2013年8月27日火曜日

信じてます?

 「私は仏さまも神さまも信じていません」今時はこのようにサッパリとおっしゃる方が多いと思います。これを無信教と言いますが、そのわりに占いごとに一喜一憂し、なにかあるとお祓いをして、家など建てるときには方角を気にしたりします。どうして気にするのかというと不安だからだと思います。仏さまも神さまも信じていませんと言ってみても、曖昧模糊とした不安はなくなりません。信じていないと言いながら潜在的に気にするのですからもっとたちが悪いのかもしれません。
 お釈迦様は「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともに捨てた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう」(スッタニパータ)と、お教えになりました。祈祷、占い、縁起をかつぐこと等は、根本的な問題の解決にならないばかりか、さらに眼が曇って惑うことになるから、正しく道を歩むためにはそれらの事柄を捨てさらなければならない。と、お教えになられたのです。
 親鸞さんは「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」正像末和讃(真宗聖典509項)と和讃にうたわれております。僧侶も世俗のものも、良い時良い日に執われ、天のの神や地の神を崇めつつ、占いや祈りごとに余念がありません。なんとかなしいことだ。とおっしゃっています。もともとは占い祈祷、方角等のことは、これでいいというものがないと不安であるからつくられた文化的な慣習であるとおもいます。しかし、そうした慣習はつぎに人間を縛り惑わせることになります。そうした慣習によって自分を失いふりまわされる人間の姿を親鸞さんはかなしいとおっしゃったのです。
 仏法は惑いと苦しみのもと、執着することを離れる教えです。常に人間を執着から解放して自分の存在を獲得してゆくことを目指す教えです。惑いごとから離れて、縁起によって生じている自分自身の存在を発見することによって安心を得る教えです。盲信はダメです、仏法では常に信じることと疑うことがセットになってあります。お釈迦様は全ての物事を疑いなさいとおっしゃいました。お釈迦様の説く仏法さえも疑えとおっしゃったのです。真宗の教学者金子大栄さんは「疑って疑い抜いたさきに信心がある」とおっしゃっております。仏法では「信じなさい」とはいわないのです。お釈迦様なんて「別に信じなくてもいいから私の話を聴いて下さい」って言ってたそうですから。
 仏法に依って、占いや祈祷ごと、天の神地の神の呪縛から解放された自由な道、それを親鸞さんは無碍の一道、碍(さわ)りの無い道と呼ばれました。親鸞さんのおっしゃった信心は盲信とは違います。盲信を離れて阿弥陀仏におまかせする心です。疑いつつ堅く信じるのですからちょっとアクロバティックなところもあります。疑って疑って疑いぬいてもうどうにもならんようになったところにあるのが信心です。だから執われごとや呪縛から解放されるためにあるのが仏法です。そして、人間が本来抱えている曖昧模糊とした不安、畏れをなくして下さる教えであります。信じようと信じまいと阿弥陀さんの願いは働いておるのだと言います、信じることは私の身に仏を活かすこと、あっこれは前の投稿でも書きましたね。