の煩悩の深さゆえだとおっしゃっています。そして、その深い煩悩具足の身であるからこそ阿弥陀さんに助けられるのだとはっきりとおっしゃっております。御和讃にもくりかえし、念仏が一番だ、良い悪いと言うならば、念仏に勝る善はない、念仏もうせばお浄土のいちばんのところに生まれることができると書かれています。親鸞さんがおっしゃることですからたのもしいことだと思います。
なれぬ法話をお聴きいただき、どうもありがとうございました。
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