2013年8月19日月曜日

お念仏。

 高齢のかたにご法話するので、準備。
 仏法とはお釈迦様の説かれた教え、この世界にあって惑い苦しむひとを助ける教えであります。
 仏法で助かるというのは、惑い苦しみの原因がほどけるということです。今日は面白くないことがあった、ああ身体の調子が悪い、あのひとのことキライや、仕事に行きたくない、ああめんどくさい。私は日々愚痴と文句を言いながら暮らしております。そんな口に出さなくとも、心のなかでは一日のうちに何度も、ひっきりになしにああだこうだと愚痴もうしているのが私です、大丈夫です、それが普通なんです。ところで、そんな私が助かるには、愚痴言うもとをなんとかせねばなりません。お釈迦様が発見なされたのは、物事には原因と結果があるという、この世の中の決まりです。愚痴言う原因をなんとかすれば愚痴も言わんでよくなる。それでは愚痴言うもととはなんでしょうか、それは私の心です、心がいつも愚痴を言っているのです。その心になんとか黙ってもらう手はないものかと、お釈迦様はひじょうにたくさんの教えを説かれました。浄土真宗の宗祖、親鸞さんが選ばれたのは、そのたくさんの教えの中から阿弥陀さんの願いによって助かるという教え、南無阿弥陀部とお念仏をとなえる教えです。教学者の暁烏敏さんがおっしゃるには、阿弥陀さんに助けられるには、信じる心がないと助からないのかというと、そういうことでもない。信じる心はお助けの条件ではないのです。信じるからお助けがあるのではない、お助けを信じるのです。無条件のお助けをそのまま受け取って何事も阿弥陀さんにまかせるのが信じる心というものです。この信じる心の目が開けてはじめて阿弥陀さんのお慈悲を味わうことができるのです。ですから、私たちが仏を疑うならば、それは仏を殺すこと。仏を信じるのは仏を活かすこと。私の身に仏さまのお慈悲が働くよう仏さまを信じたほうがよいではないか。少し意訳しましたが、このようにおっしゃっております。念仏の教えは他力の教えと申しますが、そうやって愚痴言う私の心を阿弥陀さんにおまかせすることで無明の眼がひらき、助かるのだということです。
 実は、このように申しておいて、その阿弥陀さんの願いというやつが今ひとつよくわからんと日々思っているのが、今お話しているこの私です。残念なことに私にはこの阿弥陀さんの願いというものがまだよくわかりません。ですが、この頃確信を持って思うようになったことは、理屈が難しいのではない、繰り返し教えの言葉に触れることが大切なのだということです。親鸞さんも、念仏もうしてありがたい心がわきあがってこないのも、私の煩悩の深さゆえだとおっしゃっています。そして、その深い煩悩具足の身であるからこそ阿弥陀さんに助けられるのだとはっきりとおっしゃっております。御和讃にもくりかえし、念仏が一番だ、良い悪いと言うならば、念仏に勝る善はない、念仏もうせばお浄土のいちばんのところに生まれることができると書かれています。親鸞さんがおっしゃることですからたのもしいことだと思います。
 なれぬ法話をお聴きいただき、どうもありがとうございました。