2013年8月1日木曜日

小さな安心

 人間は生きてゆくうちにいろいろ経験して知恵がついてゆくものです。知恵は人間どうし社会を形作ってゆくために必要なものですし、大人になるとはそういうことだと言ってしまっても過言ではないでしょう。経験したり勉強したりして「知る」ことはよいことですが、「知る」ことに常にくっついてくる困ったことが「思い込み」です。ある事柄についてすでに私は知っていると思い込んでしまう事、これをお釈迦様は「無明」とおっしゃいました。
「思い込み」は日常の様々なところに登場します。例えば「成人男子はかくあるべきだ」とか、「有名な景色は美しいに決まっている」とか、「ゴキブリは汚い」とか、いろいろ。
それで、「思い込み」にそぐわない事柄に遭遇するとなにかと不快な思いがわき上がってきます。なんで不快になるのでしょうか。
 人間は「思い込む」ことで安心を得ています。パリッとしたスーツを着て、身のこなしも言葉遣いも丁寧な人間にあうと「このひとは立派なひとだ」と思ってしまう。逆に言葉遣いも悪く、身なりも薄汚れたひとは「ああダメなひとだ」と思ってしまう。身なりや言葉遣いでひとの善い悪いまで決定することなどできないのにそう思い込んでしまう。※
キレイなものはキレイ、立派なものは立派、善いことは善いこと、こう思い切って思考停止することで社会生活上の安心を得ているわけです。ところが、この「思い込み」によって得られる安心は小さな安心なのです、とても小さく脆い安心、増して言えば深い探求に裏付けられた安心ではありませんから、私の「思い込み」にそぐわない現実の事象に遭うたびに狼狽し、翻弄され迷い苦しむことになるわけです。それでも、私は安心がなくては生きてゆけないから「思い込み」にしがみつき、「思い込み」を揺さぶるものを嫌悪し悪感情をいだきます。ときに攻撃することもあります。ゴキブリをみると放っておけないのもきっとそうなのでしょう、部屋にキレイな蝶蝶が迷い込んで来たらソッとしておくでしょう。
人間私は正しいという考え、善悪に執着して世界の実相から目を背けて生活しております。ほんとうは、私に善悪があるわけでないのです、正しいことも何なのかわかりません。この私が「思い込み」を抱えてジタバタともがいて生きているという事実があるだけです。
「思い込み」が小さな安心だと申しましたが、「思い込み」を離れることができないのも私という存在の事実であります。そのことを踏まえて親鸞さんが教えられたことは阿弥陀さんをたのめという念仏の教えです。この念仏の教えは大きな安心であろうと思います。阿弥陀さんをたのむということは、お釈迦様の智慧をもとにして 縁起に生きる自覚を持つということです。自分の生きている現実に沿って生きるのですからどんな現実に遭遇しても大丈夫なのです。仏法は幸福を求める教えではありません、安心を得る教えであります。

※ 実際には丁寧な言葉遣いというのは自分を守るためにあるものです。言葉の丁寧さで相手に敬意を示すという姿勢もありますが、丁寧な言葉遣いをして人間関係に適度な距離を置くことで自分を守るのです。ですから、誰に対してもタメ口でしかやりとりできないひとは「こいつは態度が悪いヤツだ」という「思い込み」を相手に与えて、マイナスの評価から人間関係をスタートしなければならない、それだけです。そのひとが本当にダメなひとかなんてわからない。タメ口しかきかないけどよく仕事をしてくれるひとは実際います。言葉遣いは丁寧だけどなにもしないひとももちろんいます。だから身なり言葉遣いとそのひとの善し悪しというものは本来関連性がない。「悪い印象」という「思い込み」があるだけなのです。