2013年8月8日木曜日

お念仏をとなえても、、、

 真宗の宗祖 親鸞さんの教えの中心は念仏、「念仏して阿弥陀如来の本願に救われよ」ということであります。私は寺に育ちましたから、小さな頃から念仏、阿弥陀さん、本願という言葉にふれてきましたが、坊さんの教師の資格をとり、住職になり、四十半ばのおっさんになった現在でも念仏して救われるということが腑に落ちず、よくわからないことの一番として残っております。お釈迦様の縁起の法、龍樹さんの空、天親さんの唯識等「なぁるほどっ!」と自分なりに仏教の考えの深さに感嘆してきたことはあるのですが、「南無阿弥陀仏」ととなえてみたところでウソ臭く感じるばかりなのであります。などと長年思っておりましたら、親鸞さんも言っておられた。
 歎異抄の九条に、
「浄土往生の道は念仏のほかないと信じて、念仏もうしているけれども歓喜の情もうとく、浄土を思慕する心も薄い。これはどうしたことであろうか。それが唯円の思い惑っていることであった。
 その不審に対して親鸞は、自分も同様であるあると答え、そしてよくよく案じ見れば、それでこそ本願念仏の有難さが感ぜられると語るのである。よろこぶべきことをよろこばせないのは煩悩の所為であり、浄土のこいしくないのは苦悩の世界に執着があるからである。そこに悲願のかけられた人間の現実があるのである。しかればその現実を機縁としていよいよ大悲大願を仰ぎ、往生も決定と思うべきである。
 念仏はわれらを恍惚の境にに導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。」(歎異抄 岩波書店 金子大栄校注から)
 そうか、親鸞さんも唯円さんもそう感じておられたのですね、という安心とともに「だから往生も決定」ということばに大どんでん返しをされた感があります。が、最後の「念仏はわれらを恍惚の境にに導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。」というところ、とても大切と思いまるまる写しました。